第42話:銀の侵略者
静寂を誇った霊峰は、無機質な軍靴の音によって踏み荒らされた。
ただ、純粋な雪と氷だけが支配していた聖域に、おぞましい文明の足音が響き渡る。
それは自然界の理を侵食する、拒絶すべき不協和音だ。
吹雪の向こう側から現れたのは、王都の誇る魔導兵団だった。
彼らは感情を殺した仮面のような面頬をつけ、発光を抑えた魔導ランプを掲げていた。
その淡い光の列は、まるで深い霧の底で獲物を追い詰め、冷徹に仕留める亡霊のように、淡々とその距離を詰めてくる。
その一歩一歩が、悠久の時のあいだ手付かずだった雪を破っていく。
彼らは迷いなく、霊峰の最も奥、幻獣たちの里へと直進していた。
この地を誰にも見つけられないと信じ切っていた一族の慢心は、魔導院が長年かけて蓄積した魔力反応によって、無残なまでに裏切られていたのだ。
先陣を切った兵士たちが、筒状の器具から一斉に聖銀の粉末を噴霧した。
霊峰の清浄な空気は一瞬で鉛色に濁り、大気に溶け込んだ幻獣たちの魔力供給を、正確に遮断していく。
それは呼吸するたびに肺の粘膜を鑢で削り、流れる血液を冷たい泥に変えていくような、生理的嫌悪を伴う不快感だった。
体内の魔力が、丸ごと毒へと変換されていくかのようだ。
強靭な四肢から力が抜け、白銀の雪原に伏していく、誇り高き同胞たち。
「……ッ、がはっ……」
喉を焼くような鉄の味に、ルシアンは雪に顔を埋め、奥歯が砕けんばかりに食いしばった。
人間の姿のままでは、この薄い皮膚を簡単に貫かれ、殺される。
本能的な恐怖と、それ以上に激しい防衛本能に突き動かされ、彼は残された魔力を振り絞って本来の姿へと戻ったが、その行為さえも苦痛で満ちていた。
聖銀の毒が骨の髄まで回り、神経を一本ずつ破壊していくかのようだ。
四肢が鉛のように重い。
それでも彼は、血と硝煙の匂いが立ち込める中心地――、父の元へと、這いずるように四肢を動かした。
父に対して、情があったわけではない。
自分が身を挺して守らなければ、などと思ったわけでもない。
ただ、自分を不浄と切り捨てた絶対的な強者が、こんな無機質な鉄の匂いに負けるはずがない。
それを確かめずにはいられなかった。
自分を否定し続けた世界の象徴が崩れることを、どこかで期待し、どこかで恐れていた。
だが、そこで彼が目にしたのは、もはや戦闘ですらなかった。
それは、効率的な資源採掘という名の処刑。
兵士たちは特殊な魔導具をかざし、倒れた幻獣たちの胸元から、命の源である『魔核』を強制的に吸い出していく。
幻獣たちの命の象徴である青白い輝きが、まだ温かい心臓部から結晶となって引き抜かれる。
その瞬間、誇り高き蒼い体躯は瞬時に輝きを失い、ただの灰色の毛皮に覆われた抜け殻となって雪に沈む。
(……兄貴も、あいつも、ただの石っころみてぇになりやがった)
かつて自分をいないものとして扱った者たちの、あの気高い毛並み。
それが今は泥を浴び、無造作に積み上げられた、資源の一部だ。
断末魔の叫びさえ聖銀の粉末に吸い込まれ、ただ魔核同士がカチカチと触れ合う硬質な、あまりに即物的な音だけが響いている。
ルシアンはようやく父の元へ辿り着いた。
父は集中砲火を浴びながらも、最後まで一歩も退かずに立ち塞がっていた。
数多の魔導矢がその身体を貫き、毛皮は血に染まっている。
だが、その金の瞳は、最後までルシアンを息子と認めることはなかった。
力尽き、倒れ伏す父の瞳に映ったのは、不自然なほど青く輝く、ルシアンのサファイアブルーの双眸。
父は最期まで、その瞳に失望と忌避の色を宿したまま、声もなく事切れた。
