第39話:鋏と胞子
ドラクロワ城の中庭が、ベルローズの茨とルシアンの凍気によって苛烈な戦場と化していたその裏側。
城の北西に位置する、湿った影の落ちる裏門付近には、音もなく忍び寄る異物があった。
かつて王都が誇った隠密暗殺部隊の生き残り、その成れの果てである。
数年前の政変で解体され、野に下った彼らは、飢えを満たすために野盗へと身を落としていた。
禁忌の森を彷徨い、偶然にも結界の綻びから漏れ出た文明の匂いを嗅ぎつけた。
彼らは、そこが魔女の居城とも知らず、格好の獲物を見つけたつもりでいたのだ。
表の騒ぎを囮とし、警備の薄れた庭から城内への侵入を目論む動きは、洗練された殺意そのものだ。
感情を完全に排し、呼吸すらも風の音に同調させた彼らの足取りは、石畳を滑っていく木の葉の音よりも小さい。
「……あそこにガキが一人。それと、妙な傘を差した女だ」
夕闇の中、男が指先で合図を送る。
彼らの目的はもはや国家の繁栄ではなく、今夜の食事と金品に成り下がっていた。
その侵入経路を塞ぐようにして、一人の少年が立っている。
彼は白い手袋の皺を執拗なほど丁寧になぞり、微かな歪みさえ許さぬように伸ばしていた。
「……やれやれ。表が騒がしいのをいいことに、行儀の悪いお客様だ。これじゃ、明日の朝の掃き掃除が二度手間になっちゃうだろ。……どうしてくれるんだよ」
ピピは深く溜息をつき、ぴんと張った手袋をはめ直した。
その瞳には、城の廊下を磨き上げる時と同じ、徹底した不純物排除の冷徹な意志が宿っている。
「あちらの茂みに三人、石像の影にも二人隠れていますね、ピピ。……あそこの古い切り株の裏にも、一人。震えている子がいますよ」
傍らで、アマンダが大きなキノコの傘を静かに差したまま、淡々と事実を告げた。
彼女の瞳は夕闇を透かし、生命の律動そのものを熱源として捉える。
傘の裏側からは、星屑を砕いたような燐光を放つ胞子が絶えずこぼれ落ち、宵の湿った空気に、むせ返るような不気味で甘い香りを混ぜていた。
「三人、二人に一人か。……分かった、茂みの方は任せるよ、アマンダ。あまり汚さないでくれよ。あそこの土は入れ替えたばかりなんだから」
「はい。ゆっくり、おやすみいただきます。誰一人、汚れた声は出させませんから」
夕闇の中から、暗殺者が音もなく飛び出した。
超人的な身体能力を持つ彼らが、アマンダの数歩手前に踏み込んだ瞬間、彼女が傘の柄を指先で軽く回した。
彼女の足元から、蛍のように淡い光を放つ胞子が爆発的に舞い上がる。
「な……ッ!? 目が、霞む……」
斬りかかろうとした男の動きが、糸の切れた人形のように不自然に止まる。
胞子を吸い込んだ瞬間、彼の脳内を支配していた殺意は、強制的な多幸感と、極彩色に歪む幻覚によって塗り潰された。
男は自らの剣を落とし、恍惚とした表情を浮かべたままにその場へと崩れ落ちる。
アマンダは、膝をついた男に静かに歩み寄った。
彼女の瞳には、慈愛とも無関心ともつかない、透き通った虚無が湛えられている。
「……ああ、なんていい匂いだ……。天国にいるみたいだ……」
「ええ。とても温かいでしょう。あなたの恐怖も、痛みも、すべてわたしが食べてあげます」
アマンダの声は穏やかだが、感情の起伏が一切ない。
「あなたはこれから、この森の新しい栄養になるのです。それはとても、光栄なことなのですよ」
眠りに落ちた男の肌を突き破り、血管を苗床にして、紫や赤の色鮮やかなキノコが、不気味なほど急速に、そして美しく群生し始める。
それは死の腐敗ではなく、森の意思による、残酷なまでの命の再利用だった。
