第43話:沈黙の檻
車輪の音が、ある瞬間を境に硬く、規則的な響きへと変わった。
柔らかな土を蹴る振動、湿った雪を踏みしめる懐かしい音は、もう聞こえない。
冷徹に舗装され、無機質な幾何学模様を刻む、王都近郊の石畳。
それが、ついに逃げ場のない完全な支配圏の中へ踏み込んだことを、微振動となってルシアンの脊髄に告げていた。
鼻を突くのは、喉を焼くような石炭の煙と、粘りつくように重い機械油の臭気だ。
そして、至る所に漂う処理しきれない死の腐臭を、強引に覆い隠すための、不自然に甘ったるい防腐剤の匂い。
王都特有の不浄な文明の香気が、鋭敏な獣の嗅覚を無慈悲に蹂躙する。
ルシアンは霊峰の、肺の奥まで凍りつくような澄み切った無垢の空気の中で生きてきた。
彼にとってそこは、呼吸をするたびに魂が黒い煤で汚染されていくような、耐え難い苦痛の渦だった。
(……吐き気がする。ここは、死体と鉄を煮込んだ掃き溜めか)
首を焼く聖銀の鎖が、彼の心臓が脈打つたびに血管から魔力を無理やり吸い上げ続けている。
ルシアンは、視界が白く明滅するような激しい眩暈と、爪先まで痺れる虚脱感の中で、ただ幻獣の姿を保つことだけに全神経を注いでいた。
意識の糸が一本でも切れれば、あの忌まわしい、脆弱な人間の形へと不本意に変じてしまう。
一族を屠り、自分を『素材』、『部品』と呼ぶ連中と同じ姿を晒すこと。
それだけは、たとえ魂が千切れても許せなかった。
この毛並みを失い、無防備な皮膚を晒すことは、彼にとっては死ぬこと以上の屈辱を意味していた。
護送車の車輪が跳ねるたび、隣の荷台からカラカラと、硬質な音が響く。
それは、昨日まで雪原を駆けていた同胞たちの心臓である魔核が、ただの砂利のように無造作に詰め込まれ、触れ合っている音だ。
かつては誇り高く、咆哮と共に脈打っていた命の結晶。
それが今は、王都を維持する燃料にされるのを待つだけの石塊として、荷台の隅で虚しく鳴っている。
一族の中でただ一人、自分だけが『生体ユニット』として生かされているという残酷な孤独が、首の鎖よりも重くルシアンを縛り付けていた。
ふいに、厚い鉄板で仕切られた前方区画から、異様な音が漏れ聞こえてきた。
それは、一つの生き物が発するものとは思えない、不揃いで重なり合った複数の心音だ。
リズムの違う拍動が、無理やり一つの器に押し込められたような、生理的な嫌悪を催す不協和音。
歯車が肉を噛み、冷たい金属が湿った内臓に擦れるような、ぬめりを帯びた不気味な音が続く。
(……生き物じゃ、ねぇ……。なのに、脈打ってやがる。あの連中……、何を、作ってやがんだ……)
時折、人間のうめき声や獣の鳴き声が、不快な粘着音に混ざっては途切れていく。
野生の直感が、生物の理を根底から踏みにじった何かの存在に、猛烈な警告を発し、全身の毛が逆立つ。
異なる生き物の悲鳴を一つに縫い合わせたような、魂の継ぎ接ぎ。
その歪な拍動を聞くたび、ルシアンは自分の魂までもが細切れにされ、無機質な歯車の隙間に押し込められるような、根源的な恐怖に喉を震わせた。
聞きたくもない音や、感じたくもない気配ほど、ルシアンの五感は鋭く拾い上げてしまう。
苦痛に耳を伏せるが、逃げる術はない。
ルシアンを閉じ込めているのは、魔力を封じる沈黙の術式が刻まれた、重厚な聖銀の檻なのだから。
その格子に僅かに触れるだけでも、彼の身体には焼けるような痛みが走った。
「――逃げた資産を惜しむ時期は、もう終わったよ。新しい『部品』は、期待以上のものだ」
不意に檻を覗き込んだのは、あの白手袋の男だった。
(うるせぇんだよ……、俺を、部品と呼ぶんじゃねぇ……)
自らをただの素材として定義する男に、ルシアンは嫌悪感とともに唸り声をあげた。
「これからは君という高純度の触媒を芯にして、より効率的な『王国の心臓』を作り上げる。失われた魔女の代替品、いや……、それ以上の安定供給源だ」
男はまるで、不備のある旧式の機械を廃棄処分にするかのような、淡々とした冷徹な口調で独白を漏らす。
(こいつ……、何を言ってやがるんだ……? 俺を、……どうするって?)
