第48話:慈雨に沈む
禁忌の森に、銀色の針を無数に振り落とすような雨が降り注いでいる。
普段の城を支配する、耳に痛いほどの静寂とは異なる、無数の水滴が地を叩く低いざわめき。
それは外界からのあらゆる干渉と、忌まわしい過去の足音を遮断する、天然の帳となってドラクロワ城を包み込んでいた。
「……あぁ、最悪。この湿気、石の継ぎ目にまで染み込んで、僕の関節が鳴り出しそうだよ」
庭園の奥、薔薇を複雑に絡みつかせた東屋の下では、ピピが苦い顔で茶の準備を整えていた。
「っていうか、ルシアン。君はさっきから、何をそんなに忙しなく耳を動かしてるんだい。お茶の味が落ちるじゃないか」
ピピが刺々しい小言を投げかけた先で、ルシアンは低い姿勢のまま、濡れた耳を小刻みに震わせて雨水を払っていた。
濃藍色の髪はたっぷりと湿り気を帯び、重く垂れて不機嫌そうな尾は、等間隔で地面を叩いている。
「……雨音が、うるさすぎるんだよ。鼻も、風の読みも利きやしねぇ。守る側からすれば、これほど厄介な日はねぇな」
ルシアンの声は低く抑えられていたが、そのサファイアブルーの瞳は、雨のカーテンの向こう側で揺れる二人の人影を、獲物を射抜くような鋭さで見つめている。
氷の魔力を操る彼にとって、冷たい雨は本来、自らの領域に近い現象だ。
だが、野生に身を置く上で、視界と嗅覚を封じられることは、無防備になることを意味する。
彼の五感は、降りしきる雨音の向こうに潜むかもしれない不浄の気配を捉えようと、過敏なまでに昂ぶっていた。
「ベルローズは雨の静かさが好きなんだろ、あんたも少しは楽しんだらどうだ。石の身体なら、溶けてなくなる心配もねぇだろ」
「何お気楽なこと言ってるんだよ。僕が気にしているのは、あっちから戻ってきた二人が、どれだけの泥と胞子を持ち込むかってことさ」
ルシアンの皮肉な言葉に、ピピは肩をすくめてみせ、東屋の柱についた微かな結露を、シルクのハンカチで執拗に拭い始めた。
その指先は、絨毯が汚される未来を想像してか、微かに痙攣している。
「見てみなよ、アマンダなんて、今にもキノコそのものになりそうな顔して歩いてるじゃないか。あーもう、城内の絨毯が嘆いてるのが、僕の耳にははっきりと聞こえてくるよ」
ピピはそれだけ捲し立てると、最後にもう一度ハンカチで柱を叩き、深いため息をついた。
二人は並んで、雨の中に佇むベルローズとアマンダを遠く見守る。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、その場には静かな雨音だけが支配していた。
自らの過去を曝け出したルシアンと、それを受け止めたベルローズ。
その間に流れる空気が、この慈雨によってどう形を変えるのか。
ピピも、ルシアンも、言葉には出さないが、互いに痛いほど案じているのだ。
あの二人は今頃何を話しているのだろう、どんな表情で戻ってくるのだろうか、と。
その頃、雨に煙る薔薇の迷宮の中を、ベルローズとアマンダは静かに歩んでいた。
ベルローズは黒い、重厚なオイルシルクの傘を差し、アマンダはいつもの大きなキノコの傘を揺らしながら、雨に濡れて重く頭を垂れる薔薇を眺めていく。
この庭には、汚れなき真白の薔薇など一輪もない。
ベルローズの愛する、もはや夜の闇のように濃い赤や、夕暮れ時の空に筆を走らせたような深い紫。
そんな色彩が、どこか彼女の心を慰めるように寄り添い、凛と咲き揃っていた。
ベルローズの黒いドレスの裾は雨に濡れて重さを増し、足取りを不自由にさせている。
それでも彼女はその不快感さえ、どこか心地よく受け入れていた。
今、この雨に濡れて土の香りを漂わせる自分自身が、やけに人間らしく思えていたのだ。
「……静かね。雨の音だけが、余計な思考をすべて塗りつぶしてくれる。まるでこの城が、世界の底に沈んでしまったかのよう」
ベルローズが呟くと、隣で水溜りを避けるように踊る足取りで歩くアマンダが、琥珀色の瞳を潤ませて見上げた。
彼女にとって雨は、土の眠りを覚まし、生と死を循環させる祝祭の合図だ。
「ええ。花たちも、喉を潤して笑っています。……今のベルローズ様は、とても綺麗な、夜の色をしていますね」
