第49話:雨後の庭
昨夜まで窓を叩いていた激しい雨は、明け方には止んでいた。
ベルローズはバルコニーへ出ると、雨上がりの冷気を含んだ風を深く吸い込む。
漆黒の髪が風に揺れ、深紅の瞳が眼下に広がる庭園を捉えた。
禁忌の森に近いこの地の雨は、時に異質なものを運んでくる。
かつてのドラクロワ城の庭園は、一族が愛した完璧な秩序の中にあったはずだが、今の庭は違う。
森の奔放な生命力が石造りのテラスを浸食し、雨が降るたびに、見たこともない色彩の植物が勝手に芽吹こうとするのだ。
「……少し、荒れてしまったわね」
ベルローズは、黒いレースをあしらった深紫のドレスの裾を持ち上げ、石造りの階段を降りた。
庭園には既に、それぞれのやり方で城を整える先客たちがいた。
「ベルローズ様、見てください。雨が、素敵な贈り物を運んできましたよ」
アマンダが濡れた花々を掻き分けて顔を出す。
彼女が管理する花の根元には、柔らかな白い苔状の菌類が広がっている。
土壌の湿度を保ち、枯葉を分解して栄養に変えるその白い絨毯は、アマンダが慈しむ庭の隠れた功労者だ。
彼女が指差す先、切り株の影には、雨の魔力を吸って成長した『銀鈴草』が透明な雫を湛えていた。
釣鐘のような花が、風が吹くたび高く澄んだ魔力の共鳴音を響かせる。
不純な魔力が近づくと音が濁るため、庭の警報器代わりにもなる便利な植物だ。
「いいわね。……けれどアマンダ、あちらを見て」
ベルローズが顎で示した先には、美しく整えられていたはずの薔薇の茂みがあった。
いつもならば、零れるように誇らしく咲き誇っている薔薇。
そこには森から飛来した、どろりと濁った緑色の粘液を滴らせる蔦が、無遠慮に絡みついている。
「欲張りな子。……困りますね、他の子の栄養まで欲しがるなんて」
アマンダが困ったように首を傾げる傍らで、ピピは実務的な秩序の修復に没頭していた。
石の精霊である彼にとって、この庭園は自身の体の一部も同然だ。
石造りの通路を侵食する苔や雨の泥は、彼の神経を逆撫でする雑音に他ならない。
「ああ、もう! このベンチの脚、また細かいヒビが入ってる。アマンダ、君が根を伸ばして遊ぶからだぞ!」
小言を言いながらも、ピピは礎石に指先を触れる。
彼の灰色の瞳が微かに光を帯びると、石材の亀裂に銀色の魔力が染み込み、傷跡を縫い合わせるように滑らかに修復していった。
「ルシアン、そこ! 足跡をつけないでよ。せっかく磨き上げたんだから!」
「いちいちうるせぇな、ピピは。空でも飛べってのか?」
ピピの傍らで、流れ出した花壇の土を補っていたルシアンは、鬱陶しそうに尾を振ってみせる。
「精霊の僕にできることを、幻獣の君ができないはずないだろ? 努力が足りないんだよ」
「はっ。だったらお前も、その努力ってやつで氷塊のひとつやふたつ出してみせるんだな」
土を補充し終えたルシアンは、傾いた薔薇の支柱を慎重に整えながら、ピピに応じる。
軽口を叩き合う二人の間には、もはや揺るぎない信頼が滲んでいた。
「ルシアン、少しいいかしら? ……こちらへ」
ベルローズが静かに名を呼ぶと、ルシアンは黙って歩み寄ってきた。
彼は薔薇に絡みつく蔦に気がつくと、鋭く睨みつける。
「また面倒なもんが流れてきたな。お前は下がってろ、魔力を吸われる」
「ええ、お願い。……丁寧にね」
ルシアンは短く頷くと、大きな手を蔦へと伸ばした。
普通の魔導士なら、触れるだけで魔力を枯渇させられる代物だ。
彼は注意深く魔力を制御し、蒼い炎で蔦だけを精密に焼き切っていく。
蔦は意志を持っているかのように緑色の樹液を撒き散らしてのたうち、やがて灰も残さず消え失せた。
薔薇の花びら一枚焦がすことのない、あまりに繊細な力の行使。
ベルローズは、その洗練された力の使い方に、彼の騎士としての成長と決意を見ていた。
「終わったぞ」
ルシアンは振り返ると、ふと視線を落として眉をひそめた。
ベルローズのドレスの裾に、僅かな泥が跳ねている。
「……汚れてる。動くなよ」
彼はその場に片膝をついて跪いた。
主従の境界線を踏み越えるような、危うさのある近さだが、ベルローズは身構えもしない。
