第36話:白い帆の迷宮
ドラクロワ城の上階、大きく突き出した石造りの屋上テラス。
そこは禁忌の森を一望し、遮るものなく陽光を浴びることができる、城内で最も空に近い場所だ。
今日の空は、不気味なほどに澄み渡っていた。
だが、テラスには平和な青空を切り裂くような怒声が響き渡っている。
「ルシアン、待ってって言ってるだろ! そんなに絞っちゃ駄目なんだって。布が悲鳴を上げてるのが聞こえないのか!?」
ピピが、大きな木製の洗濯桶の縁に足をかけ、身を乗り出して叫んでいる。
彼の手元にあるのは、森で採れるムクロジの実を煮詰めて、精製した重曹と香草を練り込んだ、特製の固形石鹸だ。
ずっしりとした灰色の塊だが、水に溶かせば鼻の奥をくすぐるような、城の庭で摘まれたみずみずしい香草たちの香りが弾ける。
対するルシアンは、額に薄っすらとにじんだ汗を手の甲で拭いながら、巨大な木樽に膝をついていた。
その両腕には、吸水して岩のように重くなったシーツが抱えられている。
「うるせぇな。水が切れてなきゃ乾かねぇだろ」
「切り方の問題だよ! 君がやるとそれは脱水じゃなくて、破壊なんだ。見ろよ、ベルローズ様の寝室用の上質なリネンが、君の怪力のせいで雑巾みたいに捩じ切れる寸前じゃないか」
ピピが地団駄を踏み、背中の結晶の羽をきりきりと震わせる。
今日の二人の任務は、溜まった大型洗濯物の処理だった。
ドラクロワ城では、生活の中の多くのものごとが魔法で解決される。
だが、ベルローズは直接肌に触れる衣類や寝具に関しては、出来る限り魔法による強引な洗浄を好まなかった。
いわく、魔法の残り香が神経を逆撫でするのだという。
それゆえ、今日は管理責任者であるピピと、体力に余裕のあるルシアンが、こうして手作業で洗濯に励んでいるのだ。
アマンダも参加したがったが、彼女がいるといつまで経っても乾かないからと、ピピによってベルローズのお茶の相手を命じられていた。
「そう言われてもな。……加減が難しいんだよ」
ルシアンが再び力を込めると、分厚いシーツから滝のような水が溢れ出し、樽の底を重低音で叩いた。
指先の一つ一つに力を込めると、分厚い生地がみしりと音を立てる。
ピピの小言を背中で聞き流しながら、ルシアンは自分の力を、洗うという目的のために精密にコントロールしようと試みる。
それは獲物を仕留めるのとは別の、妙に神経を使う作業だった。
ルシアンはふと鼻を動かし、脱水の手を止めた。
手元にあるのは、ベルローズの寝室で使われているシーツだ。
そこから石鹸の香りに混じって、わずかに、彼女自身の魔力の残り香が鼻腔をかすめたのだった。
それは深い夜の底に咲く薔薇のような、冷たくて甘い、それでいてどこか愁いを帯びた主の体温の記憶。
(……これを洗って、乾かして。あいつがまた、今夜眠る)
その事実を噛み締めるたび、ルシアンの胸の奥には、名前の付けられない熱が灯る。
指先に残る布の柔らかな感触を通じて、彼女の最もプライベートな空間を整えているという、面映ゆいまでの肯定感。
それは彼にとって初めて触れる、慈しみに近い労働だった。
「おいこら、ぼーっとしない! 洗い終わったなら、あっちの紐にかけて。風を味方につけるんだ」
ピピの指示に従い、ルシアンは濡れたシーツを肩に担いで立ち上がった。
ずっしりとした重みが肩に食い込むが、不快な重さだとは思わない。
ルシアンがシーツを広げ、麻紐にかけていく。
勢いよく風を孕んだシーツが、大きな白い帆のように膨らんだ。
視界を遮る真っ白な壁。
風が吹くたびに、隣にいるピピの姿さえも見失うほどの純白の中で。
