第34話:鏡の中の獣
夜明け前の洗面室は、城の深部から汲み上げられた魔力が生み出す、温かな蒸気に包まれている。
石造りの壁面からは、仄かな燐光を放つ苔と、埋め込まれた魔導灯が混ざり合い、朝の訪れを予感させる乳白色の光を放つ。
ルシアンは、銀の縁取りがなされた、大きな鏡の前に立っていた。
無機質な鏡面に映る自分自身を、まるで得体の知れない獲物を見るような目で睨んでいる。
鏡に映る男は、あまりにも整いすぎていた。
かつて泥を啜るようにして生きていた獣と、同じ魂が入っているとは思えない。
指先を動かせば、鏡の中の男も同じように動く。
だが、それが精巧に作られた操り人形のように思えて、ルシアンは吐き気を催す。
その違和感を打ち消すように、彼は自分の頬を強く抓った。
サファイアブルーの瞳、夜の底を溶かしたような濃藍色の髪。
ベルローズの魔力によって安定を得た人間の姿は、以前よりもずっと、彼の中に深く染みこんでいる。
以前なら、ふとした瞬間に爪が伸び、牙が覗くような危うさがあったが、今の輪郭は静かに凪いでいた。
ベルローズの角を癒した魔力の残り香が、彼の中に静かに根を張っていく。
それでも、彼が自分の身体を見下ろせば、そこには消えることのない醜い傷痕が、白い肌の上で不吉に這っている。
かつて刻まれた、聖銀の弾丸の跡。
鉄格子の角が皮膚を抉った引き裂き傷。
拘束具の重みが皮膚を死なせ、変色させた痣。
それらはどれだけ魔力を整えても、剥がれない刺青のように彼の一部となっていた。
(……チッ。消えねぇな。どれだけ擦っても、奴らの視線がこびりついてやがる)
ルシアンは短く吐き捨て、重たい石鹸を手に取った。
それは禁忌の森に自生する黒い薬草と、冷たい湧き水を凝固させた漆黒の石鹸だ。
雨上がりの針葉樹林のような静けさと、夜にしか咲かない花のような、冷たい甘さが混ざり合う香りがする。
この城に流れ着いてしばらくは、石鹸の匂いは彼の鋭敏な嗅覚を刺激する、毒のようなものでしかなかった。
だが今の彼は、その香りを身に纏うことを、自分に課した儀式のように受け入れている。
大きな掌を、執拗なまでに擦り合わせる。
指の節々、爪の間に土は残っていないか。
髪にも、戦いの余韻の荒々しい匂いや、血の匂いが染み付いていないか。
立ち上る石鹸の香りが、肺の奥にこびりついた不浄な過去を洗い流してくれると信じるように。
(……あいつの指が、俺に触れるんだ)
独白が、湿った蒸気の中に熱を持って溶ける。
自らの不安定な魔力を調律するために、ベルローズの白磁のような指先が、自分の肌に触れるとき。
その指先が、自分の不浄な過去や、戦いでついた血の不快な臭いに触れて、彼女が眉をひそめることだけは許せなかった。
彼女が触れる対象は少なくとも、彼女の部屋の空気を汚さない、清潔な存在でなければならない。
それは、彼が生まれて初めて抱いた、切実で痛々しいほどの、自意識という名の呪いだった。
「ちょ、ちょっと! ルシアン、またそんなに石鹸を無駄遣いして! それは『月の雫』を配合した、僕お手製の貴重なものなんだからね」
扉を蹴破らんばかりの勢いで、清潔なリネンを腕いっぱいに抱えたピピが現れた。
予備の補充に回っていたらしい彼は、石鹸の泡にまみれたルシアンを見るなり、不満げに眉をひそめる。
「……うるせぇ。まだ、落ちてねぇ気がするんだよ」
「君の鼻は敏感すぎるんだ。……ほら、そこまで言うならじっとしてて。君のその後ろ髪、自分じゃ見えないだろ?跳ねまくって、まるで荒野を転がってきた野犬だよ」
ピピは、抱えていたリネンを近くの棚へ無造作に積み上げた。
