第50話:茨の指先
雨上がりの夜、ドラクロワ城は深い水底に沈んだような静寂に包まれていた。
主の居室、一点の曇りもなく磨かれた黒檀の机の上では、魔導灯の淡い光が円い輪を作っている。
その真下で、ベルローズは一人、刺繍枠を手に針を運んでいた。
アマンダが庭に蒔いた『星見の香』が、開かれた窓から微かに流れ込んでいる。
それは眠りを誘うものではなく、精神の表層にある雑音を払う。
意識を針先の一点へと研ぎ澄ませる、凛とした冷たさを持つ芳香だった。
ベルローズは深呼吸を繰り返し、自身の心をその香りで満たしていく。
彼女が選んだのは、夜の色を映したような深紫の絹布。
そこに、銀の針が規則正しい音を立てて潜り、再び這い出しては、緻密な幾何学模様を編み上げていく。
王都の冷たい屋敷にいた頃の彼女には、こうした自身の意思を込める時間は、何よりも厳しく禁じられていた。
(……そんな無益なことに、君の魔力を割くべきではない。非効率だ)
脳裏に、記憶の底に澱のように沈んだ声が響く。
眩いほどの金髪と、慈悲などひとかけらも宿さない碧眼。
白手袋越しにしか彼女を検品せず、その肌の熱に直接触れることを決してしなかったあの男。
彼はベルローズの指先が描くものを、すべて数値として査定していた。
ベルローズが丹念に編み上げる刺繍も、精製すべき魔力を無駄に散らす『不合理な遊戯』であり、管理対象の逸脱でしかなかったのだ。
(不愉快ね……。思い出すことさえ、忌々しい)
ベルローズは眉を寄せ、針を動かす速度を上げた。
集中が限界を超えて深まるにつれ、漆黒の角が、内側から妖しい赤紫色に発光し始める。
魔力の精密な制御は、彼女の肉体に確かな負荷を強いていた。
角の根元から、疼くような、焼けるような熱がじわじわと広がり、視界が仄かに白む。
だが、彼女は手を止めない。
この無益な時間こそが、誰にも、あの男にさえも侵されない、彼女自身の誇りを取り戻すための、孤独な儀式だったのだから。
その時、静かなノックの音が、夜の静寂を叩いた。
ベルローズが返事をするより先に、扉が僅かに開く。
「……やっぱり、まだ起きてやがったな」
ルシアンだった。
彼は一度足を止め、ベルローズの様子をじっと窺う。
サファイアブルーの瞳は、一点に凝固した彼女の背中と、不自然に発光する角の熱を、野性の直感で即座に捉えていた。
獣の鼻先を掠めるような、魔力の過負荷による焦げたような匂い。
それが、彼をこの部屋へと引き寄せていた。
「ルシアン……。あなた、言いつけも守れないのね」
ベルローズは溜息をつき、針を止めたが、振り返ることはしなかった。
声は抑制されているものの、痛みに耐えるための硬さが混じっている。
ルシアンは無言で歩み寄り、彼女の背後に立った。
「……許可なく入るなって、言ったはずよ」
ベルローズはそう零しながらも、彼を追い出さない。
それが、彼女が許した唯一の特権であることを、二人は無言のうちに理解していた。
「言われたな。……だが、あんたの角がここまで赤くなってんのを放っておけるほど、俺の勘は鈍っちゃいねぇよ」
ルシアンはそう言い切ると、迷いのない所作で手を伸ばした。
彼の大きな手が、ベルローズの頭部に冠された、熱を帯びた角へと伸びる。
醜い欠陥品の象徴として蔑まれ、ずっと彼以外の誰にも素手で触れさせなかった、その忌まわしき部位に。
ベルローズは過去の記憶に囚われ、身を固くした。
だが、触れたのは、彼女の予想を裏切るほどに慎重で、精密に制御された指先だった。
ルシアンの指先から、清冽な氷の魔力が、滴る水のように流れ込んでくる。
