第33話:上書きされた色
窓から差し込む朝陽は、空気中を舞う塵の一粒一粒を透き通る金色の粒へと変え、嵐の後のような静謐な空気を室内に満たしている。
ベルローズが重い瞼を持ち上げたとき、最初に感じたのは、驚くほど澄み渡った身軽さだった。
彼女の全身を蝕んでいた、あのどろりとした鉛のような魔力の澱みが、跡形もなく消えている。
昨夜までの、脳髄を直接炙られるような不快感はどこへ行ったのか。
体の芯まで、清冽な湧き水で満たされたかのような心地よさが、冷たい絹のシーツを伝って指先まで行き渡っていた。
(とても、静か……)
鏡を見る必要もなかった。
呪わしく脈動し、自分を部品へと引き戻そうとしていた角が、今は凪いだ水面のように静まり返っている。
ベルローズは、自身の魔力の滑らかな循環だけではっきりと理解できた。
ふと、枕元へ視線を落とした彼女の動きが止まる。
そこには、ベッドの端に頭を預け、冷たい石の床に座り込んだまま、眠りに落ちているルシアンの姿があった。
昨夜の、獲物を射貫くような鋭い眼光は消えている。
長い睫毛を落とした寝顔は、どこか誇らしげで、それでいて驚くほど無防備だ。
濃藍色の髪が朝光に透けて淡い輝きを放ち、尖った耳が、眠りの中でも主の呼吸を拾うように微かに揺れていた。
ベルローズは彼を起こさぬよう、音もなく細く息を呑んだ。
彼が昨夜、どれほど必死に自分を現実へと繋ぎ止めてくれたのか。
視界が赤紫色に染まる混濁の中で、自分を捉えて離さなかったサファイアの青が蘇る。
焼けるような熱量に、自らも焼かれながら飛び込んできた、愚かで強靭な色。
(……あなたは、本当に)
醜いと断じられた自らの角。
けれど、彼に触れられ、あの氷の熱を分かち合った後の今は、それがかつてのように自分を縛る呪縛には思えなかった。
むしろ、彼の傷跡と引き換えに得た、新しい沈黙のようにすら感じられる。
彼女は、ルシアンの片手がシーツの上に無造作に投げ出されていることに気づく。
その掌には、昨夜の暴虐な熱量を真っ向から受け止めた、生々しい痕跡が刻まれていた。
赤く腫れ、痛々しく変色した火傷の跡。
ベルローズは思わず、その跡へと指先を伸ばしかけた。
だが、触れればこの静けさが壊れてしまうような。
あるいは、自分の心にこれ以上の色が混じってしまうのを恐れるような予感に打たれ、空中でその手を止めた。
ベルローズは微かに震える指をゆっくりと、自分を律するように引き戻した。
まだ、この色を認めるわけにはいかない。
名もなき変化への本能的な恐れが、彼女の腕を金縛りにしていた。
不意に、廊下の奥から静かな、けれど隠しきれない緊張を含んだ二つの足音が近づいてくる。
ベルローズが声をかけるより早く、床に伏せられていたルシアンの耳が、ぴくりと鋭く跳ねた。
「……ッ!」
弾かれたように飛び起きたルシアンは、瞬時に険しい表情を取り戻す。
ルシアンの耳が鋭く後方へ伏せられ、サファイアブルーの瞳に殺意が宿る。
目覚めた瞬間、彼は誰かを守るための盾ではなく、狂暴な肉食獣へと変貌していた。
その右手が、不可視の獲物を引き裂くように鋭く空を切り、寝室の静謐な空気を切り裂く。
だが、目の前で身を起こしたベルローズと至近距離で目が合った瞬間、ルシアンの身体から急速に力が抜けた。
昨夜の記憶が奔流のように押し寄せたのだろう。
剥き出しにされた牙が隠され、尖っていた耳が戸惑ったように動く。
そのサファイアの瞳が一瞬だけ激しく揺れ、気まずそうに、視線を泳がせた。
「……気分はどうだ。まだ、熱いのか?」
彼はわずかに距離を取りつつ、低い声で問いかける。
掠れたその声には、精一杯の不遜さで隠した、鋭い懸念が剥き出しになっていた。
ベルローズは、隠そうともせず露わになった自らの角にそっと指先で触れ、穏やかに首を振った。
「いいえ。……とても、清々しいわ」
「……そうかよ。ならいい」
ルシアンはぶっきらぼうに言い捨て、焼けた手を隠すように背後に回す。
その動きには、誇り高い獣が傷を隠して逃げるような危うさがあった。
そこへ、控えめなノックと共にピピとアマンダが入室してきた。
二人はベルローズの健やかな顔を確認すると、言葉を交わすまでもなく、同時にその場へ膝をついた。
「……ベルローズ様。言いつけを破り、独断でルシアンを立ち入らせたこと……、お裁きを覚悟しております」