アマンダが無邪気に放った言葉に、ベルローズの歩みが僅かに止まる。
(今の、私……)
白手袋に包まれた、自分を個体ではなく数値として査定する、あの冷徹な指先。
あの場所は完璧に管理され、塵一つない代わりに、生命の湿り気が一切排除された乾いた檻だった。
雨は、それらの屈辱的な記憶を洗い流し、今、この城に流れる冷たくも確かな現在だけがすべてなのだと、彼女に伝えてくれる。
数字の羅列に頭を痛める必要も、今はないのだと。
「……そう。あそこには、雨さえ届かない場所があったもの。完璧に管理された、血の通わない静止だけがあったわ」
ベルローズは、雨露に濡れる深紅の薔薇に指を伸ばした。
鋭い棘が指先を僅かに掠め、一筋の紅い傷を作る。
その確かな痛みに、彼女は自分が素材や部品ではなく、血の通った、痛みを知る生き物であることを再確認する。
傷ができれば痛いし、雨に打たれれば寒い。
けれど、これこそが生きているということだ。
ふと、ベルローズは東屋の暗がりに佇むルシアンの姿を見やった。
(ルシアンは……、今何を考えているのかしら。……戦いもしない雨の散歩を、退屈だと思っているでしょうね)
彼は、かつて雪深い霊峰で、これよりも冷たい水に打たれ、命を削りながら生きてきたはずだ。
その彼が今、自分を待つためだけに、あの閉ざされた東屋で不自由そうに耳を震わせ、じっとこちらを見つめている。
ベルローズはその視線に、唇をわずかに緩めた。
「ベルローズ様? もしかして、ルシアンさんのことを考えていますか?」
アマンダが覗き込むように尋ねる。
彼女の言葉は、時に残酷なほど、ベルローズが言葉にできない、あるいは言葉にすることを禁じている核心を掬い上げる。
「……お喋りが過ぎるわ、アマンダ。……戻りましょう。ピピが、お湯を冷まして怒っているかもしれない」
東屋に戻った二人を、ルシアンは無言で迎えた。
彼はベルローズの前に立つと、あらかじめ用意していた厚手の白い綿布を広げ、彼女の肩を包み込むように丁寧に着せかける。
その動作には、野生の荒々しさは微塵もなく、ただ冷えた彼女を温もりの中に閉じ込めようとする、精密な慎重さが宿っていた。
「……冷てぇな。唇の色が悪い」
ルシアンの低い声が、至近距離で響く。
彼は迷うことなくベルローズの濡れた髪に触れ、布越しに丁寧に、かつ力強く水分を吸い取っていった。
もはや彼に、主に触れていいのかなどと逡巡する迷いはない。
不浄だと自嘲した過去は、あの日、彼女の手を握りしめた熱によって溶け落ちていた。
ベルローズもまた、その大きな手が触れるのを、拒むこともなく静かに受け入れていた。
普段ならば、自身の尊厳を侵す無遠慮な接触として、強く遠ざけるはずの距離。
だが今の彼女にとって、ルシアンの指先から伝わる不器用な労わりは、雨に冷えた体温を繋ぎ止めるための、唯一の拠り所だ。
されるがままになっている自分に気づきながらも、彼女がそのぬくもりを拒むことはなかった。
「ピピ、ベルローズが冷えてる。早く茶の支度しろ」
「言われなくてもやってるよ! ほら、アマンダ、君はそこから一歩も動かないで! 今すぐその泥だらけの足を、僕のプライドにかけて拭き取ってあげるから」
ピピの忙しない小言と、アマンダの「ふふふ! ピピ、くすぐったい!」という明るい笑い声。
そして、ルシアンの指先が、布越しにベルローズの髪を梳き、雨の湿気を拭っていく重厚で柔らかな感触。
かつて王都で、ベルローズが強いられていた完璧な静止にはなかった、雨の日の揺らぎ。
それぞれの個が織りなす、歪で、けれど温かな安らぎ。
ベルローズは紅茶の横に添えられた木苺を一粒摘む。
ルシアンが先刻森から持ち帰ったばかりのそれは、紅玉のようにつややかだ。
彼女はその鋭い酸味に、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、ルシアンが差し出した熱いカップを受け取り、立ち上る湯気に目を閉じる。
彼女は今、この束の間の温もりだけを静かに心に抱きしめていた。




