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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第8章:断絶の揺り籠

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第54話:朱色の添削

 ヴィクトルがベルローズの前に現れるようになってから、屋敷を支配していた沈黙の質が変わった。

 それまでの沈黙が、ただの不在であったとするなら。

 今の沈黙はひどく鋭利で、張り詰めた観察の気配を孕んでいる。


 相変わらず外界への扉は固く閉ざされ、鉄格子の向こうには石炭の煤に汚れた灰色の街並みが横たわっていた。

 立ち上る煙突の煙さえも、彼女を拒絶する灰色の壁のようだ。

 そんな閉塞感の中で、ヴィクトルとの対話だけが、自分という個が摩耗していくのを繋ぎ止めるための、唯一の細い命綱となっていた。


 ある日の午後。

 西陽が長く伸び、古い書架(しょか)に橙色の陰影を刻む頃。

 ベルローズは、密かに綴っていた日誌を胸に抱え直した。

 心臓が早鐘のように打っている。

 誰にも見せてはいけない、己の内面をさらけ出すことへの恐怖。

 けれど、それ以上に「彼にだけは分かってほしい」という渇望が、彼女の指を震わせていた。


「……今日は、これを書いたの。森のお屋敷にいた頃、お父様と一緒に読んだ詩の続き。いつか、お父様とお母様に聞かせたいと思って」


 孤独に震える夜、誰にも言えない故郷への思慕や、冷たい石床を素足で歩くときの寂寥(せきりょう)

 彼女はそれらを詩という形で吐き出し、紙の上に定着させることで、辛うじて己の輪郭を保っていたのだ。

 それは王都の冷たい論理に凍りつきそうな心を温めるための、小さくもかけがえのない篝火(かがりび)であった。


 ベルローズは、震える手で日誌を差し出した。

 ヴィクトルに見せるのは初めてだ。


 これで、いいのだろうか。

 私のこの(つたな)い内面を、彼はどう評価するだろう。

 もし、無価値だと言われたら、彼に軽蔑されたら。


 彼女は差し出した指先が、期待と激しい不安に耐えかねて、小さく震えていることに気づき、慌てて日誌を握り直した。

 彼の評価を待つ自分のその惨めさに、胸が焼けるような羞恥を覚える。


 ヴィクトルは、ベルローズが差し出した日誌を、まるで汚染された検体を扱うような、潔癖な手つきで受け取った。

 彼は陶器のように滑らかで温度のない、白手袋の指先で、静かに頁を捲っていく。


 窓から差し込む斜陽が、彼の白銀の衣を不気味なほど鮮やかに縁取っている。

 その影はベルローズの足元を通り越し、背後の壁まで長く、(いびつ)に伸びていた。


 沈黙が図書室を支配し、時計の刻む音が、神経を直接なぞる刃物のように鋭く響く。

 ベルローズは期待と、そして心の奥底にある得体の知れない不安に胸を膨らませ、彼の唇から漏れる言葉を待った。


 しばらくして、ヴィクトルは黙ったまま、胸元から一本のペンを取り出した。

 彼女の詩に彩りを加えるような、美しい言葉を紡ぐための金細工の羽ペンではない。

 それは凝固した血液を思わせる、(くら)い朱色のインクを(たた)えた、一本の鉄製のペンだった。


「ヴィクトル……?」


「ベルローズ。まず、この三行目だ」


 ヴィクトルが指し示したのは、彼女が昨夜、故郷を想って震える心で書き留めた一節だった。


『森の夜は、私の名をまだ覚えているかしら』


 ヴィクトルは迷いのない所作で、その美しい詩の上に太い朱線を引いた。

 紙の繊維を(えぐ)るような乾いた音が、静かな室内に響き渡る。


「帰属意識の残滓(ざんし)。不要だ」


 彼がその一文を消し去るように朱色で塗りつぶすと、ベルローズの胸に、冷たい痛みが走った。


(……自分の心の欠片を、こんなにも無慈悲に扱われるなんて……)


 けれど、ベルローズはすぐに頭を振った。

 違う、彼が正しいのだ。

 私が未熟だから、こんな感傷に囚われてしまうのだろう。


(彼が正しいの……。彼は、私を導いてくれるのだから)


