第55話:検品の接吻
ベルローズが王都の屋敷に移されてから、四度目の冬が過ぎようとしていた。
十九歳になったベルローズの背丈は伸び、少女の頃にあった丸い幼さは消えていた。
ドラクロワの血がもたらす魔力は、夜の静寂を震わせるほど、濃密なものへと膨張している。
同時に、彼女の頭部に冠された漆黒の角も、その存在感を増していた。
優美な曲線を描き、濡れたような鈍い光沢を放つそれは、彼女の魔力の根源だ。
それと同時に、清潔な石造りの街に住む王都の人間たちにとっては、彼女が異端であることを突きつける、呪わしい証でしかない。
ヴィクトルはこの二年の間に、単なる管理者から、ベルローズの婚約者へとその肩書きを変えていた。
王立魔導院とドラクロワの共同研究、そして技術保全のため。
それは、血の通わない政略的な婚約だった。
当時の彼は十八歳を過ぎたばかりだったが、その碧眼に宿る理知的な冷酷さは、魔導院の老練な学者たちさえも凌駕していた。
ヴィクトルはベルローズを伴い、社交の場に出ることも増えていた。
しかし、そこで彼女に向けられるのは「あれが『ドラクロワの魔女』か」という恐怖。
あるいは、歪んだ好奇心に満ちた視線だけだ。
「やはり彼らには、この角は醜く恐ろしいものとしか映っていないようだ。こうして隠しておくことが、何よりも君のためになるんだよ」
そうしてヴィクトルは彼女を、純潔という名の檻に押し込めていく。
ベルローズが好む黒や紫のドレスは「魔女を定義づける色だ」と禁じられた。
与えられるのは、眩いばかりの白や生成り、淡い色のドレス。
角を隠すのは、銀や真珠で細工された重苦しい花の冠や、真白いレースで飾られたヴェールだ。
悪意から守るという、甘い言葉の裏側で。
ヴィクトルは幾重にも重ねた装飾で、彼女の自尊心をじわじわとへし折っていった。
(……これは、本当に私なの? 私は……、誰なの)
鏡の中には、白磁の人形のような女が立っている。
漆黒の髪と深紅の瞳が、真白のなかで気味が悪いほど目についた。
そこに故郷の風の色はなく、もはや鏡に映る自分が生きているのかさえ定かではない。
ベルローズは自分という存在が、磨き上げられたただの展示品へと変貌していくのを、ただ見つめることしかできなかった。
午後三時。
陽光が石造りの床を冷たく、鋭く刺すように照らす中、ヴィクトルの声が響く。
「……ベルローズ、少し休憩しようか」
彼は、魔導理論を頭に叩き込んでいたベルローズの机の端に、銀のトレイを置いた。
そこには彼女の魔力循環に合わせて特別に調合されたハーブティーと、一点の曇りもない白磁のカップが、音もなく並べられている。
「今日の君は、数値が少し上ずっている。魔力の波形が、昨夜からずっと落ち着かないようだ。……睡眠時、何らかの外的要因に思考を割いたのかい?」
「……いいえ。ただ、窓の外の鳥の声が、少し煩かっただけよ」
ベルローズは、ヴィクトルに促されるまま席を立った。
彼女の日常は、常に監視の下にある。
彼女がペンを動かす間も、ヴィクトルは離れた椅子に座り、指先の動き、漏れ出す魔力の波長、そして呼吸の回数までも、音もなく羽ペンで記録し続けていた。
今日、彼女が纏わされているのは、重厚な絹のドレスだ。
歩くたびに、囁きのような衣擦れの音が響く。
その潔癖な白さは、ベルローズの青白い肌をかえって不健康に際立たせている。
ヴィクトルは、ベルローズの背後に回ると、彼女の肩にそっと手を置いた。
厚手の白手袋を嵌めたその手は、優しく、けれど鋼のように揺るぎない力で彼女の居場所を固定する。
「君という傑作を完成させるためには、一秒の不調も許されない。……おいで。記録を更新しよう」
彼は彼女を長椅子へと導き、横たわらせた。
ベルローズは、彼が自分に向ける熱烈な眼差しは、自分に向けられた愛情なのだと信じようとした。
そうでなければ、自分がただの魔導具として磨かれているという事実に、心が壊れてしまいそうだったからだ。
ヴィクトルが、静かに顔を近づけてくる。
整った容姿、金の髪と透き通るような碧眼。
そして、薬学室を思わせるような冷たく、無機質な香り。
(……今日こそは、違うかもしれない)
けれど、現実は残酷だった。
ヴィクトルが、ベルローズの唇を塞ぐ。
それは、恋人同士が交わす甘い口付けとは、根本から違っていた。
衣服の合わせに白手袋が掛かっても、そこにあるのは官能ではなく、ただの出力の確認作業だ。
肌を重ねる行為そのものが、彼にとっては一種の導電実験に過ぎない。
相手を悦ばせるためでも、彼の欲望を満たすためでもなかった。
むしろそうだったなら、どれほど良かっただろうかとさえ思う。
彼の舌は彼女の熱を探るというより、口腔内の魔力の伝導率を確かめるように精密に動いている。
指先は、首筋の脈を正確なカウントで刻んでいた。
(お願い。……私を見て、私を愛して。……それとも、今の私はまだ、あなたの愛を受け取る資格のない『不良品』なの?)
