第53話:白銀の鑑定士
深い、水底に沈んでいくような眠りだった。
あの頃、まだ少女だったベルローズは、王都近郊にあるドラクロワの別邸で暮らしていた。
王都の喧騒を避け、禁忌の森の端に構えられた屋敷で。
森の守護者として、隠者のように静かに生きていたのだ。
朝を告げるのは、森から響く小鳥のさえずりと、窓辺を揺らす瑞々しい風。
庭園の薔薇が咲き誇る季節、彼女は決まって素足で土を歩いた。
薔薇の棘が指を刺し、鮮やかな赤がじわりと滲んでも、彼女はそれを生きている証として微笑んだものだ。
土遊びでドレスの裾を泥だらけにし、母に「お転婆ね」と苦笑交じりに叱られることさえ、温かな愛の証明だった。
あの頃の世界には、触れるものすべてに体温と匂いがあった。
禁忌の森を統べる強大な魔力を宿し、その証として頭部に角を持つ一族、ドラクロワ。
かつては森の各地に居を構えていたという一族も、永い時の流れと、その強すぎる力を恐れた人間たちの排斥によって消え去っていった。
今や生き残りは、ベルローズと両親のみであろう。
彼女にとっての世界は、森の新緑だけがすべてだった。
ある日ベルローズは、重厚な馬車に揺られ、故郷である別邸を後にすることとなる。
王家との親交を深めるための社交界入りという、砂糖菓子のように甘く、その実、致死の毒を孕んだ名目を信じて。
彼女がまだ、十代半ばの頃だった。
見送る両親の顔は、苦渋を飲み込んだように強張っていた。
若かった彼女は、それが自分を二度と戻らぬ最高級の人質として差し出す、親としての断腸の思いであったことに、まだ気づいていなかった。
窓の外で鳴いていたはずの鳥たち、別邸を囲む森のざわめき。
雨を含んだ葉の揺らぎや、土の温かな吐息。
生命の拍動が、いつの間にか規則正しい、石造りの足音へと変わっていく。
――そこは、王都の北端。
高層の石造建築が立ち並ぶ、王立魔導院直轄の屋敷だった。
「今日からここが、貴女の新しい世界です」
案内された屋敷の自室は、王都の流行をこれでもかと詰め込んだ、贅を尽くした調度品で飾られていた。
天蓋付きの寝台の羽毛の柔らかさは、彼女の背中を甘やかすだけで、張り詰めた神経を休ませることはない。
活けられた白百合は、完璧な造形を保ちながらも、その花弁には命の匂いを放つ花粉の甘さや青臭さが、微塵も残っていなかった。
壁一面を飾る美しい蔦の彫刻も、窓にはめ込まれた頑丈な鉄格子を覆い隠すための虚飾に過ぎない。
それは装飾などではなく、ドラクロワの血を持つ生き物という、強大すぎる魔力を宿す種を王家の管理下に置くため。
呼吸さえも計算された、美しい檻そのものだ。
彼女は、この息の詰まるような無菌の美の中で、急速に摩耗していった。
王都での生活は、静かな窒息に似ていた。
彼女には学校という場所へ通い、同年代の友人と語らうような自由は与えられない。
代わりに家庭教師たちが、毎日代わる代わる彼女のもとを訪れる。
彼らは彼女を一人の淑女として育てるのではなく、まるで、出荷前の調整を待つ精密な魔導具のように扱った。
それと同時に、ふと彼女のまだ小さかった角に目を止めては、まるで怪物でも見たかのように目を背けるのだった。
数学、論理学、魔導回路の理論、出力の最適化。
無機質な数字の羅列ばかりが、休む間もなく、強制的に頭の中へと詰め込まれていく。
「感情を揺らすな。効率よく魔力を練り上げろ。無駄な思考は出力のノイズだ」
「貴女はドラクロワの血を引く、この国の財産なのです。個人の感傷などという不純物を混ぜてはなりません」
薔薇を愛で、季節の移ろいに心を踊らせていた瑞々しい時間は、無駄な贅肉として削ぎ落とされてしまった。
彼女の指先から、生命力に満ちた土の匂いが消えていく。
代わりに染み付いたのは、自身の存在さえも定義し直すような、鼻を突く無機質なインクの匂いだった。
「……お父様、お母様」
冷たい石造りの廊下で、彼女は幾度となく、届かぬその名を呼んだ。
けれど、返ってくるのは冷徹な家庭教師たちの「姿勢を正しなさい」という叱責。
そして、規則正しく無慈悲に時を刻む時計の針の音だけ。
それでもドラクロワとしての矜持だけは捨てずにいようと、彼女は唇を噛んで耐えながら、日々を過ごしていた。
(……私は、何のために生きているの?)
