第40話:蒼き吐息の行方
防衛戦から数日。
ドラクロワ城は平穏を取り戻したかに見えたが、城内の空気は確実に、そして不可逆に変質していた。
原因は明白だ。
ルシアンが廊下を通るたび、飾り棚に置かれた花瓶の水面には薄氷が張り、重厚な窓硝子は内側から白く曇る。
彼が纏う魔力は、先日の戦闘でベルローズと深く共鳴したことをきっかけに、深く研ぎ澄まされていた。
もはやドラクロワ城の温かな湿り気を許容しないほど、鋭利な刃のように尖っている。
「ルシアン、動かないで。左の袖口が少しほつれてるよ。ベルローズ様の傍に控えるのに、そんな身なりじゃ格好がつかないだろ?」
ピピが針箱を手に彼を呼び止める。
だが、ピピがルシアンの腕に触れようとした瞬間、硝子が割れるような乾いた音が響いた。
ルシアンの衣類を覆っていた微細な霜が、ピピの体温に触れて弾けたのだ。
ピピの指先に刺すような寒気が走り、彼は反射的に手を止めた。
「ルシアン……? 君一体、どうし……」
「……悪い。今は、触らない方がいい」
ルシアンはピピが尋ね終えるよりも早く、どこか湿り気を帯びた声で吐き捨て、視線も合わせずその場を立ち去っていく。
その足跡には、絨毯の毛先が凍りついたような白い跡が微かに残っていた。
その背中を見送りながら、アマンダも琥珀色の瞳を悲しげに細めている。
「ルシアンさんの周りだけ、時間が凍りついているみたい」
彼女の周囲に漂う胞子たちが、ルシアンの通り過ぎた冷気に触れて、雪の欠片のように床へ落ちていく。
いつもなら、廊下の汚れを気にしてすかさず箒を持ち出すであろうピピも、今日ばかりはルシアンの背中を視線で追いかけ、動けずにいた。
「森の呼吸が、届かなくなっています。ピピ……、あの人は自分から、孤独を選ぼうとしている。あの夜の冷たさを、思い出してしまったんですね」
ピピは、アマンダのその言葉に答えられないまま唇を噛み、そっと目を伏せた。
その夜。
ルシアンは一人、深い夜に沈むテラスに立ち、夜空を見上げていた。
城を囲む禁忌の森は、深い霧と夜露に濡れている。
肺の奥まで吸い込んだ外気をゆっくりと吐き出すと、その吐息は城の夜の温度では説明がつかないほど濃く、鋭い白さとなって闇に溶けていく。
(……この凍てつく感覚が、吐き気がするほど心地いいと感じちまう)
戦いの中でベルローズから引き出し、自身の血管に流し込んだ彼女の魔力。
それは彼の根源である幻獣としての誇りと、眠っていた性質を強制的に呼び覚ましてしまった。
王都の魔導人形を塵に変えるほどの、圧倒的な力だ。
だが、それと同時に彼を、最高級の部品として檻に繋いだ、呪わしい血の証でもあった。
(俺はまだ、あの鉄格子の檻の中にいるのか? それとも、この力そのものが、俺を繋ぐ新しい檻なのか?)
