第52話:真白の繭
禁忌の森が湿った香りを放つ中。
ドラクロワ城の北翼は、停滞した空気の檻に閉じ込められている。
ルシアンの魔力で角の熱が癒やされるようになってからというもの、これまで以上にないほど凪いでいる、ベルローズの心身。
だが、肉体が平穏を取り戻したことで、静まり返った心の奥で沈めていたものが、かえって鮮明に浮かび上がるようになっていた。
ルシアンは、ベルローズから預かった重い鍵束を手にして、北翼の奥にある『開かずの間』の前に立っている。
彼女がこの城へと持ち出した数少ない荷物を、見ることさえ拒んで封印した場所だ。
今日彼が主から命じられていたのは、「不要なものを整理せよ」という、体裁のいい過去の廃棄処分だった。
「……これか。随分と、冷え切った部屋だな」
部屋の中央に、墓標のように鎮座していたのは、鈍い銀の縁取りがなされた白革の旅行鞄だった。
王都の貴族が好む、繊細だが虚飾に満ちた意匠だ。
ベルローズが王都から持ち出せたのは、胸元に隠した小さな銀の鍵一つだった。
鍵には、ドラクロワ一族の空間収納術式が刻まれている。
城へ辿り着いた彼女が、血に汚れた手でその術式を解放したとき、皮肉にも中から吐き出されたのが、この鞄だった。
ルシアンが指先を触れると、拒絶するような鋭い魔力の火花が散った。
主の記憶を守ろうとする、拒絶の術式。
だが、彼女の角を通じて深く同調したルシアンの魔力。
それを封印は『主を癒やした者』として認めたのか。
あるいは『同じ地獄を歩む者』として招き入れたのか。
カチリと硬質な音が響き、封印は呆気なく霧散した。
ルシアンが慎重に蓋を開けると、そこには王都での生活の断片が、まるで時間が止まったかのように、死装束のごとく丁寧に詰め込まれていた。
王都の乾いた香料や、古い紙の匂い、防腐剤のような甘ったるい香り。
鞄が開いた途端、封じ込められていた時間の塊がルシアンの鼻をつき、彼は思わず眉を寄せた。
生きた物が発する匂いというよりも、何かを永久に留め置くための、死の芳香に感じたのだ。
震えるような文字で綴られた詩、繊細な刺繍、形を保ったまま色褪せた押し花。
王都での僅かな余暇に少しずつ積み上げていた、彼女が言うところの『無駄』の断片。
そうした欠片のなかからルシアンが手に取ったのは、一冊の薄い日誌だった。
表紙には、銀細工の蔦が這う豪奢な装飾が施されている。
『○月○日 故郷の森が恋しい。
夜、窓から見える景色は石の色ばかりで、胸が塞がってしまう。
お父様は、いつ迎えに来てくださるのかしら。
ここでの私は、まるで魂のない蝋人形のよう。』
ベルローズの、まだ幼さの残る、孤独な筆跡。
だが、そのすぐ下の余白には、非常に丁寧で洗練された筆跡の返信が、彼女の言葉を蹂躙するように記されていた。
『寂しがる必要はないよ、ベルローズ。
君の魔力は、この国の夜を照らす星になる。
君は選ばれた存在なんだ。僕がずっと、君の隣で君の価値を証明し続けるよ。
他のみんなは君を怖がるけれど、僕は違う。
僕だけが、君の真実の理解者だ。』
その言葉は、一見すれば孤独な少女に寄り添う、至上の愛の告白に見えた。
だが、それは彼女の柔らかな自尊心を包み込み、窒息させるほどに純白で、温かな繭だ。
『今日は、少し疲れているね?
