第44話:境界線の咆哮
運命は、一閃の雷光と共に反転した。
王都を目前にした、禁忌の森付近の峠道。
荒れ狂う嵐の中、ルシアンを乗せた重装甲の護送車は、落雷による魔導回路の暴走という、整備不良さえ疑わせる事故に見舞われた。
魔導具が、禁忌の森の濃厚な魔力場に干渉されて不安定化し、制御を失ったのだ。
自らの技術を万能だと過信した王都の人間の傲慢さから生まれた、自業自得の結末だった。
制御不能となった鉄の塊は、断末魔のような金属音を上げながら石畳を脱輪する。
視界が上下に激しく回転し、遠心力によってルシアンの身体は聖銀の格子に幾度も叩きつけられた。
聖銀の首輪が骨に食い込み、脳を揺らす衝撃が走る。
胃の裏がせり上がるような浮遊感とともに、護送車は底の見えない崖下へと転落していく。
衝撃と共に檻の底が抜け、ルシアンの体は冷たい泥濘の中へと放り出された。
「……ッ、ガ、……っ……」
全身の骨が軋み、肺がひしゃげたかのような衝撃。
激しい雨が傷口を洗うが、そこに安らぎはない。
首に深く食い込んだ聖銀の拘束具が、逃げようとする彼の意識と魔力を、依然として無慈悲に吸い上げ続けているのだ。
呼吸をするたびに鉄の枷が喉を締め上げ、鋭い火花のような激痛が、火傷の跡のように彼を苛む。
自由への一歩を踏み出そうと四肢に力を込めるたび、首元の聖銀が激しく発熱し、彼の魔力を根こそぎ奪い去っていく。
生きようとする意志そのものが、死への引き金となる残酷な回路。
ふと、背後の大破した車体の残骸から、泥を捏ねるような不気味な音が響いた。
ルシアンの視界の端で、何かが蠢いている。
それは、生き物の四肢を無造作に接合された、複数の肉塊。
隣の区画にいた造り物――、キメラたちが、制御を失って這い出していたのだ。
キメラは豪雨に打たれながら、不揃いな節足でのた打ち回り、生命の残滓を求めてルシアンへと這い寄る。
生理的な嫌悪が、死にかけた彼の魂に唯一の、最後の抵抗を灯させた。
(……来るな、触るな。俺は、お前らみたいな……、無機質なバケモノにはならねぇ……!)
ルシアンは剥き出しの敵意を瞳に灯し、感覚の失せかけた四肢を無理やり動かした。
悍ましい鉄と腐肉の匂いへの拒絶感だけが、彼を死の淵から突き動かす。
彼は威嚇の唸りを喉の奥で押し殺し、血を吐きながら闇が支配する森の奥へと這い込んだ。
「降りて追え! 素材を逃がすな!」
崖の上で、追撃しようとした兵士の怒号が響く。
だが、その声はすぐに怯えへと変わった。
そこから先は、王都の人間さえ立ち入ることを禁じられた、呪われた場所。
一歩足を踏み入れれば、二度と生きては戻れぬとされる『禁忌の森』だ。
兵士たちは逃亡する黒い影に向けて銃弾を放った。
その中の数発が、ルシアンの脇腹を、背を、深く抉る。
だが兵士たちは、禁忌の森が放つ、まるで巨大な獣の口の中に吸い込まれるような異様な圧迫感に呑み込まれることを恐れ、それ以上の深追いを断念した。
「……チッ。聖銀の弾を喰らったんだ、どうせあの中の植物に食い殺されるか、毒で死ぬだろう。報告には『事故による全損』で処理しておけ」
無機質な捨て台詞が、遠く響く雷鳴に消える。
ルシアンが決死の思いで踏み込んだ禁忌の森は、彼が知る霊峰の自然とは根本から異なっていた。
頭上を覆う巨大な樹木の葉からは、粘り気のある露が滴り、剥き出しの木の根は血管のように脈打っている。
時折、闇の奥でぱきりと硬質な音が響くのは、捕食植物が獲物を捕らえた合図だろうか。
だが、この森はただ死を撒き散らすだけではないようだ。
足元には、見たこともないほど毒々しい紫色の木の実が実り、その断面からは甘ったるい芳香が漂っている。
