第41話:不浄の血脈
ルシアンが語り始めた記憶は、ドラクロワ城の芳醇な土の匂いや、夜の帳が持つ湿り気をことごとく拒絶するような、刺すように冷たい色に染まっていた。
◆
そこは、北方の峻烈な霊峰。
外界との接触を断絶し、神代の魔力をその身に宿し続ける、幻獣の一族が住まう聖域。
遥か下界を見下ろせば、そこに広がるのは、泥と汗と欲望にまみれて蠢く、ちっぽけな人間の営みだ。
人間の側も、霊峰に広がる常識の通じないほどの自然の脅威や、異様な磁場を禁足地として恐れ、近寄らない場所だった。
幻獣たちの里は、その霊峰のなかでもとりわけ奥地に位置している。
視界を焼き尽くすほどの雪原と、天を突くように鋭く尖った氷。
ここでは音さえも凍りつき、命の鼓動さえも雪の重みの下に埋没する。
静寂だけが唯一の秩序として君臨する、慈悲なき白銀の世界がそこにはあった。
凍結した湖のほとりに、一人の青年が佇んでいる。
厚い氷の膜を鏡のように見つめるその瞳は、今よりもずっと鋭利で、激しい自己嫌悪を宿していた。
吹雪の中でも、彼は寒さを感じない。
肌を覆うのは、魔力の残滓が編み上げた心許ない布切れだけだ。
彼は獲物を欺くため、あるいは麓の偵察のために、嫌々ながらもその不浄な器を纏って、人里近くへ降りることがあった。
一族は彼を除け者にしたが、その能力と魔力だけは利用したがったのだ。
そこで見た、己の欲望に忠実な人間たちの姿。
それと同じ姿を直視することに耐えきれず、彼は無意識のうちに余剰分の魔力で不格好な布の形をとっていた。
それは、自分という不浄な存在を隠すための、薄汚れた殻にすぎない。
(……まただ。どうして……、元に戻れねぇ)
氷に映るのは、毛皮ではなく柔らかな肌、鋭い爪ではなく十本の指を持つ『人間』の姿。
他の兄弟たちが美しい蒼狼の姿を保ち、金の瞳を誇らしげに輝かせているなかで。
ルシアンだけが生存本能の歪みにより、無意識のうちにこの不完全な姿へと変じてしまう。
そして、彼が何よりも憎んでいたのは、氷の中に灯るサファイアブルーの瞳だった。
一族の誰も持たない、不自然なほどに鮮やかな色。
それは彼の中に眠る異質なほどに強大な魔力が、瞳を変質させてしまった結果だった。
霊峰の自然界には存在し得ない、まるで硝子細工のような蒼。
その輝きは、彼にとって自分を一族から切り離す、忌まわしい異端の刻印でしかなかった。
「……ルシアン」
背後から響いたのは、雪を鳴らすことさえない静かな、けれど絶対的な支配者の声だった。
そこには、幻獣たちの長――、ルシアンの父が立っている。
父の瞳は、一族の正統を示す気高い金色だ。
その双眸には怒りさえなく、ただ研ぎ澄まされた刃のような失望だけが、透き通って存在していた。
「……また、その姿になっているのか」
「なってねぇよ。……勝手にこうなるんだ」
ルシアンは震える手で雪を掴み、乱暴に立ち上がった。
父を睨みつけるが、その体格差は絶望的だ。
父の纏う凍気は、それだけで周囲の空気を結晶化させ、息を吸うだけで肺が凍りつくような威圧感を放っている。
「お前の中に流れる血が、生存を求めて人間という種に媚びているのだ。……恥を知れ。その瞳の色、その不完全な肢体。お前は我が一族の不浄だ」
父は息子に触れることさえせず、ただその横を通り過ぎながら、冷徹に突きつける。
その時、ルシアンはふと思った。
ルシアン、という自分の名前について。
北の地では、石を投げれば当たるほどにありふれた、ありきたりな名前。
(俺の名前には、どんな想いが込められてるんだ?)