魔力の波形が、僕の好まない形に揺れている。
君の体調を管理できるのは僕だけだ。
明日からは僕の指定した時間に眠るように。
君を守るための、完璧なスケジュールだよ。
君は何も考えなくていい。』
外の世界の悪意を遮断するふりをして、彼は彼女から、世界と触れ合う権利を奪い去ったのだろう。
ルシアンが頁を捲るごとに、その優しさは、真綿で首を絞めるような歪な変質を遂げていく。
『今日のドレスは、君には似合わないようだ。
君は好んで黒や紫を身に着けようとするけれど、そうした色が君を魔女として定義する者たちの声を大きくしているんだよ。
明日からは、僕が選んだ色のドレスを着るように。
この色ならば、君の儚さがより際立つだろう。
君はもっと美しくなれる。』
『君の角はあまりに強大で、この街の野蛮な連中には理解できない。
今日からはこの布で隠しておこう。
君の美しさを無用な視線から守れるのは、僕だけだ。
僕の言う通りにしていれば、君は誰からも傷つけられない。
君が道具だと罵られるのは、僕が許さないからね』
署名はない。
だが、その言葉の端々に潜む、愛という名で相手の手足を奪い、自分に依存させる傲慢な支配の萌芽。
ルシアンは、背筋に冷たい蛇が這い上がるような薄気味悪さを感じた。
この誰かは、彼女を慈しんでいたのではない。
彼女が自発的に、誇りを捨てた無機質な部品になるよう、優しく、甘く、逃げ場を埋めていただけなのだ。
それでもその日誌の端々には、ベルローズの感謝や、歓喜の混じった拙い書き込みが混じっている。
恐怖からではなく救いだと信じて、彼女は自分から檻の鍵を閉め、彼に差し出していたというのか。
「君のため」という甘い毒に、彼女は自ら進んで浸っていた――。
その事実に、ルシアンの胸は焼けつくように痛んだ。
「……開けたのね」
背後に、いつの間にかベルローズが立っていた。
彼女は、床に散らばった王都の残骸を、憎しみさえ通り越した虚無の瞳で見つめている。
だが、ルシアンの手の中にある日誌に気づくと、彼女の視線は開かれた頁に釘付けになった。
呼吸さえ忘れたように静止したまま、ベルローズの指先が、目に見えて震え始めた。
自らの過去に触れ、かつての自分が喜んで差し出した首輪の跡を突きつけられ、彼女は言葉を失っている。
「……捨てられなかったのではないわ。……捨て方すら、分からなかったのよ。私が自分から進んで、都合のいい部品になろうとしていた、愚かな日々の記録を」
彼女の声は、氷のように冷え切っている。
過去の記録は彼女にとって、一度飲み込んでしまったまま、吐き出せない毒のようなものだった。
ベルローズが震える指で、自らの角に触れる。
かつて「君を思ってのことだ」と囁かれ。
恥ずべきもの、隠すべき醜いものとして封じられた、自尊心の象徴。
「いいわ、ルシアン……。今日はもう下がりなさい。……今の私なら、正しくこれを汚物として、捨て去ることができる気がするから」
「……わかった」
ルシアンは何かを言いかけ、喉の奥まで出かかった言葉を飲み込む。
だがその声は、獲物を前にした獣が、無理やり鎖を噛み締めているような硬さを帯びていた。
ベルローズの横顔は、今にも壊れそうな危うさと、己の過去を焼き尽くそうとする強固な決意を同時に宿していた。
今の彼女に必要なのは、自分が傍にいることでも、慰めの言葉でもないのかもしれない。
一人の夜を戦い抜くための静寂なのだ。
ルシアンは、背後で扉が閉まる音を背に部屋を後にした。
◆
(……あの、日誌の書き手)
一人、薄暗い廊下を歩きながら、ルシアンはひとつの確信を、その鋭い嗅覚で嗅ぎ取っていた。
かつて自分を虐げた、金髪で、白手袋の男。
ベルローズの名前を『素材』として呼んだあの男。
彼が自分の過去について語った夜、彼女が見せたあの瞳。
『……そう。あの男は、まだ何も変わっていないのね』
絶望に塗りつぶされながらも、拭い去れぬ諦観を含んでいた、ベルローズの表情。
ルシアンは、無意識に牙を剥き出し、低く唸った。
自分の人生を奪った男が、目の前の主の心までも、愛という名目で踏みにじっていた。
その事実に、胸の奥で煮えたぎるような殺意が膨らむ。
彼女の心に深く刺さった棘を、その場で引き抜いてやれない自分への苛立ちに、ルシアンは忌々しげに舌打ちをした。
だが彼は同時に、ベルローズが自分を部屋から遠ざけた理由も理解していた。
ピピやアマンダ、そしてルシアンという確かな盾があるからこそ。
ようやく過去の汚物と正対し、それを自身の力で灰にする覚悟を決めたのだ。
「……せいぜい、しっかり焼き尽くせよ」
ルシアンは独り言をこぼし、暗い廊下の先を睨み据えた。
◆
その夜、ベルローズは熱に浮かされていた。
角の発熱からくる痛みではない。
それは、過去を拒絶しようとする魂の震えだ。
窓の外に広がる禁忌の森のざわめきが、いつの間にか、石造りの王都の冷徹な静寂へとすり替わっていく。
寝台の上で浅い呼吸を繰り返す彼女の意識は、今、ドラクロワの現在を離れ、あの日へと落ちていった。
誰も信じられない、怪物を見るような視線だらけの中で。
天使のような微笑みを浮かべて手を差し伸べてきた、あの少年の透き通るような瞳。
「君のすべてを理解できるのは、僕だけだ」
どんな呪いよりも甘く、そして完膚なきまでに人格を解体する、確かな毒を孕んだあの日。
夢の深淵で、彼女の封印されていた物語が再び動き始める。
彼女が精緻な『魔導装置』へと作り替えられるための、完璧に構築された日々の始まりだった。