ピピが深く頭を下げる。
規律を重んじ、主の美学を愛する彼にとって、その命令に背くことは重罪だった。
それでも、ピピは顔を上げ、灰色の瞳に確かな意志を宿して続けた。
「ですが、僕たちの手では届かない場所へ、ルシアンなら手を伸ばせると……、そう信じてしまいました」
「だって、昨日のルシアンさん」
アマンダが隣で琥珀色の瞳を輝かせ、本質を突くように微笑んだ。
「森の誰よりも、ベルローズ様の命を求めていましたから。その渇いた匂いがあまりに強くて、止めるなんて菌糸一本分もできませんでした」
「……余計な事言ってんじゃねぇ」
ベルローズは、二人を叱責することはしなかった。
彼女の誇りは、彼らの独断によって汚されたのではない。
むしろ、自らをも見捨てようとした自分を、彼らが全力で繋ぎ止めてくれた。
その静かな自覚が、冷えた心に染み渡っていく。
「立ちなさい。私は、昨日よりもずっと気分がいいの」
ピピが安堵のあまり、膝の力が抜けたように大きく息を吐き出す。
ベルローズはゆっくりとベッドから降り、紅玉を散りばめたような朝陽が降り注ぐ窓際へ歩んだ。
「ルシアン。その手を出しなさい」
唐突な命令に、部屋を去ろうとしていたルシアンが足を止める。
彼は渋々、背後に隠していた手を差し出す。
ベルローズはその大きな掌を、そっと、慈しむように自分の両手で包み込んだ。
「……っ」
触れられた瞬間、ルシアンの肩が大きく跳ねた。
傷が痛んだからではない。
自分よりも遥かに白く細く、柔らかな温度に包まれたことへの、本能的な拒絶と、抗いがたい屈従。
彼は一瞬、汚れたものを引き剥がすように手を引こうとした。
だが、ベルローズの指先に込められた、主としての静かな重圧がそれを許さない。
ルシアンは、自らの自由が彼女の掌の中に閉じ込められていく感覚に、喉の奥を鳴らした。
自分を焼くはずだった熱を奪った代わりに、彼に残してしまった痛み。
彼女が軽く目を閉じ、唇を動かす。
澄み切った治癒の魔力が傷口を癒やし、赤い腫れが急速に引いていく。
ルシアンはその心地よい冷たさに、思わず長い尾をゆったりと左右に振った。
「……ルシアン。あなたが私のために焼いたその手の痛みを、なかったことにはしない。どれだけ時間をかけたとしても、私が相応しいと思う形で必ず返すわ」
真っ直ぐな言葉をぶつけられたルシアンは、一瞬だけ喉を詰まらせたように沈黙した。
サファイアブルーの瞳が、射抜かれたように大きく見開かれる。
「……勝手にしろ。あんたがそうしたいならな」
彼は、熱の引いた自分の掌を不自然なほどじっと見つめ、それから逃げるように手を引いた。
ベルローズの指先が離れた場所が、朝の冷気にさらされて妙に冷たく感じる。
「俺はただ、あんな熱の中に放っておかれるのが我慢ならなかっただけだ。あんたがあんな顔してたら、俺の寝覚めも悪くなる。……それだけだ」
ルシアンはぶっきらぼうに背を向けると、扉の前まで歩み、一度だけ振り返った。
「……もう、あんな酷ぇ匂いさせんなよ。……今のほうが、ずっとマシだ」
昨夜、彼の鼻腔を焼いた、あの焦げ付くような魔力の匂い。
それを二度と感じたくないという不器用な誓いを、彼は精一杯の毒づきで上書きした。
ベルローズは、彼が昨夜注いでくれた献身に報いるように、いつもより少しだけ長く、その瞳を見つめ返した。
交わされた視線の温度が、夜の狂気とは異なる静かな、けれど消えない色を帯びていく。
それは言葉にできない契約以上の何かが、二人の間に確かに芽生えはじめたことを、朝の光の中で告げていた。
「……ちゃんと食って、さっさと体力戻せ」
扉に手をかけ、彼は背中で短く告げる。
去り際に動いたしなやかな尾が、彼自身の制御しきれない充足感を隠しきれずにいた。
音を立てて少々乱暴に扉を閉め、ルシアンは出て行く。
後に残されたのは、朝陽に照らされたベルローズと、満足げに微笑むアマンダ、そしてようやく緊張を解いて苦笑するピピの三人だった。
ベルローズは、扉の向こうへと消えた気配を、熱の引いた澄んだ瞳で見送る。
ルシアンの言い放った言葉は相変わらず無作法だったが、その響きには、夜の絶望を塗り替えるための、確かな蒼い光が宿っていた。
(……ルシアン)
喉元までせり上がった彼の名を、彼女は寸前で飲み込んだ。
ベルローズは、自分の指先に残る微かな熱の余韻を、ただ静かに噛み締めていた。