ルシアンの長い指先が布地に触れ、微かな氷の魔力を放つと、泥汚れは一瞬で凍りつき、乾いた砂のようにはらはらと崩れ落ちた。
「よく気が付いたわね」
「ふん……、大したことじゃねぇ」
素っ気なく応じる彼の首元で、紫の薔薇を象ったチョーカーが湿った空気の中で静かに艶めいている。
ベルローズは、人間の身体を御しきれずにもがいていた頃の彼を思い、懐かし気に目を細めた。
「ねえ、ベルローズ様。仕上げにこれを撒いてもいいですか?」
アマンダが掌に乗せた『星見の香』を見せて微笑んだ。
微かに甘い香りが漂うその金色の粉末には、雑念を払って精神を落ち着かせる効果があった。
「……とても静かで、澄んだ心になれる香りがしますよ。みんなの、夜の大切な時間のために」
「ええ。もちろん構わないわ」
ベルローズは、アマンダが風に放った光の粒が、霧雨のように庭園へ溶けていくのを眺めた。
湿った土と焦げた蔦の匂い、そして隣に立つ彼の体温。
王都の石壁に囲まれていた頃には、決して知ることのなかったものだ。
一通りの浄化が終わる頃、テラスのテーブルには温かな茶の支度が整えられていた。
「さあ、休憩にしましょう。雨上がりの冷えは体に毒だ」
ピピが手際よく給仕を始める。
ベルローズには深みのある紅茶、アマンダには花の蜜をひと匙加えたハーブティー。
ルシアンの前には、彼が本来好む冷水ではなく、湯気が立ち上るカップが置かれた。
身に宿す魔力を考えても、あまり彼に似つかわしいとはいえない。
「……ピピ。あんた、俺の能力を忘れたのか?」
ルシアンが眉をひそめてカップを覗き込む。
中身は、香ばしい茶葉にたっぷりのミルクを加えた、濃厚なホットティーだ。
ピピは平然とした顔で、自身の白湯を一口啜ってから応えた。
「忘れるわけないだろ、全部計算済みだよ。君、庭の手入れで魔力を繊細に使い過ぎ。今は、あえて外側から熱を入れないと、正確な出力が維持できなくなるよ」
ピピの灰色の瞳には、皮肉ではなく、ルシアンの体調を正確に見抜く、冷たくも優しい色が宿っていた。
「砂糖は入れてないから。甘ったるいのは得意じゃないだろ?」
ルシアンは一瞬、虚を突かれたように黙り込み、やがて不器用に視線を逸らしてカップを手に取った。
一口、恐る恐る口を付ける。
……熱い。
けれど、ミルクの濃厚な風味が乾いた喉を通っていく感覚は、悪くない。
むしろ、凍てついた雪原のような自身の魔力が、芯からじんわりと解けていくような心地よさがある。
ルシアンはカップを持つ手に力を込め、少しだけ口角を緩める。
普段の冷たい水や、獲物を仕留めた後の血の味とは違う、誰かが自分のために用意してくれたぬくもり。
自分を案じてくれているのだと悟り、彼は無意識にカップを手放せなくなっている。
「……いちいち細かいんだよ。……チッ、熱ぃ」
文句を言いながらも、ルシアンはカップをテーブルに戻そうとはしない。
その不器用な執着を、ピピは横目で盗み見ていた。
「それが僕の規律だからね。ほら、アマンダ、君も笑ってないで早く飲みなよ」
「ふふっ、二人とも仲良しですね」
熱さへの警戒心から耳を立て、慎重にカップに口をつけるルシアン。
背筋を正し、素知らぬ顔で白湯を口にするピピ。
それを見つめながら、心から楽し気に笑うアマンダ。
ベルローズはその穏やかな光景に満足したかのように、静かにカップを傾けた。
やがて夕闇が迫り、庭に植えられた薔薇が魔力を帯びる。
そしてひとつ、またひとつと、深い眠りを誘うような柔らかな光を花弁に含み、開花し始めた。
ルシアンはふと、隣で静かな時間を楽しむベルローズの横顔を盗み見る。
彼女の深紅の瞳には、この凪いだ時間を受け入れる穏やかさがあった。
そして、彼女をじっと見つめていたルシアンにしか気が付けないほどに、ごく僅かに微笑んだ。
ルシアンは、しばらくカップの縁に唇を寄せたまま、温かなミルクの余韻に浸っていた。
やがて彼は空になったカップを置くと、自らの大きな掌を見つめた。
かつては死を待つだけだった自分が、今はこうして誰かと、温かいものを分け合っている。
星見の香がきらりきらりと辺りに舞い、雨上がりの湿った空気を甘く塗り替えていくなかで、ドラクロワ城は、静かに夜の帳へと沈んでいった。