「……逃げ出したベルローズは、所詮、情緒不安定な脆い欠陥品に過ぎなかった。だが、強靭な幻獣である君なら、あの熱量も容易に制御し、永続的にエネルギーを産み出せるだろう?」
男の言葉のすべては理解できなかった。
だが、ルシアンは死の淵で彷徨う本能で、一つの決定的な事実を悟る。
『ベルローズ』という名の存在。
その女も自分と同じように、この男に素材として扱われ、あまつさえ今『欠陥品』と罵られている。
自分と同じように冷たい檻に入れられ、地獄の淵に立たされながら、なおも牙を剥き、抗い続けた誰か。
その名は、鉄と油の匂いに満ちたこの檻の中で唯一、霊峰の雪のような潔癖な響きを持って彼に届いた。
会ったこともないその女が、この男の白手袋を跳ね除けて逃げ出したという事実。
それが、ルシアンにとっての暗闇の中の唯一の福音だった。
(ベルローズ……。そいつも、この薄汚ねぇ男に唾を吐きかけて逃げたのか……)
「この輝かしい蒼い瞳……。君の価値を、存分に王国の繁栄のために役立てさせてもらうよ。魔女を失った損失など、君を使えば充分に補って余りあるだろう」
男が格子の隙間から、汚らわしい慈愛を込めた手つきで手を伸ばす。
ルシアンは朧げな意識を喉の奥で燃やし、サファイアブルーの瞳を激しく発光させた。
剥き出しにした牙が、獲物を狙う矢となって男の喉笛を狙い、空を切る。
「……ッ、グル、アアッ!」
「……ああ、いい咆哮だ。私の言っていることが十分に理解できているようだね」
男は怯むどころか、ルシアンの威嚇を観察するように目を細めた。
「人語を解する高知能な個体は、魔導回路との同期において非常に扱いやすい。君のその怒りも、恐怖も、悲しみも……。すべては動力源となる数値の揺らぎに過ぎない」
男の言葉は、ルシアンの尊厳を根底から踏み砕くものだった。
ルシアンの理解力すらも、自分を飼い殺すための回路として計算に入れられているのだ。
「君が頭の中で何を考えていようと、その高い知性が私の設計通りに魔力を最適化してくれるなら、それで構わないよ」
(……この、野郎……!)
たとえ心臓を抉り取られても、最後まで幻獣として死んでやる。
その烈火のような拒絶だけが、彼を人間という弱き器へと堕とすことを、辛うじて食い止めていた。
(ベルローズ……。そいつが逃げた先が、どこだろうと構わねぇ。せめてそこが……、ここみてぇな鉄の匂いがしねぇ場所であることを、祈ってやるよ……)
意識が深い闇の底へ沈む寸前。
彼はその名を、心の中で何度も、何度も反芻した。
自分を道具に貶めようとする世界に対し、誇りを守り抜くための唯一の呪文。
自分と同じ地獄を見たであろう、名も知らぬ戦友への祈り。
ルシアンの拒絶をあざ笑うかのように、護送車は着実に王都への距離を削り取っていく。
消え入りそうな命の瀬戸際で、檻の中で揺れる蒼い光だけが、執念深くこの歪な世界を呪い続けていた。




