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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第7章:凪の庭園

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第50話:茨の指先

 雨上がりの夜、ドラクロワ城は深い水底に沈んだような静寂に包まれていた。


 主の居室、一点の曇りもなく磨かれた黒檀(こくたん)の机の上では、魔導灯の淡い光が円い輪を作っている。

 その真下で、ベルローズは一人、刺繍(ししゅう)枠を手に針を運んでいた。


 アマンダが庭に蒔いた『星見(ほしみ)(こう)』が、開かれた窓から微かに流れ込んでいる。

 それは眠りを誘うものではなく、精神の表層にある雑音を払う。

 意識を針先の一点へと研ぎ澄ませる、凛とした冷たさを持つ芳香だった。

 ベルローズは深呼吸を繰り返し、自身の心をその香りで満たしていく。


 彼女が選んだのは、夜の色を映したような深紫の絹布(けんぷ)

 そこに、銀の針が規則正しい音を立てて潜り、再び這い出しては、緻密な幾何学(きかがく)模様を編み上げていく。


 王都の冷たい屋敷にいた頃の彼女には、こうした自身の意思を込める時間は、何よりも厳しく禁じられていた。


(……そんな無益なことに、君の魔力を割くべきではない。非効率だ)


 脳裏に、記憶の底に(おり)のように沈んだ声が響く。

 眩いほどの金髪と、慈悲などひとかけらも宿さない碧眼(へきがん)


 白手袋越しにしか彼女を検品せず、その肌の熱に直接触れることを決してしなかったあの男。

 彼はベルローズの指先が描くものを、すべて数値として査定していた。

 ベルローズが丹念に編み上げる刺繍も、精製すべき魔力を無駄に散らす『不合理な遊戯』であり、管理対象の逸脱(いつだつ)でしかなかったのだ。


(不愉快ね……。思い出すことさえ、忌々しい)