太陽の熱と石鹸の香りに包まれていると、自分が血塗られた幻獣であることを忘れられるような、淡い錯覚に陥る。
一枚、また一枚と干していくたび、テラスの上は真っ白な布が揺れる迷宮へと姿を変えていく。
太陽に焼かれた布が放つ、乾いた香ばしい匂い。
それが石鹸の香りと混じり合い、禁忌の森の青臭い空気を鮮やかに塗り替えていく。
「さあ、仕上げだよ」
ピピが羽を広げ、ふわりと宙に浮いた。
彼が指先を弾くと、結晶の粉のような魔力が、干されたばかりの洗濯物へ降り注ぐ。
森の湿気が布に染み込まないように、表面を微細な鉱石の粒子でコーティングする、石の精霊ならではの技だ。
乾燥の魔法ではなかったが、ピピの魔力に触れたシーツが、一瞬でぱりっとした硬度を持ち、太陽の匂いを内側に閉じ込めていく。
「ふぅ。完璧だ。見てよルシアン、この白さ」
ピピは満足げに腰に手を当てた。
だが、その隣でルシアンは、干されたシーツの隙間に立ち尽くしたまま動かなくなっていた。
「……ルシアン? 何をまたぼーっとしてるのさ。休憩なら一階で……」
「ピピ。……静かにしろ」
ルシアンの声が、地を這うように低くなる。
その耳が、ぴくりと不自然な動きを見せた。
ピピには、不審な音は何も聞こえない。
聞こえるのは、風がシーツを揺らす乾いた音と、遠くで鳥が鳴く声だけだ。
だが、ルシアンの鋭敏な感覚は、それらの音の層を一枚ずつ剥ぎ取るようにして、自身の中にある異質な振動を捉えていた。
ルシアンの視線が、真っ白なシーツの合間から、北の空へ。
禁忌の森の、さらに向こう側へと固定される。
そこには、一年中雪を戴く険しい連峰が、青い空との境界線を鋭利に切り取っていた。
「……風が、変わった」
「風? 別に、さっきから心地よい風だけど……?」
「違う。……混ざってるだろ。雪の匂いだ」
ルシアンの言葉に、ピピは眉根を寄せながら、思わず空を仰いだ。
快晴だ、雲一つない。
北の連峰からここまで雪の匂いが届くはずなどないし、第一、今はまだそんな季節でもない。
「ルシアン、君、疲れが出たんじゃないの? ちゃんと寝てる?」
ピピが呆れたように肩をすくめる。
だが、ルシアンの瞳からは、先ほどまでの穏やかな安らぎが急速に失われていた。
サファイアブルーの瞳が、北の冷気を反射するように、深く、昏い色へと変質していく。
彼の鼻腔を突いたのは、単なる季節の変わり目の匂いではなかった。
それは、禁忌の森の結界さえも透過してくるような、純度の高い、原初の冬の気配。
そして、その冷たい風のなかに、微かに混じる、胸の奥を掻きむしるような咆哮の残響。
(……俺を、呼んでいるのか。……誰が? なぜ?)
ルシアンの指先が、無意識に、干したばかりの真っ白なシーツを強く握りしめた。
ピピが完璧に仕上げたはずのリネンに、ルシアンの握力が、不吉な皺を刻んでいく。
「……おい、ルシアン! せっかく綺麗に干したのに、何して……」
「……何でもねぇ。戻るぞ」
ルシアンは、吐き捨てるようにそう言った。
獲物の気配を感じ取った飢えた獣の緊張感が、彼の四肢の筋肉を不自然に硬直させていた。
太陽の匂いに満ちた屋上。
真っ白な帆が風に踊る平和な景色のなかで。
ルシアンだけが、その足元から忍び寄る過去の、凍てつく影を凝視していた。
ピピは不審そうにルシアンの背中を睨んでいる。
だがやがて独りごちると、空の桶を抱えて歩き出した。
「……まったく、気難しいなぁ。僕には雪の匂いなんかちっともわかんないよ。変なやつ」
二人がテラスを去った後。
北から吹き抜けた一陣の突風が、真っ白なシーツを狂ったように激しく揺らした。
それはまるで、これから訪れる冬の嵐が、最初の警告を告げているかのようだった。




