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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第4章:熱源の証明

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第32話:蒼氷の洗礼

 ルシアンの掌が角を包み込んだ瞬間、閉ざされた寝室の空気は、あたかも火薬が()ぜたかのような衝撃に震えた。


 無策でその熱源に触れたわけではない。

 彼の両手には、石の床を瞬時に凍てつかせ、周囲の霧を雪の結晶へと変えるほどの極低温の凍気が、分厚い魔力の防壁として凝縮されていた。

 だが、その鉄をも砕く蒼氷の守護を、ベルローズの角が放つ赤紫の熱は、嘲笑(あざわら)うかのように一瞬で焼き切ったのだ。


「……っ、く……ッ!」


 ルシアンの眉間に深い険が刻まれ、彼は牙を食いしばった。

 掌を覆っていた蒼氷の魔力が、接触した瞬間に蒸発していく。

 指先から伝わる熱は、もはや温度という概念を通り越していた。

 凍気の防壁をいとも容易く貫通し、皮膚を焼いていく苛烈(かれつ)な熱。


「あっちぃな……、ふざけやがって……!」


 それでも、ここで手を離すわけにはいかない。

 ルシアンは自らの全魔力を両手に集中させた。

 掌と角の間、凍てつく蒼と燃え盛る紅が、(わず)かな隙間で凄まじいせめぎ合いを演じる。


 ルシアンの放つ冷気は、本来なら城の一角を氷漬けにできるほど強大なものだ。

 しかし、目の前の熱量は、その絶対零度の魔力すらも燃料にして、さらに激しく燃え上がるかのような異常な純度を誇っていた。


 ベルローズの角から溢れ出し、部屋を赤紫の地獄へと変えていた、煮え滾るような熱量。

 それに対し、ルシアンの全身から噴き出した、極北の吹雪を思わせる蒼い凍気。

 正反対の性質を持つ二つの魔力が真っ向から衝突し、物理的な衝撃波となって室内に吹き荒れる。


 壁に掛けられた古びた絵画が激しく揺れ、机上に置かれた真鍮(しんちゅう)製の天球儀が、音を立てて転がった。

 足元に溜まっていた不吉な魔力の霧は、激しい対流を起こして荒れ狂う渦へと姿を変える。


 そのあまりの衝撃に、濃藍色の髪から覗く耳が、苦痛に耐えかねて鋭く後方へ伏せられた。

 しなやかで強靭な背筋が、(つる)を絞り切った弓のように強張(こわば)る。

 長い尾が床を激しく叩き、乾いた音を響かせた。


 それでも、その手が離れることはなかった。

 むしろ彼は、自らの掌がじりじりと焼けることなど(いと)わず、さらに凍気を絞り出しながら、ベルローズの角を固定する。


 その指先は、岩山を掴むような強固な意志を失わない。

 彼は、自らの皮膚が炭化していくような感覚さえ、彼女の苦痛を自分が確かに食い破っているという、唯一無二の証明であると確信していた。


「……ぁ、……っ!」


 ベルローズの喉から、短い、悲鳴にも似た呼気が漏れた。

 ルシアンから注がれる魔力は、鋭く研ぎ澄まされた氷の剣のようだ。


 けれど、それはかつて彼女を(さいな)んだ、絶望的な破壊の痛みとは違う。

 その深淵には、彼女の命を無理やりにでも繋ぎ止めようとする、野性的で、あまりにも切実な熱が宿っていた。


 徐々に蒼い凍気が熱を押し返し、角の付け根という彼女の最大の急所から、細い血管を伝って全身へと駆け巡り始める。

 ただ感覚を麻痺させるだけの冷たさではなく、濁った熱を一本ずつ丁寧に、けれど力任せに()き取っていくような、慈悲深い洗礼。

 内側から沸騰し、自分という形を保てなくなっていた彼女の血液が、彼の蒼い力によって、静かに、そして美しく()いでゆく。


 視界が真っ白な霧に包まれる。

 極限の温度差が生み出した、幻想的なまでに白い霧。

 その中で、ベルローズの意識は現実の痛みを離れ、遠い過去の残像と重なった。


(あの人の指先は、いつだって……、冷たかった……)


