第51話:王都の足音
朝の光は、ドラクロワ城のテラスに鋭くも柔らかな影を落としている。
ルシアンは身支度を整え、城の玄関ホールに立っていた。
その胸元には、前夜にベルローズが仕上げたばかりの紋章が、誇り高く鎮座している。
指先でなぞればまだ、針を通した際に彼女が注ぎ込んだ魔力の熱が残っているようだった。
ルシアンは、昨夜これを布切れと呼んだ自分の舌を、今更ながら噛み潰したいような衝動に駆られていた。
ただの守護具ではないのだ。
彼女が自分のために、その夜の時間を削って、作り上げてくれたもの。
薔薇の蔓と獣の爪痕を模した、その意匠。
ルシアンは紋章をじっと見つめ、何かを祈るように、あるいは決意を新たにするように、そっと目を閉じた。
ベルローズが音もなく歩み寄り、ルシアンの胸元に白く細い指を添えた。
指先が布越しに彼の胸板に触れた瞬間。
昨夜、熱を帯びた彼女の角を冷却した際の、あの狂おしいほどの熱と震えが、ルシアンの脳裏を鮮烈に駆け抜ける。
「ルシアン。これは、単なる飾りではないの」
ベルローズの声が、冷えた大理石のホールの高い天井に反響した。
彼女はルシアンの襟元を整えながら、一文字ずつ魂に刻みつけるように続ける。
「城の結界の一部を私の魔力で切り出し、この刺繍に封じ込めたものよ。……これがある限り、たとえ地の果てにいても私はあなたを、あなたは私を見失わない。無様に失くしたり、汚したりしないで。いいわね」
それは、誇り高い彼女にできる最大限の依存であり、自身の命の半分を分かち合うという、血よりも重い誓約だった。
ルシアンは喉の奥を低く鳴らし、彼女の柘榴石のような瞳を、逸らすことなく正面から見据えた。
「……ああ。そんな真似はしねぇよ」
二人の間に流れる、密やかで重厚な空気。
それを切り裂いたのは、足元から響く、湿った胞子の弾ける音だった。
「ルシアンさん、動かないで。……よし、完了です」
見れば、アマンダがルシアンの靴裏に、淡い琥珀色の胞子を丁寧に塗りつけていた。
森の腐葉土に似た、どこか懐かしくも湿り気を帯びた匂いが立ち昇る。
「危ねぇな、何やってんだ」
「アマンダ、また君は……。交易のときに荷物に潜り込むのは禁止だって、あれほど言っただろ?」
ピピが呆れたように溜息をつくが、アマンダは首を横に振った。
「いいえ、今日はお留守番の仕事をします。……ルシアンさんの靴の裏に、わたしの菌糸を繋いでおきました。森の根っこたちに伝えて、嫌な匂いが近づかないか、ずっと見張っていますから。……気をつけてね、二人とも」
アマンダの琥珀色の瞳は、いつになく真剣だった。
森から響いてくる不吉な気配をいち早く察知し、彼女なりに警戒しているのだ。
ルシアンは小さく頷き、ピピと共に城を後にした。
今回の目的地は、『鴉の止まり木』よりもさらに王都側に位置する中継拠点、『陽光の市場』だった。
街道が交差する肥沃な土地で、空を衝くような巨木の麓に、色とりどりの天幕がひしめき合っている。
市場へ一歩足を踏み入れれば、そこは城の静寂とは対極にある、生命力の奔流だった。
山積みになったオレンジの皮から、弾けるように眩しい香りが陽光に輝く。
籠からは溢れんばかりのハーブの束が顔を出し、ミントやローズマリーの清涼な香りが熱気に混じって漂っている。
土の付いた瑞々しい根菜、黄金色の蜂蜜、そして香ばしく焼かれた全粒粉のパンの匂い。
王都の貴族たちが好むような洗練された食料ではなく、食べる者の血肉となるための、生々しいまでの活力がそこにはあった。
「ねぇルシアン。この新鮮なオレンジ、いくつか買っていこうか。ベルローズ様もアマンダも、きっと喜ぶと思う」
「ああ。そうだな」
「そのまま食べてもいいし、絞ってもいいし……。ジャムにしたり、お茶の時間用に何かお菓子を焼くのもいいかもね……」
ピピは真剣な表情で青果店を覗き込んでは、ひとつひとつ果実を吟味していく。
ルシアンは一歩引いて、市場の色とりどりの色彩を眺めている。
だが、その活気の中に、一滴の墨汁を落としたような違和感が混じっていた。
「おい、ピピ。次はあっちの香草だ」
「わかってるって。……でも、おかしいな」
ピピが足を止めたのは、スパイスを扱う商人の天幕の前だった。
彼の灰色の瞳が、不快そうに細められる。
石の精霊としての彼の感知能力が、喧騒の底に沈む、冷酷な異物を捉えていた。
「どうした?」
「魔力の残滓が、冷たすぎる気がして。王都の魔導院特有の、あの無機質な術式の匂いだ。……誰かがここに来ている。それも、つい最近」
ルシアンの背筋に、冷たい戦慄が走る。
