第45話:氷解の刻
語り終えたルシアンの唇から、長く、重い吐息が零れた。
テラスの石床には、彼から溢れ出した憎悪の残滓が薄っすらと白く霜を刻み、夜の空気は肺を刺すほどに鋭利に研ぎ澄まされている。
父に、不浄と断じられた日々。
王都の者たちに、命ではなく、素材と呼ばれた記憶。
自身の根源であるはずのサファイアブルーの輝きが、かつての絶望と混ざり合い、今再び彼をあの沈黙の檻の中へと引きずり戻そうとしていた。
「……これが、俺の正体だ。この城の温もりを壊して回る、……出来損ないの冷気だ」
ルシアンは、自らの魔力で凍りついた指先を凝視する。
彼は自身の異質さが、主であるベルローズさえも凍りつかせてしまうのではないかという、剥き出しの恐怖に震えていた。
遠ざけなければならない。
この不浄な手で、触れてはいけない。
そう思えば思うほど、彼の内側からは野生の防衛本能が突き上げ、彼の『人』としての形を内側から歪ませようとする。
その時、背中に回されていたベルローズの腕の重みがふっと消えた。
見捨てられたのか、とルシアンの心臓が冷たく跳ねた瞬間――。
彼女は音もなく彼の隣へと歩み、そのまま正面へと回り込んだ。
ルシアンの冷気を受けて、肌や唇は色を失い、ドレスと髪には霜が花のような文様を描いている。
それでもその深紅の瞳だけは、夜の闇の中で静かに燃えていた。
「……ベルローズ」
ルシアンが顔を背けようとするよりも早く、彼女は迷うことなく彼の間近へと一歩踏み込む。
彼女は、ルシアンが凝視していた凍りついた手を、自らの温かな両手で包み込むようにして強引に奪い去る。
ベルローズは逃げ場をなくすようにして、彼のサファイアブルーの瞳を真っ向から見つめた。
「……ルシアン、勘違いしないで」
ベルローズの短い声が、夜の静寂を鋭く裂いた。
彼女は片手を伸ばし、指先でルシアンの首元のチョーカーに、そっと触れる。
かつて彼女が王都の呪縛を砕き、彼を獣から騎士へと書き換えた、血よりも濃い契約の証。
「今のあなたにとって、その『人の姿』は、生存のために強いられた不本意な妥協ではない。……あなたが、自らの意思で選び取ったものよ。そうでしょう?」
「……俺が、選んだ……?」
ルシアンは息を呑んだ。
霊峰にいた頃のこの姿は、制御しきれない魔力が漏れ出した結果だった。
一族の形を保てない、醜いなり損ないの証でしかなかった。
幻獣の姿でいられない自分を、彼は誰よりも恥じていたのだ。
「ええ。あなたはその強大な魔力を、私と共に抑え込んで、人の形に納めてみせた。それは紛れもなく、あなた自身の騎士としての選択。……私を隣で支えるために、あなたが望んだ形よ」
「…………」
ルシアンは沈黙し、彼女の手の中に置かれた自分の掌を見つめた。
今、この掌は驚くほど自然に、彼女の肌に馴染んでいる。
ピピに執拗なほど念入りに寝癖を直される頭、厨房で生地を練った手。
アマンダに教えられた花畑で、繊細な花を押しつぶさないようにして摘んだ指。
勝手に尾に花を差し込まれ、鬱陶しそうに振り払った感覚。
ベルローズのために、栞を選んだこの手。
彼女の角の熱を受け止め、過去の傷を支えた掌。
それらすべてが、今の自分を形作る欠片だ。
彼女の指先が頬を撫でるのを、同じ体温を持つ存在として受け止めるため。
彼女に寄り添い、彼女の傷にも、同じ優しさで触れるために。
ルシアンは無意識のうちにこの姿を望み、完成させていたのだ。
(……ああ。確かに、そうだな。俺は、あんたのそばにいたくて、この姿になったんだ)
自覚した瞬間、魂を縛っていた重い呪縛が音を立てて砕け散った。
かつては自分を引きずり下ろす呪いだったこの身体が、今は彼女の隣に立つための、かけがえのない器として肯定される。
「誇りなさい。その瞳も、その指先も。……誰にも、それを貶めることは許さないわ」