 ベルローズは眉を寄せ、針を動かす速度を上げた。

 集中が限界を超えて深まるにつれ、漆黒の角が、内側から妖しい赤紫色に発光し始める。


 魔力の精密な制御は、彼女の肉体に確かな負荷を強いていた。

 角の根元から、疼くような、焼けるような熱がじわじわと広がり、視界が(ほの)かに白む。


 だが、彼女は手を止めない。

 この無益な時間こそが、誰にも、あの男にさえも侵されない、彼女自身の誇りを取り戻すための、孤独な儀式だったのだから。


 その時、静かなノックの音が、夜の静寂を叩いた。

 ベルローズが返事をするより先に、扉が僅かに開く。


「……やっぱり、まだ起きてやがったな」


 ルシアンだった。

 彼は一度足を止め、ベルローズの様子をじっと窺う。

 サファイアブルーの瞳は、一点に凝固した彼女の背中と、不自然に発光する角の熱を、野性の直感で即座に捉えていた。


 獣の鼻先を(かす)めるような、魔力の過負荷による焦げたような匂い。

 それが、彼をこの部屋へと引き寄せていた。


「ルシアン……。あなた、言いつけも守れないのね」


 ベルローズは溜息をつき、針を止めたが、振り返ることはしなかった。

 声は抑制されているものの、痛みに耐えるための硬さが混じっている。

 ルシアンは無言で歩み寄り、彼女の背後に立った。


「……許可なく入るなって、言ったはずよ」


 ベルローズはそう零しながらも、彼を追い出さない。

 それが、彼女が許した唯一の特権であることを、二人は無言のうちに理解していた。


「言われたな。……だが、あんたの角がここまで赤くなってんのを放っておけるほど、俺の勘は鈍っちゃいねぇよ」


 ルシアンはそう言い切ると、迷いのない所作で手を伸ばした。

 彼の大きな手が、ベルローズの頭部に冠された、熱を帯びた角へと伸びる。

 醜い欠陥品の象徴として蔑まれ、ずっと彼以外の誰にも素手で触れさせなかった、その忌まわしき部位に。


 ベルローズは過去の記憶に囚われ、身を固くした。

 だが、触れたのは、彼女の予想を裏切るほどに慎重で、精密に制御された指先だった。


 ルシアンの指先から、清冽(せいれつ)な氷の魔力が、滴る水のように流れ込んでくる。

 彼女を縛り付け、人格を抹殺しようとするあの冷たさではない。

 燃え盛る熱を優しく包み込み、安らぎへと導く、献身の冷気だった。


「……っ」


 ベルローズの口から、熱い吐息が零れる。

 ルシアンは黙ったまま、彼女の角を包み込むようにして冷やし続けた。

 彼の手は、戦うための強靭な手だ。

 それでありながら、彼女に触れるときは、脆いものを慈しむような手つきに変わる。


「……何のために、こんな布切れに命を削るような真似をしてんだよ」


 ルシアンは低く問いかけた直後、自分の言葉の乱暴さに気がつき、ふと押し黙る。

 後悔を滲ませたその沈黙の間に、ベルローズは静かに睫毛を伏せた。


 刺繍枠の中には、交易へ(おもむ)くルシアンが身につけるための、守護の意匠が形作られつつある。

 蔓薔薇に、獣の爪跡を絡ませたような、美しく繊細な文様だった。


 自分の手の届かないところで、彼の命が危険に晒されるのは御免だ。

 彼女の不器用で切実な祈りが、一針ごとに刻まれている。

 だが、ベルローズはそれを口にすることはない。


「……無益、だからよ」


「はぁ?」


「効率、数字、合理性……。そんなものが支配する場所では、この糸一本の重みさえ理解されない」


 そう語るベルローズの横顔は、いつもの冷徹な仮面が僅かに剥がれかけ、危うさを覗かせている。


「だから、私はそうしているのよ。……誰のためでもない、私が私のために選んだ、最も美しい無駄なの」


 ルシアンは、応える言葉を持たなかった。

 ただ、彼女の角に触れる手の力を、ほんの僅かだけ、守護と執着を滲ませるように強める。


「……あんたが選んだなら、それでいい。その代わり、熱くなりすぎたら俺が止める。……それが俺の役目だろ」


 素っ気ないけれど、絶対的な肯定。

 ベルローズは、自分の角に触れるルシアンの体温を感じながら、ゆっくりと深く呼吸を整えた。

 醜いと断じられ、白手袋の向こう側に追いやられていた自分自身の欠片。

 それが、今、ルシアンの剥き出しの指先によって、この上なく大切なものとして扱われている。


 角の疼きが引いていくと共に、彼女の心に巣食っていた過去の影も、夜の静寂へと溶けていく。

 ベルローズは再び針を手に取り、今度は少しだけ、柔らかな手つきで紫の糸を引いた。

 その指先が無意識に、守護の紋章を丁寧に整える。


「……ルシアン」


「あ?」


 ベルローズは振り返らずに、けれど先程よりもずっと柔らかな声で続けた。


「少し、冷えすぎたわ。……温かいお茶を、ピピに淹れさせて。二人分、ここでいただくことにしましょう」


 ルシアンは意外そうに目を丸くしたが、すぐに口角を僅かに上げた。


「……ああ、わかった。こんな時間まで起きてたのかって、ピピの小言付きになるだろうが、我慢しろよ」


 ルシアンは名残惜しそうに指先を離すと、闇の中へと消えていった。

 扉が閉まる音を聞きながら、ベルローズは再び針を手に取った。


 ややあって、彼女は何かを考えるようにふと針を止める。

 指先が、刺繍箱の中でわずかに彷徨(さまよ)った。

 深紫の糸の束をすり抜け、夜の底に沈むような、かすかに青を宿した糸を選び取る。

 それは、先ほどまで部屋に残っていた冷気の名残を思わせる色だった。


 彼女は無言のままで、その糸を針に通す。

 誰のためでもない、自分のために選んだはずの、無駄な時間。


 だが、今はその糸のひと針ひと針が、不思議と、誰かのために在る喜びを孕んでいる。

 ベルローズは僅かに微笑むと、夜の深紫へと再び針を滑らせていく。


 窓の外には、王都の整然とした灯りなど届かない、彼女たちが選び取った豊かな暗闇だけが満ちていた。

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