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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第5章:共鳴の残響

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第35話:境界の気配

 朝の図書室は、高く取られた窓から差し込む陽光に、(ほこり)の粒子が静かに踊っていた。


 古い羊皮紙(ようひし)の乾いた匂いと、微かな蜜蝋(みつろう)の香りが、この閉ざされた空間の秩序を象徴している。

 外界の喧騒(けんそう)も、禁忌の森の不気味なざわめきも。

 この分厚い石壁と魔導書が積み上げられた静寂を(おか)すことはできない。


 ベルローズは長机に向かい、古書の複雑な魔導式を解読することに没頭していた。

 その数歩後ろ、ルシアンは彫像のように静かに控えている。


 彼は今、ベルローズの思考の波長に自身の存在を同調させているかのようだった。

 彼女が魔導書の頁をめくるわずかな風、羽ペンが紙を削るかすかな音。

 それらすべてをルシアンの鋭敏な感覚が捉え、室内には張り詰めた、けれど心地よい緊張感が漂っていた。


 ふいに、ベルローズはペンを置くことなく、空いた左手を背後へとわずかに伸ばした。

 それは無意識の、けれど確信に満ちた所作だった。

 彼女はそこに、自分を受け止める確かな存在が、当然のように控えていると知っている。


 彼女の指先から、目に見えぬ糸を引くように、紫の魔力がルシアンへと流れ込む。

 それに応じるように、彼の首元のチョーカーが微かな熱を帯び、彼女の体温を彼の拍動へと変換していく。


「……ん」


 ルシアンはわずかに顎を上げ、喉を鳴らすようにその感触を受け入れた。

 魔力が肌を浸透し、神経の端々にまで行き渡っていく。


 以前なら、他者の魔力が自身の回路を侵食することなど、生理的な拒絶を覚えていたはずだ。

 けれど、彼女の魔力から感じるこの抗えない支配感と、安堵(あんど)にも似た気持ち。

 今の彼にとっては、この紫の熱に飼い慣らされることすら、自らの血肉を繋ぎ止めるために不可欠な錨となっていた。


「……いい子ね」


 ベルローズの囁きに、ルシアンは「……フン」と鼻を鳴らすだけで応える。

 主から直接注がれる魔力の熱は、彼の四肢を巡り、深い安らぎを刻んでいく。

 それを当然の特権のように享受(きょうじゅ)する彼の耳が、満足げに一度だけぴくりと揺れた。


 そこへ、木製のワゴンを引く微かな振動と共に、ピピとアマンダが現れた。


「ベルローズ様、お茶の用意を……」


 ピピの言葉が終わるより先に、ベルローズの視線が机の端にある分厚い資料へと動く。

 その意図を、ルシアンは呼吸一つで読み取った。

 彼は音もなく手を伸ばし、ピピがワゴンを止めるより早く、重厚な革表紙の本を引き抜いて彼女の手元へ差し出す。


「ルシアン! 君は本当に、鼻が利きすぎるんだよ。そこは僕が順序立ててお出しする予定だったんだから!」


 自分の領分を侵されたピピが、ワゴンを止め、眉をひそめて抗議した。

 対するルシアンは、本の端をベルローズが読みやすい角度で押さえながら、短く応じる。


「遅ぇんだよ、お前は」


「ふん、効率の問題じゃないんだから……! ベルローズ様にお仕えする作法というものがあるんだ。君のそれは、ただの野性の直感だろ」


 ピピは神経質な手つきでティーコゼーを整えながら、不満げに鼻を鳴らした。

 それでも、ルシアンがベルローズの思考の速度に完全に追いついていることまでは否定できない。

 ルシアンはベルローズが頁を捲るのを邪魔しないよう、指先で資料の端を固定し続けている。


 ピピは、自身の魔力を注いで保温し続けていたポットから、無駄のない手つきで紅茶を注ぎ分け、丁寧な所作でベルローズに差し出す。

 ピピが厳選した茶葉に、アマンダによって薔薇の花弁が加えられた紅茶からは、芳醇な香りが漂っている。


 鼻に抜けていく優雅な芳香に、ベルローズはふっと息を吐いた。

 沈黙の中、ペン先が紙を走る音だけが響く。


 ふいに、ベルローズの白い指先に、黒いインクがわずかに付着した。

 彼女が布を求める仕草を見せるより早く、ルシアンの長くしなやかな指先が、彼女の手首を無造作に掴んだ。