 それは洗練されたようでいて、触れられた箇所から心が凍りつくような、徹底した拒絶と選別の冷たさだった。


 彼女を道具として正しく機能させるための、無機質な調律。

 彼女がどれほど熱に浮かされ、魂が悲鳴を上げていようとも無視した。

 ただ正常な出力へと戻すためだけの、冷酷なメンテナンス作業。


 けれど、今、この瞬間に自分を繋ぎ止めているこの手はどうだろう。

 ルシアンの手は、逃げ場を許さないほど強引で、不器用なほどに力がこもっている。

 だが、そこから注がれる蒼は、驚くほど真っ直ぐに、彼女の痛みに呼応していた。

 ただの部品を直すための冷たさではなく、共に焼かれようとする者の、熱を(はら)んだ凍気。


「……あ、……」


 触れられている場所から、内臓を焼き、思考を泥に変えていた熱が引いていく。

 物理的な冷却だけには留まらない。

 彼の魔力が細胞の隅々にまで浸透するにつれ、彼女の精神を縛り付けていた王都の亡霊たちが、蒼い氷の檻の下に、次々と封じ込められていくのを感じた。


 ベルローズが細く、どこか満足そうに息を吐き、指先から力が抜けてゆく。

 生まれて初めて、誰かに角に触れられ、心地よいと感じた。

 忌まわしい異形、隠すべき呪いだと断じられた己の急所が、彼の氷によって、何よりも深い安らぎへと書き換えられていく。


 彼女は重い睫毛を伏せ、その静謐(せいひつ)な献身にすべてを委ねるように、そっと目を閉じた。

 支えを失ったその体が、重力に抗うことをやめ、吸い寄せられるようにルシアンの膝へと崩れ落ちる。


 次第に、室内を支配していた暴力的な熱が引いていく。

 静寂が戻った部屋で、立ち込めていた霧が、夜風に吹かれるようにゆっくりと薄れていった。

 ベルローズは微かな意識の淵で、もう一度だけ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


 ぼやけた視界、白く濁った霧の向こう側。

 そこに、一点の曇りもないサファイアブルーが輝いていた。


 暗闇を貫き、過去の絶望という迷宮から自分を連れ出してくれる、唯一の灯台。

 ルシアンの瞳の色だけが、鮮明に彼女の網膜に焼き付く。

 言葉よりも雄弁な蒼に見つめられているだけで、魂の震えが、世界そのものが治まっていくかのようだ。


 偽りの青空でも、人を()ね付ける無機質な白でもない。

 ただ自分一人を見つめ、灼熱の地獄から引きずり上げてくれた、夜を貫く蒼い光。

 その光を魂の奥底に刻み付けたまま、彼女の意識は深い凪へと沈んでいった。


「……ベルローズ?」


 ルシアンは、自らの膝に重ねられた主の体温を、硬直したまま受け止めていた。

 膝に預けられた彼女の重みが、これほどまでに心臓を締め付けるものだとは知らなかった。

 彼は自らの手のひらを焼いた熱よりも、その重さという事実に、息を止めるほどに動揺していた。


 かつて、死にかけていた自分を、彼女が拾い上げた。

 彼女の魔力によって、壊れていた自分は繋ぎ合わされた。


 あの恩を、あの日感じた熱を、今度は自分が返したのだ。

 自分の凍気が、彼女の絶望を一瞬でも止めることができた。

 そんな実感が、彼の胸の奥で言いようのない感情を突き動かす。


 それは、忠誠などという言葉では到底足りない。

 もっと泥臭く、もっと鋭く。

 もっと、執着に近い何か。


 彼の手のひらには、彼女の角が発していた熱が、火傷となって深く残っている。

 蒼氷の魔力をもってしても防げなかったこの激痛さえ、今はもう愛おしい。

 そして、熱の引いた彼女の命の拍動が、自らの掌を通じて伝わってくること。

 それだけが、今の彼にとって唯一の、そして絶対的な真実だった。


 ルシアンは、彼女を寝台へと運ぼうとして、両手を一瞬だけ止めた。

 今さら、触れていいのかなどと逡巡(しゅんじゅん)するのは滑稽(こっけい)だとわかっている。

 だが、熱の引いた彼女の横顔は、触れれば壊れてしまいそうなほどに繊細で、月光に溶けてしまいそうだった。


 彼は自嘲するように、短く息を吐いた。

 そして意を決して、壊れ物を扱うような慎重さで、彼女をそっと腕の中に抱き上げた。

 しなやかな腕の筋肉が、彼女の体を外敵から守るように包み込む。

 常に凛として、自分を支配していたはずの女主人が、腕の中では驚くほどに軽く、そして温かい命として存在していた。


 柔らかな寝台に彼女を横たえ、ルシアンはそのまま床に片膝を立てて座り込んだ。

 窓から差し込む銀色の月光が、眠れるベルローズの長い睫毛に、穏やかな影を落としている。

 その角の輝きは、禍々しい赤紫から静かな漆黒へと戻り、平穏を取り戻していた。


 彼女が再び目を開けたとき、真っ先に目に入るのが、自分であるように。

 ルシアンは、逆立っていた尾を静かに足元に巻き、サファイアブルーの瞳を眠れる主から一刻も逸らすことなく、夜明けを待ち始めた。


 彼女を焼き尽くそうとした深紅の記憶を塗り替えた、蒼い氷の熱。

 ルシアンはただ、腕の中に残るかすかな体温と、彼女の安らかな呼吸だけに、その魂のすべてを注ぎ続けていた。

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