誰からも、個体としてしか扱われない日々。
自分という存在が、王都の財産としてただ陳列されているだけの置物であることに、ベルローズは限界を感じていた。
このまま誰にも理解されず、美しいだけの抜け殻として枯れていくのだろうか?
せめて誰かひとりでも、私のこの価値を正しく見出し、必要としてくれる人がいてくれたら――。
そんな破滅的な願望が、彼女の冷え切った心に芽生え始めていた。
そんな生活が数年続いた、ある日のこと。
終わりのない講義の合間の、僅かな休憩時間。
図書室の窓際で、彼女はいつものように鉄格子の隙間から見える灰色の空を眺めていた。
王都の空は、石炭の煙に重く汚れ、故郷の別邸で見ていた吸い込まれるような蒼さはどこにもなかった。
不意に視界の端で、磨き抜かれた窓に自分の角が映る。
それは日に日に魔力を蓄え、禍々しいほどの存在感を放っていた。
「……空の色を数えても、魔力の純度は上がらないよ。それは、最も非効率な現実逃避だ」
唐突に響いた、澄んだ、けれど感情の起伏をわざと削ぎ落としたような声。
驚いて振り返ったベルローズの視線の先に、一人の少年が立っていた。
自分と同年代か、あるいは少し年下に見えるその少年は、一点の塵も許さぬ、白銀の衣を纏っていた。
眩いほどの金髪が、影の多い図書室の中で不自然なほど光を放つ。
その碧眼は、彼女の内側にある魔力の奔流だけを、正確に映し出しているように思える。
「……あなたは? 許可なくここに入ることは許されていないはずよ。まして、そんな不躾な口を利くなんて」
ベルローズが消え入りそうな自尊心をかき集め、震える声で虚勢を張って答える。
少年は静かに、けれど完璧に計算された優雅な所作で、一歩歩み寄った。
「僕は、ヴィクトル。君の教育補佐と魔力の解析を、王立魔導院から任されている。それと、僕にはこの屋敷のすべての部屋への通行許可がある。君の『心の中』以外はね。……もっとも、そこも時間の問題だと思うけれど」
その少年――、ヴィクトルは、ベルローズの隣に並び、彼女が見ていた灰色の空を見上げた。
その横顔には、子供らしいあどけなさと、全てを達観し、人の死さえも数値として扱いそうな冷酷さが同居している。
ベルローズは彼から目を逸らし、呆れたように溜息をついてみせた。
「……変な人。あなたも、他の大人たちと同じね。『無駄なことはやめて、さっさと計算式を解け』とでも言いに来たの?」
「いいや。僕は、君がどれほど素晴らしい、唯一無二の価値を持っているかを知っている。この街の馬鹿な教師たちは、君を既存の汚い型に嵌めようとして失敗しているけれど……、僕は違うよ」
ヴィクトルは、初めてベルローズの瞳を正面から見据えた。
その瞳に宿る熱は、他の大人たちが向けてくる醜い欲や警戒とは、決定的に違っていた。
それは、至高の芸術品を前にした鑑定士のような、あるいは自分だけの宝物を見つけた子供のような。
純粋で、それゆえに逃げ場のない肯定だった。
「君の魔力は、この国の夜を照らす星になる。……君の価値を、その痛みを、そして君という存在の真理を正しく理解できるのは、世界で僕だけだ、ベルローズ」
孤独な、文字通りの檻の中で。
誰からも人間として見られず、ただの個体として扱われてきた少女にとって、それは初めて自分という存在をまるごと認め、救い上げてくれる言葉に聞こえた。
ベルローズの凍えきっていた心に、一筋の、けれど耐え難いほど鮮烈な熱が灯った。
それが、自分を自我のある人間から『磨き上げられた究極の魔導装置』へと作り替えるための、精密な解体作業であること。
最も甘い、精神の調整であったとも知らずに。
少年の差し出した白手袋の手が、窓から差し込む僅かな光を反射し、銀色に光っていた。
その手を取れば、もう二度と、故郷の庭園で笑った頃の自分へは戻れない。
それでもベルローズは、その破滅的な甘い囁きに吸い寄せられるように、白銀の指先へと手を伸ばした。
(……この人なら。この人なら、私を救ってくれるかもしれない)
震える指が、冷たい白手袋に触れたその瞬間から。
彼女の運命は、ヴィクトルという鑑定士の手によって、静かに、そして残酷に書き換えられていくこととなる。