アマンダはその光景を、丹精込めて育てた花園を眺めるように見つめ、菌糸に覆われていく男の頬を優しく撫でた。
「さようなら。いい夢の中で、溶けてください」
その純真が、侵入者たちの息の根を、物理的にも精神的にも、優しく止めていった。
一方、ピピの戦いもまた、無機質なまでに効率的だった。
彼は城の管理者として、空間そのものを支配する。
庭園の石畳に軽く触れれば、それが意思を持ったように隆起し、逃げ惑う暗殺者の足首を冷酷に砕く。
「ゴミは、ゴミ箱へ。……それがこの城のルールだよ」
ピピは懐から取り出した小さな剪定鋏を、まるで芸術品のように操る。
彼が虚空を断てば、見えない魔力の刃が敵の急所を的確に、かつ最小限の出血で切り裂いた。
それでも、僅かに石畳を汚した血に、ピピは露骨に顔をしかめてみせる。
戦意を完全に喪失し、アマンダの胞子によって苗床へと作り変えられた敵の残党さえも、ピピは秩序を乱す不純物として次々と処理していく。
ただ、いつも通り淡々と掃除をこなすだけ。
そこには戦いの高揚感など微塵もなく、ただ、予定された家事を片付けるような、冷徹な静寂だけがあった。
主の庭を土足で踏み荒らす連中を見逃す理由など、ピピにはひとかけらもない。
「完璧だ。……ふぅ、ちょっと服が汚れちゃったよ。アマンダ、そっちはど……」
『掃除』を終えたピピが前髪をかき上げたとき、アマンダが彼の手首を掴んだ。
「……びっくりした。急にどうしたんだい?」
「ピピ、左腕に傷があります。先ほど、飛んできた破片ですね」
石の精霊であるピピは、人間のように出血したりはしない。
だが、彼の左腕にはわずかにひび割れのような傷が走っていた。
「……ああ、これ? この程度、どうってことないさ。後で自分で――」
「だめ。……不完全な姿で主の前に立つのは、ベルローズ様への奉仕の邪魔になります。……じっとして」
アマンダは有無を言わせぬ静かさで、ピピを庭のベンチへと座らせた。
彼女が掌を傷口にかざすと、琥珀色の光が溢れ出す。
それは、彼女が先ほど捕食した命から抽出された、生命力そのもの。
毒素を取り除き、純粋な癒やしの魔力へと変換された、緩和の力だ。
ピピは彼女の、倫理を介さない異質な効率主義に苦笑しつつも、そのそばに漂う淀みのない空気感に安らぎを覚えていた。
人間なら嫌悪し、目を背けるような死の処理。
それを、清掃と養分として当たり前に共有できるこの二人にしか分からない、人間とは乖離した深い信頼がそこにはあった。
「……終わりました」
アマンダが手を離すと、そこには傷跡一つない。
はじめから何もなかったかのように、つるりとした肌へと戻っていた。
「……ありがとう、助かったよ。さ、中庭へ合流しよう。あっちもそろそろ、ルシアンが暴れ終わった頃だろうから」
ピピが立ち上がり、衣服の埃を丁寧に払う。
二人が静かな足取りで歩き出した先、夕陽に照らされた中庭には、勝利の余韻の中で立ち尽くすベルローズと、その影のように寄り添うルシアンの姿があった。
主を囲むルシアンの青い魔力と、ベルローズの紅い残滓。
それを見つめるピピとアマンダの瞳には、意思を持たぬ城の一部として漂っていた頃には決して得られなかった個としての充足感、そして家族に近い、けれどそれよりもずっと不穏で強固な帰属意識が宿っていた。
己を定義し、名を与え、居場所を作ってくれた主。
その主を、今度は自分たちが守り、育んでいる。
そんな共犯関係にも似た愛着が、二人の足取りをより深く城の影へと沈めていった。
ドラクロワ城の夜は、再び静寂を取り戻す。
けれど、その空気にはまだ、戦いによって混ざり合った魔力が、重く複雑な香りを残し続けていた。




