第46話:研ぎ澄まされた沈黙
嵐が去った後の夜明けは、あまりに静かだった。
ドラクロワ城の庭園、テラスに差し込む光は、まだ冷たい白を帯びている。
けれど、それは霊峰の拒絶するような白ではなく、微睡みから覚めたばかりの、乳白色の光だ。
ルシアンはそのテラスの隅に腰を下ろし、膝の上に横たえた短剣を黙々と研いでいた。
湿った砥石が鉄を削る規則的な音が、朝霧の立ち込める森へと静かに吸い込まれていく。
ルシアンにとって、本来、武器など不要だった。
彼には強大な幻獣としての力も、己に根差した氷と蒼炎の魔力もある。
ひとたび野性を解放し、鋭利な爪と牙を剥き出しにすれば、並の兵士など数秒と経たずに肉の塊に変えられるだろう。
こうして人間の武器を扱うのも、はじめはピピとの訓練のために、嫌々ながら始めたことだった。
だが、この一振りの短剣を振るうには、人間としての理性と、洗練された指先の制御が必要だ。
彼にとって、あえて人間の道具を手入れすることは、自分を部品でも獣でもなく、ベルローズに選ばれた騎士として繋ぎ止めるための、切実な儀式だった。
研ぎあげられた短剣には、自分の澄んだサファイアブルーの瞳が映っている。
ルシアンは、昨夜の出来事を何度も反芻していた。
自分の醜い過去も、呪われたような蒼い瞳も、彼女はすべてを受け入れた。
不浄だと断じられた自分を、「美しい」とさえ言ってのけたベルローズの熱。
自分を縛り付けていた北の雪原の記憶が、彼女の温もりによってゆっくりと溶かされていく感覚。
それが今も、首元のチョーカーや、彼女の手を握った指先に、鮮明な温度として残っている。
(……この指先で、今度はあいつの手を引けるようにならねぇとな)
ルシアンは砥石に当てる刃の角度を、慎重に調整する。
指先の感覚を研ぎ澄まし、荒ぶる殺意を、洗練された矜持へと変換していく。
その指先には、もうかつてのような、獲物を求める疼きはない。
彼は自らの意思で、その手を制御していた。
指先で確かめる刃の鋭さは、自分を肯定してくれたベルローズを、そして彼女が愛するこの静かな凪を汚そうとする不浄を撥ね退けるための、誓いの重さだ。
彼は今、かつてないほど丁寧に、騎士としての矜持を研ぎ澄ましていた。
「……おはようございます、ルシアンさん。今日の朝露は、とても甘いですよ」
背後から、瑞々しい花の香りと共に、穏やかな声が届いた。
アマンダだ。
彼女は両腕いっぱいに、朝露を湛えたままの薔薇や、名もなき野の花を抱えて立っていた。
その衣服からは微かに光る胞子が零れ、朝光に反射してきらきらと舞っている。
以前のように、ルシアンのそばに寄るだけで胞子が凍り付いて落ちていくようなことは、もうなかった。
「アマンダか。……早いな」
「ええ。今日は、花たちがとても嬉しそうに歌っていたので、わたしもつられて。……ピピはもう、厨房に立って茶葉を選んでいますよ。今日はきっと、特別な香りのものを選ぶはずです」
ピピが選ぶのは、きっとルシアンの氷解を祝うような、鼻に抜ける香りが華やかな銘柄だろう。
アマンダはルシアンの傍らに音もなく歩み寄ると、花を抱えたまま、ふふ、と喉を鳴らして笑った。
その琥珀色の瞳は、いつになく深い安堵と輝きを湛えている。
「ルシアンさん。今日のあなたは、ちっとも尖っていませんね」
彼女は覚えていた。
少し前まで、この騎士の周りだけ時間が凍りつき、森の呼吸さえ拒絶していたことを。
彼が放つあまりに鋭く、悲しい魔力の棘が、城の静寂さえも刺していたことを。
あの時のアマンダには、彼を包む孤独な氷を溶かす術はなく、ただ悲しげにその背中を見送るしかなかった。
だが、今は違う。
「……昨日までは、あなたの周りだけずっと、暗い雪が降っているみたいでしたが……。今は、陽光を跳ね返す、とても深い湖のようです」
アマンダには、彼の背後で氷の刃のように逆立っていた魔力が、今は城の庭園に根を下ろす大樹のように、どっしりと、それでいて穏やかに波打っているのが感じられていた。
ルシアンは短剣を拭う手を止め、少しだけ決まり悪そうに、それでも拒絶することなく視線を逸らす。
「……そんなわけあるか。俺はいつも通りだ」
「いいえ。鳥たちも、さっきからルシアンさんのことを見ていますよ。ほら、あの子なんて、あなたの髪で巣作りをしようか迷っているくらいです」
アマンダが視線を促すと、テラスの欄干や近くの木の枝に、色鮮やかな小鳥たちが数羽止まっていた。
いつもならルシアンが放つ鋭い殺気に怯えて、決して近寄らないはずの彼ら。
それが今は、安堵したように羽を休め、羽繕いをしたり囀り合ったりしている。
そのうちの一羽が、勇気を出してテラスの手すりまで飛び降りると、ルシアンが研いでいる短剣の光を不思議そうに覗き込んだ。
ルシアンは僅かに目を細めてその小鳥を眺め、ふっと唇を緩める。
城を包む空気が、ルシアンという一人の騎士の心が凪いだことによって、少しずつ、けれど確実に豊かな調和へと向かっている。
「森の呼吸が、あなたにも届いているんですね。……本当に、良かった。あんなに寒そうだったあなたの魔力が、今はこんなに優しく、お城の薔薇たちと笑っています」
アマンダは慈しむような眼差しでルシアンを見つめたあと、抱えた花を零さないように、軽やかな足取りで城内へと戻っていった。
彼女にとって、ルシアンがどんな凄惨な過去を語ったのか、その仔細はどうでもいいことなのだろう。
ただ、この城に住まう大切な仲間から棘が消え、大好きな主が愛する場所が少しだけ暖かくなった。
それだけで、彼女にとっては世界が一つ、正解に近づいた証だった。
一人残されたルシアンは、鞘に収めた短剣の重みを確かめ、小さく息を吐いた。
凭れかかっていた壁から背を離すと、冷たい朝の空気が驚くほど心地よく流れ込んでくる。
ルシアンの肺を満たしていく、森の清浄な大気と、庭園の花々の香り。
喉を焼くような鉄の匂いは、もうしなかった。
(……笑っている、か。この俺が。……柄じゃねぇな)
ルシアンは、主が目覚めるであろう部屋の窓を見上げる。
朝の光が庭園を照らし、世界がゆっくりと色彩を取り戻していく。
死を待つだけだった獣は、もうここにはいない。
その背中は、もはや孤独な出来損ないでも、使い捨てられる部品でもなく、ドラクロワ城のすべてを背負う騎士のそれだった。
ルシアンは守るべき現在のために、清々しい空気の中へと踏み出していく。
以前よりも少しだけ柔らかな、けれど決して揺るぎない足取りで。