そんな疑問をぶつける隙など、かつて一度もなかった。
親が何を考えて名付けたかなんて、聞いたこともない。
ただ、一族の中で不完全な『ヒト紛い』として生まれた自分に、特別な意味など込めるはずがないのだ。
期待も、愛着も、未来への祈りもない。
それはただ、家畜に押される焼印のような、あるいはゴミに貼られた識別票のような。
味気ない、記号に過ぎなかった。
「……ルシアン」
父が呼ぶルシアンという音には、親愛も期待も、一滴の体温も含まれていない。
それは凍結した大地に打ち込まれる、無機質な楔の音だ。
だからこそ、ルシアンは自分の名前を嫌悪していた。
この名で呼ばれるたび、自分が正統な幻獣になれない、不浄な存在であることを突きつけられるからだ。
ルシアンの意識の片隅で、現在の記憶が微かに火を灯す。
同じ名前のはずなのに、あの魔女の唇からこぼれる「ルシアン」という響きは、なぜか他の連中に呼ばれるのとは決定的に違って聞こえる。
彼女の声で呼ばれる時だけ、この忌まわしい名前が、何か別の価値あるものへと書き換えられていくような錯覚。
だが、今の彼を包んでいるのは、そんな微かな熱さえも奪い去る極北の吹雪だ。
ルシアンは去り行く父の背中に向かって、氷の礫を投げつけた。
だが、それは無情な風に流され、空しく雪の中に沈む。
苛立ちのままに、彼は『蒼い瞳の人間』が映った氷面を拳で叩き割った。
硬質な音が響き、飛び散る氷の破片が拳を切り裂く。
流れる血でさえも、人間に似た生々しい紅に感じられて、吐き気がした。
よりにもよって、一族の長であり、純血の守護者である父の子として生まれたのが、この『なり損ない』。
父にとってルシアンは、息子と呼ぶべき存在ですらない。
古臭い伝統と純血を何よりも重んじる彼にとって、人間に姿を変じてしまうルシアンは、家系図に紛れ込んだ致命的な汚れだった。
父が向けるのは激しい怒りではなく、ただ底知れぬ虚無を孕んだ失望。
父の視線が自分を通り過ぎるたび、ルシアンは自分がこの世に存在していないかのような錯覚に陥った。
そこには尊敬も憎しみも、もはや入り込む余地などなかった。
そんな父の傍らで、いつも影のように怯えていたのが母だ。
彼女は不完全な息子を産んだことで、一族の中で肩身の狭い思いをしていたのだろう。
あるいは、冷酷な番が自らの手で息子を排除してしまうのではないかと、常に恐怖を感じていたのか。
ルシアンを、父の言葉から庇ってくれた記憶もない。
ただ、彼女が時折向ける、あの壊れ物を悼むような、悲しげで憐憫に満ちた瞳。
(……あんたがそんな目で俺を見るから、余計に俺は自分が、可哀想ななり損ないだってことを忘れられねぇんだろ)
母の瞳にあるのは、不完全な個体を産み落としてしまった自分への弔いだ。
彼女の悲しみはルシアンへの愛ではなく、父に対する服従と、自分の運命への嘆きとしか思えなかった。
そして、月光を反射する美しい毛並みを揺らし、雪原を駆ける兄弟たち。
彼らにとって、ルシアンは『いないもの』だった。
彼らはルシアンを嘲笑うことさえしない。
ただ、透明な石ころを避けるように、彼を視界から排除して駆け抜けていくだけだ。
皮肉なことに、ルシアンは一族の中でも突出した、あまりに巨大な魔力を持って生まれていた。
だが、その強すぎる力が幼い肉体の安定を損なった。
暴走する熱を抑え込み、命を繋ぎ止める、本能的な防衛本能。
彼の身体は、魔力を極限まで凝縮して封じ込めるために、意識と制御を保てる限界まで小さな器――。
すなわち、人間という形を選択したのだった。
強すぎるがゆえの、不完全。
(いっそ、魔力なんて空っぽになればいい。そうすれば、俺もまともになれるのか?)
自分の強大さを『自分を人間へと引きずり下ろす呪い』だと感じ、ルシアンは膝を抱えて吹雪を見つめた。
雪原を駆ける兄弟たちの、美しい毛並みが遠くに見える。
彼らの吐息は力強く、その咆哮は霊峰の誇りを歌う。
それに引き換え、自分の吐き出す息はあまりに細く、白く、儚かった。
ある夜。
野生の直感だけが、静寂の裏側に潜む異変を察知した。
咆哮と風の音しかしないはずの聖域に、不吉な重低音が混じり始める。
雪山には存在し得ない、鉄が擦れ合う音。
そして、闇の向こうから這い寄る、冷酷な光の列。
その不快な予兆に、霊峰は山鳴りを響かせ、山に息づく動物たちは静まり返っていた。
「……このまま凍りついて壊れちまえばいい。何もかも」
そう願ったルシアンの祈りは、最悪の形で現実となる。
遠くで響く、軍靴が氷を踏みしだく無機質な足音。
王都の魔導兵団が、魔力の源泉である幻獣の『部品』を求めて、その刃を聖域へと突きつけようとしていた。
運命の歯車が、軋んだ鉄の音を立てて回り始める。
ルシアンの蒼い瞳に映ったのは、燃え盛る火明かりに照らされた、白い地獄の始まりだった。