直後、父の胸から一際巨大な魔核が、魔導具の不可視の力によって強引に引き抜かれた。
「……ふむ。これは見事な純度だ。これ一つで、王都の魔導炉をひと月は回せるだろう」
惨劇の中心に、一人の男が歩み寄ってくる。
吹き荒れる寒風にさえ乱れぬ金髪と、一点の曇りもない純白の軍装コート。
魔導の加護に守られたその布地は、同胞たちの返り血一滴すら、付着することを許さない。
名前も知らぬその男は、血に汚れるのを嫌うように白手袋の手を組んだ。
積み上げられた魔核の山を、競売場の家畜でも検品するかのような冷徹な視線で眺めている。
その碧眼にあるのは、勝利の悦びでも、命を奪うことへの忌避感でもない。
ただ、納品された荷物の良し悪しを値踏みするような、凍りついた鑑定士の視線。
胸元で冷たく光る歯車の紋章が、この男にとって命とは、機械を動かすための部品に過ぎないのだと、無言で告げていた。
男の足先が、毒に冒され動けなくなったルシアンの鼻先に届く。
ルシアンは獣の牙を剥き出しにし、地を這う唸り声を上げた。
だが、男は眉ひとつ動かさない。
彼にとって、ルシアンの咆哮は、故障した機械の異音程度にしか聞こえていないのだ。
男は懐から、鈍い光を放つ金属製の魔力共鳴計を取り出し、ルシアンの首筋に押し当てる。
硬質な音が響くと同時に、計器の針がけたたましく振動し、限界点である赤色の目盛りを突き破って振り切れた。
「……ほう」
男はわずかに目を見開くと、雪と泥にまみれたルシアンの顎の下に、一点の曇りもない靴先を無造作に差し入れた。
足の甲でゴミを撥ね退けるような、侮蔑すら感じさせない無造作な動作で、強引に顔を上向かせる。
無理やり視線を固定され、男の冷たい碧眼と至近距離で見つめ合う。
なおも威嚇を続けるルシアンの眼窩に嵌め込まれた、サファイアの輝き。
男は、宝石の鑑定士のような、熱を持たない瞳でそれを覗き込んだ。
「瞳まで変質させるほどの魔力濃度。……これはいい。この個体だけは、魔核を抜かずに生かして運べ。輸送中の損耗も考慮しろ」
男は、ルシアンが人間になれる異能を持っていることなど露ほども知らない。
ただの希少な、瞳の青い変異種だと結論づけた。
男の碧眼には、ルシアンの怒りも、一族の凄惨な死も、雪山の惨状も一切映っていない。
そこにあるのは、魔導式の計算を走らせるための、冷徹な算盤のような光だけだ。
「彼女の欠損を補うユニットとして、これ以上の素材はあるまい。生きたまま魔導回路に繋げば、変換効率も飛躍的に上がる。死なせるなよ、これは『高価な部品』だ」
その言葉は、ルシアンという魂への、最後の一撃だった。
素材、ユニット、高価な部品。
そこには、一族が向けた『不浄』という拒絶すら存在しなかった。
ただの、利用価値のある『モノ』としての評価。
名前も、歴史も、抱いている苦痛さえも考慮されない不在。
父の言葉には、まだ憎しみという血の通った拒絶があった。
だが、この男の言葉には、ただ無機質な採算しかない。
一人の生き物として嫌われることさえ許されない、絶対的な虚無。
ルシアンの首に、魔力を封じる聖銀の重い鎖がかけられる。
皮膚に触れる冷徹な感触が、自由という概念を剥ぎ取っていく。
ルシアンは人間になれる力をひた隠し、獣の瞳の奥に、名前も知らぬこの白手袋の男への、そして王都という場所すべてへの、血を吐くような憎悪を灯した。
鎖に繋がれたまま、冷たい雪原を引きずられていく。
背後には、魔核を奪われ、文字通り空っぽになった一族の死山が、吹雪に埋もれていくのが見えた。
ルシアンは二度と戻れぬ故郷を、その地獄のような光景を、視界に焼き付けていた。