 ベルローズは、自分の手が彼に包まれることに何の躊躇(ちゅうちょ)も示さなかった。

 それどころか、視線を本から外すことさえしない。


 ルシアンは清潔な布で、彼女の指先を丁寧に拭っていく。

 ベルローズは視線こそ向けないが、その指先をルシアンのなすがままに預け、わずかに体温を委ねている。


 最後にルシアンは、自身の氷の魔力を帯びた冷たい親指で、残った汚れをなぞるように消した。

 指先同士が触れ合う微かな摩擦が、静かな室内に妙に鮮烈な印象を残す。

 その光景を、アマンダが琥珀色の瞳を細めて見つめていた。


「ふふ、ルシアンさん。ピピがあなたのしっぽをブラッシングするときも、そんなふうにこだわって、丁寧にやってますよ? 性分(しょうぶん)なんでしょうね」


 アマンダのからかいに、ルシアンは眉一つ動かさない。

 だが、その尾はピピの方を向いてわずかに揺れ、言葉のない肯定を返していた。


「……っ、アマンダ。君は、余計なことを言わなくていいんだよ……!」


 ピピが慌ててワゴンの上の角砂糖を整理し始め、図書室には束の間の柔らかな空気が流れていた。


 ベルローズは再び古書へと視線を戻し、思考の海へと深く潜っていく。

 ピピが丁寧に注ぎ足した紅茶からは、二度目の柔らかな湯気が立ち上り、アマンダがワゴンを引く小さな車輪の音が、遠ざかる子守歌のように静かに響いていた。


 陽が傾き、夕暮れの色が部屋の隅々を侵食し始めた頃。

 ルシアンは、窓の外の気配にふと反応を見せた。


 これまでとは違う、もっと根源的な野性の集中力。

 役目を終えて図書室から去るルシアンの足取りは、いつもの主従の距離感を保ったものとは微妙に異なっていた。

 獲物を追う獣のような、あるいは遥か遠くの呼び声に応えようとする迷子のような。


 重厚な扉が閉まり、静寂が戻った室内で、ベルローズはふと自分の左手を見つめる。

 指先には、まだ彼に触れられた際の、刺すような純度の高い冷気の残滓(ざんし)が残っている。


「……ピピ。ルシアンの様子、何か変わったところはないかしら」


「え? ……そうですね。最近はより一層、ベルローズ様の影として馴染んでいるように見えますが。……何か気になることが?」


「いいえ。ただ、少しだけ」


 ベルローズは言葉を濁した。

 チョーカーを通じて伝わってくる彼の魔力。

 それは、彼がベルローズの角の熱を鎮めたあの夜以来、かつてないほど澄み渡り、彼女の魔力と深く共鳴しているはずだった。


 だが、今の彼から感じる気配は、北方の峻烈(しゅんれつ)な透明さを帯び始めている。

 それは城の温かな魔力で上書きされる以前の、彼が獣として野にいた頃の冷たさ。


「……ルシアン」


 ベルローズはそっと、その名を唇の中で呟いた。



 図書室の外。

 城の暖かな灯りすら、今は自分の肌を焼くかのように感じられたルシアンは、逃げるようにテラスに出ていた。

 彼は、遠い北の空に雲の合間から覗く星を、無言で見つめる。


 昨夜、ルシアンは夢を見た。

 雪がすべての音を吸い込む、音のない白銀の世界。

 凍てつく大気を切り裂いて走る、自分の四肢の躍動感。

 そして、その奥から聞こえてくる、低く、重厚な、自分を呼ぶ咆哮。


「……っ」


 首元のチョーカーが、微かに、けれど鋭く肌を焼いた。

 ベルローズの手によってどれほど鮮やかに上書きされても、彼の背中には、この穏やかな(なぎ)では決して消し去れない、根源的な夜が宿っていた。


 王都の護送車に乗せられる前、誇りを奪われる前。

 自分は一体、どこで、誰と共に、この雪の匂いを嗅いでいたのか。

 鼻腔の奥に蘇るのは、禁忌の森の土の匂いではない。

 もっと乾いた、肺を切り裂くような極北(きょくほく)の冷気だ。


 ルシアンは、自身の大きな掌を見つめた。

 ベルローズの指を拭ったあの指先が、今は、見えぬ獲物を引き裂くための爪を求めて疼いている。

 皮膚の下で、眠っていたはずの粗暴な血が、音を立てて逆流し始めていた。


 城を包む霧の向こう側。

 王都の追っ手よりも、禁忌の森の怪物よりも深い場所から。

 彼を呼ぶ過去の亡霊が、静かにその境界を越えようとしていた。

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