第31話:過去の亡霊
室内の熱気は、もはや呼吸を妨げるほどに濃密だった。
角から溢れ出した余剰魔力は、赤紫色の霧となって視界を不透明に塗り替えていく。
壁に掛けられた絵画や豪奢な調度品の輪郭は、熱に溶けた蜜のように歪んでいる。
ルシアンの耳は、主の苦悶に満ちた呼気を拾って、ぴくりと後方へ伏せられた。
人間のそれとは比較にならない鋭敏な聴覚が、彼女の肺が焼けるような摩擦音までも、逃げ場のない現実として残酷に伝えてくる。
一呼吸ごとに、彼女の生命が、制御を失った自らの魔力によって内側から削り取られていくのが、指先に伝わる空気の震えから見て取れた。
鼻腔を突くのは、平時の彼女が纏う、あの凛とした冷ややかな薔薇の花のような香りではない。
過熱した魔導回路が放つ焦げ付いた魔力の匂い。
そして、獣の生存本能を直接刺激するような、焼けつく命の匂いだ。
逆立った濃藍色の尾が苛立たしげに空を打ち、ルシアンの喉の奥から、無意識のうちに低く地鳴りのような唸りが漏れる。
彼女をここまで追い詰め、その誇り高い魂を無機質な装置として磨り潰そうとした過去。
そこに巣食う、光り輝く邪悪への、剥き出しの敵意だった。
魔力の霧の深淵で、ベルローズは自分を抱きしめるようにして震えていた。
彼女の魔力の調整装置でもある頭部の角は、魔力を過剰に消費すれば発熱する。
これまでも経験してきたことだったが、まるで煉獄の中に放り込まれたような、ここまでの熱量はかつてないものだ。
熱に浮かされた意識の底から、剥がれ落ちるように忌まわしい過去の断片がせり上がってくる。
脳裏に響くのは、洗練された、けれど血の通わぬ『白』の声。
あたたかな居場所ではなく、彼女を閉じ込める檻だった、王都のあの屋敷。
冷たい大理石の床に差し込んだ、神経を逆撫でするような無機質な月光。
あてがわれた白いドレスは愛の証ではなく、彼女という個体を部品として完成させるための、単なる拘束具に過ぎなかった。
首筋に触れた、吸い付くように冷たい、白手袋の指先。
あれは愛撫などではなく、魔力の充填効率と導電率を確かめるための、ただの点検だった。
あの日々のすべてが、彼女という一人の女を測るための物差し。
瑕疵を探し、有用性を判定するための、不快な事務作業でしかなかったなんて。
「やめて……、触らないで……! 私はもう、誰の道具にもならない……!」
ベルローズは、自らの角を隠そうと爪が食い込むほど強く頭を抱える。
彼女にとって、この異常な熱を帯び、意思に反して脈動する角は、逃げ切れていない王都の呪縛そのものだ。
醜く赤紫に染まった異形は、再び自分を『高価な動力源』へと引き戻そうとする不吉な灯火に思えた。
ルシアンは、その痛々しい拒絶の中に、かつての自分を見た。
王都の護送車、鉄格子の隙間から見えた、冷笑を浮かべる魔導士たちの顔。
首にかけられた、重く忌々しい聖銀の拘束具。
命を素材としてしか見ない奴らの、あの乾いた、無機質な視線。
彼女の震えは、単なる肉体の不調ではないのだろう。
誇りを踏みにじられ、存在を一方的に塗り替えられようとした者だけが抱く、魂の断末魔だと、ルシアンは痛いほどに悟っていた。
ルシアンは黙って、赤紫の霧の中へと歩を進めた。
一歩ごとに、彼の足元から這い出した蒼白い魔力の冷気が、淀んだ熱気を物理的に押し流していく。
それは、彼女を閉じ込める過去の檻を、一つずつ力任せに壊していくような歩みだった。
「……ベルローズ」
彼女の目の前、手を伸ばせば触れられる距離で、ルシアンは足を止めた。
一気に踏み込むこともできたはずだが、彼はあえて、残酷なほど緩やかな速度で片膝をついた。
その動作は驚くほど流麗で、大型の肉食獣が獲物を追い詰めるかのような、しなやかさを湛えていた。
ルシアンは視線の高さを合わせ、逃げようとする彼女の、熱に潤んだ深紅の瞳を正面から捉える。
「下がれと言っているのが……、聞こえないの……っ」
ベルローズの言葉が、激しい咳き込みによって途切れる。
拒絶の言葉を紡ごうとするたび、角から逆流する熱が脳髄を焼き、理性を白く染め上げていく。
彼女は震える両手で自分の胸元を掻きむしり、視界を塞ぐようにして、ルシアンの存在を否定しようともがいた。
「聞こえてるよ。……けどな、命令を忠実に聞くのは騎士の仕事だろ。今の俺は、……そうじゃねぇ」
彼自身、これが忠誠心なのか、あるいはまた別の何かなのか、まだ答えは出していない。
ただ、目の前の彼女が、熱に焼かれて一人で燃え尽きようとしていることが、自分の爪を引き剥がされるよりも我慢ならなかった。
「俺には、あんたが何に怯えてんのかはわからない。何があったのかも、まだ知らねぇし……、全部教えてくれと言うつもりもねぇよ」
低い、けれど確かな熱を帯びた声が、不快な魔力を切り裂く。
「……それでも、死に体だった俺を、ただの部品から創り替えたのはあんただ。あんたが何者で、どんな異形を抱えていようと、俺の主はあんた一人だ。……二度と、誰にも『部品』なんて呼ばせねぇ」
ベルローズの肩が、びくりと跳ねる。
かつて自分を定義した、正しい秩序という名の暴力が、彼女の喉を締め上げていた。
荒い呼吸を繰り返す彼女の、燃えるような紅の視線が、真っ直ぐに自分を映して逸らさないルシアンの瞳を射貫く。
「……汚れ仕事は俺の役目だろ。全部、俺に寄越せ」
ルシアンは臆すことなく、室内で最も熱く、最も不吉な光を放つ場所へと手を伸ばした。
彼女が醜いと忌み嫌い、誰の手も拒んできた、剥き出しの急所。
ルシアンのしなやかで長い指先が、脈動する漆黒の角に、迷いなく触れる。
触れられた箇所から、ルシアンの静かな、けれど圧倒的な魔力が流れ込んでくる。
それはベルローズが予期した、冷酷な指先による検品ではなかった。
自分の指を焼くほどの熱を、真正面から受け止めて肩代わりしようとする、強靭で、乱暴なほどの生身の覚悟だ。
至近距離まで近づいたルシアンの掌に、角から溢れ出した魔力がチリチリと火花を散らして飛び火する。
「……っ、馬鹿な……、やめなさい……! あなたごと、焼いてしまうわよ……」
「構わねぇよ。あんた一人が焦げるよりは、よっぽどマシだ」
ベルローズが孤独に朽ちてしまうくらいなら。
この熱を自分が飲み干せるなら、焼かれ傷つこうが、ここで終わろうが構わない。
その決意は、余計な言葉を必要としなかった。
角に触れたルシアンは、わずかに顔をしかめる。
だが、慈しむように、そのしなやかで大きな掌で、激しく脈打つ熱源を包み込んでいく。
そこから伝わるのは、ただひたすらに真っ直ぐで、ベルローズという存在の熱そのものを力強く肯定しようとする、不器用なほどに強い意志だった。