自問する声は、誰に届くこともなく夜風に凍てつき、消えていく。
自身の指先を見つめれば、そこには獲物を引き裂くための爪が、今にも肉を突き破って現れそうなほどに疼いていた。
ルシアンはそんな感覚を抑え込むように、拳をぐっと握り込んで思う。
幻獣の強大な魔力が、自分の『人としての形』を食い破ろうとしていると。
「……眠れないの?」
音もなく現れたベルローズが、ルシアンが振り返るよりも早くその背後に立つ。
ルシアンの身体からは、常人なら肌を焼くほどの冷気が溢れ出し、テラスの石床を白く染め上げている。
「危ねぇぞ、近寄んな。……今の俺は、自分で自分の温度が分からねぇんだ」
ルシアンは反射的に身を引こうとしたが、ベルローズはそれを許さなかった。
彼女の白い指先が、そっとルシアンの肩に置かれる。
「よせ、あんたまで凍りつくぞ、……冗談じゃねぇ」
「……冷たいわね。指先が痺れるほどに。けれど、……嫌いじゃない。あなたの夜は、これほどまでに透き通っているのね」
ベルローズは眉一つ動かさず、むしろ愛おしむように彼の強張った背中に触れ続けた。
彼女の指先から、紫の魔力が温かな脈動となって彼の肌へ染み込んでいく。
彼女が指先で首元のチョーカーを優しく、宥めるように撫でると、氷の棘が逆立っていたような彼の魔力の波が、わずかに、けれど確実に凪いでいく。
ルシアンの肩から、ゆっくりと、諦めたように力が抜けた。
「……あんたは、本当に……、物好きだな。化け物になりかけてる俺を、そんな風に触るなんてよ」
「化け物? 鏡を見てから言いなさい。私の目に映っているのは、ただの誇り高い私の騎士よ。……それとも、北の雪原が恋しくなったのかしら」
ベルローズが問いかけても、ルシアンの瞳は依然として、禁忌の森の向こう側、遥か北の方角を見据えたままだ。
二人の間に、重く静かな沈黙が流れる。
ルシアンの脳裏に、不意に鮮明な光景が割り込んできた。
白一色の視界。
雪原に散った同族の鮮血。
自分を『モノ』として査定し、冷酷に捕らえた王都の者たちの、嘲笑と罵声。
現実のテラスの景色が、徐々にあの日の霊峰の残酷な白へと塗り替えられていく。
身体の奥底から、同族たちの悲痛な遠吠えが聞こえて来るかのようだ。
ルシアンは、逃げ場のない過去の冷気に、その喉を強く締め上げられた。
彼は無意識に、ベルローズの手を振り払おうとするかのように一歩踏み出し、テラスの淵へと身体を向けた。
背中が語っている。
俺はここには相応しくない、いつかこの氷が、あんたの城を壊してしまう、と。
「……誰が、勝手に背中を向けろと言ったの」
夜の空気を切り裂く、ベルローズの冷徹な声。
彼女は逃げようとするルシアンの背後から、一切の躊躇なく、その細い両腕を彼の腰へと回した。
「ッ、よせって言ってるだろ……!」
ルシアンの身体が、岩のように硬直する。
彼の周囲に渦巻く凍気は、ベルローズのドレスを白く染め、彼女の体温を奪う。
骨の芯まで冷気が食い込み、指先の感覚は一瞬で遠のいていく。
だが、ベルローズは顔色一つ変えず、むしろその拘束を強めた。
「黙りなさい。……今のあなたは、私に与えられた使命すら忘れて、ただの野良犬に戻ろうとしている。そんな無様な真似、私が許すとでも思っているの?」
彼女は毅然と背筋を伸ばし、彼の背中に主としての重みを預けている。
それは慈愛による抱擁というよりは、暴走する獣に、無理やり首輪を嵌め直すような、強引で気高い制圧だった。
「冷たいなら、その冷たさをすべて私に流しなさい。……あなたの過去がどれほど白く塗り潰されていようと、今のあなたを定義するのはこの私」
ベルローズの体温が、ルシアンの強張った筋肉を、外側からじわりと溶かしていく。
氷の檻に閉じ込められようとしていたルシアンにとって、彼女のその傲慢なまでの所有欲は、何よりも確かな現実の錨となった。
「……あんたは。……本当に、勝手だな」
ルシアンの喉から、観念したような溜息が白く漏れた。
ようやく、彼の肩から険が消える。
彼は、自身の掌をもう一度見つめた。
先ほどまで、血に濡れた冷たい武器に見えていたその手。
それが今は、自分を背後から縛り上げる主を守るための、不器用な騎士の手へと引き戻されていくような感覚。
彼はその敗北を、甘やかな絶望と共に受け入れた。
「語りなさい、ルシアン。……あなたの故郷がどれほど冷酷な場所だったのか。私がその記憶ごと、このドラクロワ城の影に沈めましょう」
ベルローズは、彼を離さなかった。
未だ止まらぬ冷気が彼女の肌を刺し、感覚を麻痺させていく。
それでも彼女は、自分の騎士を過去という名の檻に連れ去ろうとする北風から、力ずくで奪い返すかのように、その腕に力を込め続けている。
ルシアンが重く、静かに口を開く。
「……俺の故郷は、ここよりもずっと、息が詰まるほど白かった」
その声には、自分を城の住人ではなく、一匹の部品へと引き戻そうとする過去の冷気が混じっている。
月光の下、凍りついたテラスの上で、支配する者と支配される者の影が、一つの歪な形となって重なり合っていた。