年季の入った踏み台を、がたごとと足元まで引きずってくると、ひょいと飛び乗る。
そして、細工の施されたブラシを洗面室の棚から取り出すと、ルシアンの濃藍色の髪に、強引に差し込んだ。
尖った耳を避けながら、逃げようとするルシアンの頭をぐっと引き寄せ、ピピは慣れた手つきでブラシを滑らせていく。
「……っ、痛ぇよ。引っ張んな」
「黙ってな。ほらここ! 酷い絡まり方してる、どんな寝相で寝てるんだよ」
ピピはつま先立ちになり、ルシアンの広い肩に片手を置いてバランスを取りながら、強引に髪を梳き上げていく。
ふと、ルシアンの喉が小さく鳴り、掠れた声が独り言のように紡がれた。
「……ピピ」
「なにさ。今は毛先のうねりと格闘してるんだから、喋らないで」
「……俺は、ちゃんと人間に見えてるか」
鏡から目をそらし、睫毛を伏せながらルシアンが投げかけたその問い。
ブラシを動かすピピの手が、一瞬だけ止まる。
ピピは心底呆れたような、あるいは深い溜息を飲み込んだような心地で、ルシアンの広い背中を見つめた。
ピピからすれば、目の前の男はどこからどう見ても、ベルローズが丹精込めて仕上げた、一級品の守護騎士だ。
ベルローズ本人が彼を認め、魔力の一部を分け与え、信頼を寄せている。
城の管理者である自分だって、文句は言いながらも、彼がこの城の一部であることを疑ったことなどない。
それなのに当の本人は未だに、鏡の中に映る『傷ついた野良犬』を追い出せずにいる。
(自分でも、認められているって分かっているだろうに。ベルローズ様があれほど心血を注いでいるのに、それを偽物だなんて……。ベルローズ様の目利きを疑っているのと同じだってことに、この馬鹿は気づいてないのか?)
ピピは、自分の主人を軽んじられているようで少しだけ腹立たしいと同時に、その自己肯定感の低さが不憫でもあった。
ピピの前に立つルシアンの背中は広く、しなやかで強靭な筋肉に覆われている。
だが、鏡越しに見えるルシアンのサファイアの瞳には、怯える幼い獣のような頼りなさが混ざっていた。
「はぁ……。君は本当に、救いようのない馬鹿だね」
ピピは呆れたように溜息をつき、再びブラシを動かし始めた。
「ベルローズ様が君を選んだのは、君が完璧な人間だからでも、美しい獣だからでもない。……君が、君だからだろ?」
ピピはそう言って、仕上げにさらに力を込めた。
「でも、もし君が『ベルローズ様の騎士』を気取りたいなら、せめて寝癖くらいは直しなよ。……ほら、終わった。少しは人前に出せる面になったんじゃない?」
ルシアンは、ピピに手入れされた自分の姿を、再び鏡の中で確認した。
整えられた髪。
石鹸の清涼な香り。
「……あいつの前に立つ時くらい、マシな格好でいてぇだけだ」
独り言のように呟いた言葉。
かつて蔑まれた自分が、今はたった一人のためにこうして自分を整えている。
その不完全さを隠すのではなく、彼女に相応しいように磨き上げようとしている。
それは、酷く面映ゆく、けれど彼にとって初めて得た確かな誇りだった。
だが。
身なりを整え、石鹸の香りで上書きすればするほど。
肌の下で蠢く、根源的な野性の鼓動が、お前は偽物だと嘲笑うかのように熱く脈打つのを、彼は皮膚の内側に感じていた。
「……行くよ。ベルローズ様が起きる時間だ。いつまでも鏡を見てるんじゃないよ」
ピピが踏み台を片付け、てきぱきと準備を整える。
「分かってるよ」
清涼な香りを纏い、ルシアンは洗面室を後にした。
朝陽が廊下に差し込み、影を長く伸ばしている。
その一歩一歩が、獣の歩みから、彼女を守るための騎士の足取りへと、静かに変わっていく。
けれど、その足音にはまだわずかな迷いが感じられていた。