彼女を縛り付け、人格を抹殺しようとするあの冷たさではない。
燃え盛る熱を優しく包み込み、安らぎへと導く、献身の冷気だった。
「……っ」
ベルローズの口から、熱い吐息が零れる。
ルシアンは黙ったまま、彼女の角を包み込むようにして冷やし続けた。
彼の手は、戦うための強靭な手だ。
それでありながら、彼女に触れるときは、脆いものを慈しむような手つきに変わる。
「……何のために、こんな布切れに命を削るような真似をしてんだよ」
ルシアンは低く問いかけた直後、自分の言葉の乱暴さに気がつき、ふと押し黙る。
後悔を滲ませたその沈黙の間に、ベルローズは静かに睫毛を伏せた。
刺繍枠の中には、交易へ赴くルシアンが身につけるための、守護の意匠が形作られつつある。
蔓薔薇に、獣の爪跡を絡ませたような、美しく繊細な文様だった。
自分の手の届かないところで、彼の命が危険に晒されるのは御免だ。
彼女の不器用で切実な祈りが、一針ごとに刻まれている。
だが、ベルローズはそれを口にすることはない。
「……無益、だからよ」
「はぁ?」
「効率、数字、合理性……。そんなものが支配する場所では、この糸一本の重みさえ理解されない」
そう語るベルローズの横顔は、いつもの冷徹な仮面が僅かに剥がれかけ、危うさを覗かせている。
「だから、私はそうしているのよ。……誰のためでもない、私が私のために選んだ、最も美しい無駄なの」
ルシアンは、応える言葉を持たなかった。
ただ、彼女の角に触れる手の力を、ほんの僅かだけ、守護と執着を滲ませるように強める。
「……あんたが選んだなら、それでいい。その代わり、熱くなりすぎたら俺が止める。……それが俺の役目だろ」
素っ気ないけれど、絶対的な肯定。
ベルローズは、自分の角に触れるルシアンの体温を感じながら、ゆっくりと深く呼吸を整えた。
醜いと断じられ、白手袋の向こう側に追いやられていた自分自身の欠片。
それが、今、ルシアンの剥き出しの指先によって、この上なく大切なものとして扱われている。
角の疼きが引いていくと共に、彼女の心に巣食っていた過去の影も、夜の静寂へと溶けていく。
ベルローズは再び針を手に取り、今度は少しだけ、柔らかな手つきで紫の糸を引いた。
その指先が無意識に、守護の紋章を丁寧に整える。
「……ルシアン」
「あ?」
ベルローズは振り返らずに、けれど先程よりもずっと柔らかな声で続けた。
「少し、冷えすぎたわ。……温かいお茶を、ピピに淹れさせて。二人分、ここでいただくことにしましょう」
ルシアンは意外そうに目を丸くしたが、すぐに口角を僅かに上げた。
「……ああ、わかった。こんな時間まで起きてたのかって、ピピの小言付きになるだろうが、我慢しろよ」
ルシアンは名残惜しそうに指先を離すと、闇の中へと消えていった。
扉が閉まる音を聞きながら、ベルローズは再び針を手に取った。
ややあって、彼女は何かを考えるようにふと針を止める。
指先が、刺繍箱の中でわずかに彷徨った。
深紫の糸の束をすり抜け、夜の底に沈むような、かすかに青を宿した糸を選び取る。
それは、先ほどまで部屋に残っていた冷気の名残を思わせる色だった。
彼女は無言のままで、その糸を針に通す。
誰のためでもない、自分のために選んだはずの、無駄な時間。
だが、今はその糸のひと針ひと針が、不思議と、誰かのために在る喜びを孕んでいる。
ベルローズは僅かに微笑むと、夜の深紫へと再び針を滑らせていく。
窓の外には、王都の整然とした灯りなど届かない、彼女たちが選び取った豊かな暗闇だけが満ちていた。