生き物の活力を奪う代わりに、一時的に力を与えるような、狂った生命力がこの森には満ちていた。
ルシアンはその実を無造作に噛み砕き、溢れ出す苦い汁で喉を湿らせた。
空腹を満たすためではなく、ただ、死神の鎌を数秒だけ押し留めるためだけに。
しかし、現実は非情だった。
脇腹の傷口からは聖銀の毒が血液に混じり、肉を焼き切るような激痛が這い回る。
身体が芯から凍りつき、一方で傷口は熱病のように燃えている。
一歩踏み出すたびに視界は歪み、木々の緑は黒い怪物となって襲いかかってくるようだ。
(……クソが。……足が、動かねぇ……)
雨は激しさを増し、流れる鮮血を無慈悲に押し流していく。
凍えるような冷たさが体温を奪い、視界は次第に白く染まっていった。
もはや、ここがどこなのか、自分を縛っていたあの白手袋の男への復讐も、自分が誰なのかさえも分からなくなっていく。
もつれた足が、剥き出しの木の根に絡まる。
抵抗する力は残っていない。
ルシアンの身体は無様に転がり、冷たい泥の中に沈み込んだ。
(……ああ、これで……、ようやく、終わるのか……)
最後の一息を、震える鼻先から吐き出す。
一族を失い、誇りを奪われ。
部品として使い潰される寸前で、この名もなき森の土になれるなら。
それは彼にとって唯一の、そして最高の安息のように感じられた。
瞼が、酷く重い。
このまま目を閉じれば、二度とあのような鉄と油の匂いを嗅がなくて済むのだ。
死を待つだけの彼の意識を、不意に、ある香りが揺り動かす。
鉄と泥の不浄、そして死の予感さえも一瞬で上書きするように漂い始めた、甘美な薔薇の香り。
それは、彼が今までに嗅いだどんな花とも違っていた。
凛としていて、誇り高く、それでいて周囲を絶望的に拒絶するような鋭い気高さ。
死を待つだけの凍えた肺に、その香りが鮮烈な生の色を、無理やり流し込んでいく。
(……なんだ、この匂い……。山には……、こんな匂いの花、咲いてねぇ……)
混濁した意識の中で、彼は見上げた。
霧の向こう側。
冷たく聳え立つ、古城の黒い影。
はじめは幻覚かとも思えた香りは、確かにそちらから流れてくる。
禁忌の森の混沌とした生命の香りとは一線を画す、気高くも冷徹な芳香。
そこは自分と同じように世界から追われた者の逃げ場なのか、あるいは更なる地獄の入り口なのか。
ルシアンは、再び這い出した。
泥を掴み、剥き出しの根を掴み、震える四肢を引きずりながら、ただその香りの源へと魂を引かれていく。
必死で呼吸するにつれ、薔薇の香りがすべてを塗り替えていくような感覚。
一歩、また一歩。
森の境界を越え、崩れた外壁の瓦礫を乗り越える。
そこは、禁忌の森の混沌を拒絶するように展開された、静謐な結界の内側だ。
ルシアンが死の淵で抱いていたのは、王都への猛烈な憎悪と、薔薇の香りに惹かれる純粋な渇望だった。
城の結界は彼を、世界に絶望し、行き場を失った同類として静かに受け入れていた。
踏み出した足の下で、冷たい泥が、手入れされた石畳の感触へと変わる。
(……どうせ死ぬなら、ここで死にてぇ……。俺の死に場所がここで……、よか……っ)
鉄の臭いも感じず、誰にも利用されることのないこの場所で、この命を終わらせたい。
そこまでだった。
張り詰めていた糸が、ぷつりと音を立てて切れる。
もはや、指先一つ動かすことは叶わない。
意識が深い闇へと転落していく間際、彼は感じていた。
雨に打たれながらも、決して折れることなく咲き誇る薔薇の存在。
その凛とした香りが、絶望に満ちた彼の魂を、静かに、けれど何よりも強固に繋ぎ止めている。
泥まみれの獣を、闇の中で静かに呼吸する薔薇の城だけが見下ろしていた。