彼女の指先から、熱い魔力が流れ込む。
それは城を統べる薔薇の香りそのものだ。
ルシアンを支配しようとしていた霊峰の冷気を、外側からではなく内側から、ゆっくりと、けれど力強く溶かしていく。
「そして、ルシアン。……あなたが不浄だというのなら、この私もまた、不完全な欠陥品よ」
彼女の瞳の奥に、かつての冷徹な記憶がよぎる。
それは、愛という名の調整によって、自尊心を削り取られた者だけが持つ、昏い拒絶の残り火。
彼女はルシアンを哀れんでいるのではない。
ただ、鏡を覗き込むように、その痛みを自身の血肉として分かち合っていた。
「けれど今、あなたの瞳の色を美しいと感じているこの私が、偽物だとでも言うつもり?」
彼女の指先が、チョーカーからそのままルシアンの頬へと滑る。
彼女の熱に触れた瞬間、刺々しく逆立っていたルシアンの魔力が、急速にその攻撃性を失っていく。
刺すような青い光は、穏やかで澄んだ湖面のような輝きへと落ち着き、テラスを白く覆っていた霜が、夜の風に溶けて消えた。
ルシアンの肩から強張りが消え、彼は深く、深く息を吐いた。
凍てついた過去が溶け、ドラクロワ城の湿度に馴染んでいく感覚。
過去の傷はまだ傷み、彼を苛む。
だが、その傷みの名前は確かに変わった。
暫しの沈黙の後。
ルシアンはふと、混濁した記憶の底で、ずっと引っかかっていた音を思い出し、静かに口を開く。
彼女の肌のぬくもりを感じている今だからこそ、言わなければならないことがあった。
「……あの男は、いつもあんたの名を呼んでいた」
「……え?」
ベルローズの指先が、微かに跳ねる。
「……あいつが俺の様子を見にくる度に聞かされた。逃げ出した『ベルローズ』という女が、どれほど優れていたかってな」
ルシアンの言葉に、ベルローズの深紅の瞳が驚きに揺れる。
その巡り合わせの残酷さに、彼女は喉の奥を微かに震わせた。
「……その男は、白手袋をして……、金色の髪をしていなかった?」
「ああ。王都の清潔な汚れを凝縮したみてぇな、胸糞悪い男だった」
ルシアンは、苦痛を押し込めるように眉を寄せると、彼女の手を握り返す手に力を込めて続ける。
「……あんたという人間じゃねぇ。あんたの中に流れる魔力だけを……、計り知れねぇ価値がある部品だと、そう呼んでた。あいつの目には、命なんて映っちゃいない。俺も……、あんたも、ただの便利な道具なんだよ、あいつらにとっちゃあな」
ベルローズは、自らの角を覆うかのように、額にそっと手を添えた。
喉の奥から、乾いた、けれど重厚な諦観を孕んだ吐息が漏れる。
「……そう。あの男は、まだ何も変わっていないのね」
長い睫毛を伏せながら、ベルローズが口にした言葉。
それはルシアンにとって、予期していた以上に重く、暗い響きを持っていた。
彼女が誰を思い浮かべ、どんな過去を反芻しているのか。
ルシアンは、それ以上問い詰めようとはしなかった。
今の彼にできることは、ただ、彼女の肌を焼く震えを静かに見守ること。
そして今度は自分が、この人間の手で彼女を支えることだけだ。
「あんたが言いたくねぇなら、話さなくていい。……今は俺が、ここにいる」
「……ええ」
ベルローズは顔を上げた。
そこには、過去に吞み込まれる脆弱さも、声高な憤怒もない。
ただ、侵入者を決して寄せ付けない、ドラクロワ城の主としての矜持だけがあった。
(……俺はもう、あの暗い檻の中にはいねぇ)
再び顔を上げたルシアンの瞳には、かつての獣の絶望ではなく、彼女の傍らに立つに相応しい、揺るぎない騎士としての意志が宿っていた。
彼が選び取ったその指が、彼女の手を優しく、けれど離さぬよう強く握り締める。
その手はもう、血を求める獲物を探してはいない。
ただ一人の主を守り、彼女の震えを止めるためにあるのだ。