ベルローズが縋るように彼の背中に手を回しても、彼女の情緒に応えることはない。
ヴィクトルはどこにどう触れれば、彼女がどう反応するのか、すべて計算と記録のもとに動いている。
その愛撫には、一切の体温が感じられなかった。
「……早く、終わって」
無意識に漏れた呟きさえも、彼は『被験者の拒絶反応による心拍の上昇』として記憶に刻む。
彼が愛でるのは、肉体という名の容器から生み出される出力。
彼女の魂や身体そのものではないのだ。
ベルローズにとって、この時間は快楽などではなく、自身の輪郭が鑑定士によって細部まで検品され、解体されていく苦行に等しい。
「……うん、良い状態だ。変換効率は向上している。昨日の調整は正しかったようだね」
ヴィクトルは名残惜しさの欠片もなく身体を離すと、満足げに微笑んだ。
その頬には紅潮もなく、呼吸すら、さして乱れていない。
そして彼は、彼女の額に触れようとした指を、不自然なほど明確に止めた。
そこにあるのは、彼女の剝き出しの角。
ヴィクトルは、その角に触れるときには必ず白手袋を通し、一度たりとも直接触れようとはしなかった。
「……角の露出が酷いな。君は完成された美を纏うべきだ。この異形は、僕の設計図には存在しない」
ヴィクトルは、ベルローズの懇願するような瞳を無視し、サイドテーブルから真珠をあしらったヴェールを手に取った。
そして丁寧な手つきで、彼女の角を幾重にも覆い隠していく。
愛しさから、彼女を飾ろうとしての装飾ではない。
彼の視界から不都合な不純物を消し去り、無かったことにするための処置だった。
「君は美しいよ、ベルローズ。……その異形さえ、僕の手で正しく隠されていればね」
真珠の重みは、彼女の自尊心を物理的に押し潰す枷となっていく。
「ヴィクトル……。ヴェールが少し、重いの。それに……、あなたが直接触れてくれれば。そうすれば、私の角の熱も引くかもしれないのに」
ベルローズの弱々しい訴えに、ヴィクトルは微塵も揺るがなかった。
彼は再び白手袋を丁寧に嵌め直し、冷ややかな理性を湛えた碧眼で、彼女という資産を見下ろした。
「甘えは不要だよ。君の熱は、魔力の循環不全だ。角に触れるなどという非合理な行為で、君の純度を汚すわけにはいかないからね」
彼は彼女の頬を一度だけ、まるで検収するように指先で撫でると、一瞥もくれずに再び書類の山へと戻っていく。
ベルローズは長椅子の上に残されたままで、ヴェールに隠された角の疼きを感じていた。
重苦しい、真珠の圧迫。
自分を愛していると囁きながら、その実、自分自身の根源を異形として忌避し、矯正しようとする男。
彼女は、自分が彼の手によって人間としての形を解体され、冷たい歯車の一部へと作り替えられていく恐怖を、冷めきったハーブティーの苦味と共に飲み込むしかなかった。
王都の空が、また灰色の夜に沈んでいく。
彼女が唯一自分自身でいられる時間は、ヴィクトルの目を盗んで刺す刺繍の糸の隙間に、辛うじて残されていた。
そこにある小さな綻びだけが、彼女に残された、人間としての最後の証明だった。