「この詩の三行目にある『寂しい』という言葉。それから、この『震える』という感傷描写。……これが昨日、君の魔力出力が通常値より低下した、直接の原因だね」


 ヴィクトルは迷いのない、機械的な所作でペンを走らせた。

 彼女が夜を徹して紡いだ、切実な祈りの言葉の上に、無慈悲な朱色の線が引かれていく。


「不必要なノイズだ。君の魂を曇らせ、せっかくの純度を下げている。ここは……、そう。『安定への希求』と書き換えるべきだ」


 彼は流れるような、完璧なバランスの筆跡で、ベルローズの心の叫びを、魔導の効率を説く無機質な記号へと変えていく。


「いいかいベルローズ、感情という不純物は、事実という数式によって上書きされなければならない。君が君であるために、この醜い揺らぎは必要ないんだ」


 ベルローズは震える肩を抱きながら、呆然とそれを見ていた。

 自分の悲しみが、故郷を想う温かな涙が。

 彼の手によって『装置の不具合』として効率的に処理されていく。

 だというのに、ヴィクトルの声はどこまでも深く、慈愛に満ちた旋律を持って響いていた。


「……ねえ、ヴィクトル。どうして、こんなに朱色が目立つの?」


 彼女の口から、ふと疑問がこぼれた。

 胸の奥が、ちりちりと痛む。

 彼女は自分の言葉が侵食される感覚を抱えながらも、それは自分が悪いからだと思い込もうとする。

 ヴィクトルは微笑み、その冷たい手で彼女の頬を撫でた。


「君を守るためだよ、ベルローズ。君を苦しめる『無駄な感情』を、僕がすべて削ぎ落としてあげる。そうすれば、君はもう夜に泣く必要もなく、完璧な存在になれるんだ」


 完璧――。

 その言葉は、当時のベルローズにとって、甘く抗いがたい救いの呪文のように響いた。


「僕に任せればいい。君の苦痛を理解し、管理できるのは、世界で僕だけなのだから。他の誰も、君のこの美しさを正しく扱えはしないよ。王都の貴族にも、魔導院の連中にも。君の家族にすらね」


 そうか。

 今の自分がこんなに苦しいのは、自分が『不完全』だからだ。

 自分を支配するこの寂しさは『悪』であり、彼が施す朱色の修正こそが、自分を導く唯一の『正解』なのだ。

 彼女は自身の魂に、自らの手で呪いの(くさび)を打ち込み始めていた。


「……ねえ、ヴィクトル。お父様とお母様は、いつになったらここに来られるの?」


 無惨に塗り潰された日誌から目を逸らすように、ベルローズが(すが)るような瞳で尋ねる。


「王家が招待状を届けたそうだよ。お二人は今、禁忌の森の深部調査……、君の力をより強固に、安定させるための共同研究に協力してくれている」


 ヴィクトルは朱色に汚れた鉄ペンの先を、雪のように白いシルクのハンカチで丁寧に拭いながら、穏やかに微笑んだ。


「誇るといい、ベルローズ。君がここで調整に応じることが、ご両親への最大の助けになる。彼らもそれを望んでいるんだよ」


 その所作はあまりに優雅で、まるで汚れた魂を清めているかのようにも見えた。

 彼は聖者のような穏やかさで、ベルローズの深紅の瞳を覗き込む。


「近いうちに、君はもっと完璧で、誇らしい姿でご両親に再会できるはずだ。……その時には、この角も、僕が開発した抑制具で、美しく隠してあげよう。誰も君を怪物だとは呼ばせない。君と僕の最高傑作として、世界にお披露目しようじゃないか」


 怪物。

 その言葉が、ベルローズの胸を鋭く刺した。


 誇りだったはずの自分の証が、王都の光の下では、隠すべき不浄として定義されていく。

 けれど、彼女の目の前にいるのは、その不浄を肩代わりし、導いてくれると称する唯一の理解者だった。


「本当……? 私、頑張るわ。もっと……、もっと完璧になれば、またみんなで一緒に暮らせるのね。みんな、私のことを認めてくれるのね?」


 ベルローズの問いに、ヴィクトルは満足げに目を細めた。

 彼は白手袋の指先で、彼女の震える指をそっと包み込む。

 体温を通さないその感触は、皮肉にも今の彼女にとって、最も確かな救いだった。


「ああ、約束するよ。君が僕の設計図通りに完成し、世界を照らす星となったその時。すべては君の望み通りになる」


 ヴィクトルは一度言葉を切り、机の上に広げられたままの、朱色の線で埋め尽くされた日誌へと視線を戻した。


「さあ、次の詩も見せてくれ。君の間違いを、僕がすべて直してあげよう。一文字も余計な想いを残さないようにね」


 ヴィクトルの碧眼(へきがん)には、ベルローズという少女への愛など、一片たりとも宿っていなかった。

 そこにあるのは、日々純度を高め、己の理想とする形へと近づいていく至高の魔導素材への飽くなき執着と、自身の理論を証明する悦びだけだ。


 ヴィクトルは、ベルローズの頬を白手袋の手でそっと撫でた。

 その感触は驚くほど冷たく、生命の鼓動を感じさせない。

 それでも今の彼女にとっては、自分を形作ってくれる唯一の枠組みのように感じられた。


 ベルローズは、朱色のインクで無残に汚された自分の言葉を、胸にぎゅっと抱きしめた。

 自分の心の一部を切り取って彼に差し出し、引き換えに『偽りの安心』を買い取る。


 その歪な依存が。

 王都の地下深くに眠る、巨大な魔導炉の咆哮が。

 静かに、けれど確実に彼女の精神の根幹を蝕んでいた。


 ベルローズ。

 ドラクロワの『美しき薔薇』。


 かつて森の風の中で自由に笑い、花の名前を呼んでいた少女の輪郭。

 それが、朱色の添削という名の人格の解体によって、ゆっくりと、けれど二度と戻らぬほどに消し去られていった。

 それは愛という名の、最も洗練された蹂躙(じゅうりん)の記録であった。

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