鼻腔をくすぐっていたスパイスの香りが、一瞬にして凍りついた鉄の臭いに上書きされたように感じた。
彼らは何食わぬ顔で、以前も取引したことがある老商人に近づいた。
「景気が良さそうだね、ご主人。最近、王都からの客も多いのかい?」
ピピが、銀貨を指先で弄びながら問う。
商人は周囲を一度、警戒するように見回すと、声を潜めた。
「ああ。……最近、『白銀の調査隊』を名乗る連中が、この辺りをうろついていてな。商売の邪魔で仕方ねぇ。」
「……へぇ。詳しく聞かせてもらっても?」
ピピの目が鋭く尖り、ルシアンはフードの下で耳を立てて周囲を警戒する。
活気がある市場の中で、店主たちの目だけが落ち着かない。
王都へと向かう側の通路だけ、明らかに人波が避けているかのようだ。
「……妙なリストを持っていやがった。この辺りに、珍しい身体の特徴を持つ奴がいないか、高密度の魔力を宿した素材がないかって、しつこく嗅ぎまわってやがるんだ」
商人がカウンターの隅に置いた、一枚の書面。
そこに押されていたのは、見る者の神経を逆撫でするような、銀色の封蝋だった。
幾何学的な歯車の紋章が刻まれたその封蝋は、紛れもなく王立魔導院のもの。
「……『不完全な部品を、本来の場所へ戻す』。命令書にはそう書いてあったよ。まったく、気味の悪い連中だ。あんたもそう思うだろ?」
ルシアンの指先が、無意識に胸元の紋章を強く握りしめた。
紋章に込められたベルローズの魔力が、ルシアンに共鳴するように脈打つ。
(……不完全な、部品)
ルシアンの喉の奥から、低い唸り声が絞り出された。
自覚するより先に、牙が剥き出しになり、握り込んだ拳に爪が食い込む。
痛みでようやく、自分が憤っているのだと理解した。
脳裏に、かつて檻の中で自分を観察対象としてしか見ていなかったあの男の、温度のない眼差しが浮かぶ。
あの男は、まだベルローズを、自分の計算式の中に組み込める所有物だと考えているのか。
ルシアンのことは、あの時の事故で失った『壊れた素材』とでも思っているだろう。
だが、万が一彼らの捜索がドラクロワ城まで及べば、真実が露呈するのは時間の問題だった。
「……行くぞ、ピピ。ここはもう、長居する場所じゃねぇ」
ルシアンの声は、もはや怒りを通り越し、研ぎ澄まされた刃のような殺意に満ちていた。
城への帰路、夕闇が迫る森の道を、二人は急ぐ。
先ほどまでの市場の喧騒が遠のき、背後に何かが迫ってくるのではないかという気配に、ルシアンの耳は絶えず警戒態勢をとっている。
アマンダの胞子が足元で微かに発光し、影の濃くなった獣道を導いている。
だが彼の心は、すでに城で待つ主の元へと飛んでいた。
城門を越え、玄関ホールに立つベルローズの姿を視界に捉えた瞬間、ルシアンは荷物を放り出すような勢いで駆け寄っていく。
「ベルローズ!」
ルシアンは彼女の目の前で、乱れた息を整えながら立ち止まった。
彼の蒼い瞳は、激しい気の昂りから、妖しい光を放っている。
食い入るように彼女を見つめるルシアンの気配に、ベルローズは深紅の瞳を驚きに揺らした。
「ちょ、ちょっと、ルシアン! 待って、置いてかないでよ!」
水晶のような羽を闇のなかで輝かせながら、ピピが息を切らして追いついてくる。
「ハァ……、ハァ……。いくら何でも急ぎすぎだってば。ほんと、どんな脚してるのさ……」
ピピは不満げに文句を言いながらも、ルシアンの背中から立ち昇る尋常ではない緊張を察し、それ以上からかうのを止めて口を噤んだ。
「そんなに息を切らして……、二人とも、一体どうしたというの……」
ルシアンは胸元の紋章を握りしめ、ベルローズの魔力を感じていた。
いくつも湧き出してくる言葉を飲み込み、一言だけを告げる。
「いや。……ただ、もう二度と、……あんたをあっち側に戻させる気はねぇ」
ルシアンは、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
市場で見かけたあの無機質な銀色の封蝋も、生命を否定する命令書も、彼女の目には決して触れさせない。
ただ命令に従うだけの、従順な騎士ではいられない。
王都から迫りくる影を、その根源ごと噛み砕き、食い破ろうとするような、苛烈な眼差し。
「……わかったわ。おかえりなさい、ルシアン、ピピ」
ベルローズは彼の異変を察しながらも、それ以上は何も問わなかった。
城を包む闇の向こう側。
王都の冷徹な時計の針が、着実に彼女たちの平穏を削り取ろうと動き出している。
だが、ルシアンの胸元の紋章は、夜の帳の中で、冷たく輝き続けていた。
誰にも譲らぬ領土を、強く宣言するように。




