第30話:侵食する熱
その日、王都側から押し寄せた不浄の波は、これまでの規模を遥かに凌駕していた。
城門の向こう、禁忌の森の境界を蹂躙して現れたのは、幾十もの人造キメラの軍勢。
王都の地下での無残な実験の末に、失敗作として捨てられた異形たち。
本来なら森の深淵で朽ち果てるはずの亡骸が、投棄される速度に森の自浄が追いつかず、行き場を失った濁流となってこの城へと押し寄せたのだ。
迎撃に立つルシアンは、眉ひとつ動かさずにただ静かに一歩、前へと踏み出す。
彼の足元から放射状に蒼い氷の結晶が走り、大地を凍てつかせていく。
「……邪魔だ。消えろ」
短く切り捨てた言葉と共に、中空に無数の蒼炎の火球が展開される。
それは流星のごとき速度でキメラの群れを貫き、内側から爆ぜた。
氷で動きを封じられた異形たちは、抵抗の術もなく蒼い炎に呑まれ、灰も残さず焼き尽くされていく。
「チッ、キリがねぇ」
ルシアンの指先が空を薙げば、吹き荒ぶ吹雪が鋭利な刃と化し、後続の群れを細切れに寸断した。
しかし、打ち倒してもなお、森の奥からは際限なく魔力の歪みが溢れ出す。
真鍮の歯車を剥き出しにしたキメラの返り血で頬が汚れても、拭う暇さえない。
一方、城壁の際ではピピが石床に両手を押し当て、青白い顔で魔力を練り上げていた。
「東側の障壁が持たない……、城壁が砕けそうに悲鳴を上げてる……」
彼が強引に地形を変え、異形の足を止めようとすれば、別の亀裂からさらに新しい群れが這い出してくる。
城そのものであるピピの魔力が、直接削り取られていく。
「アマンダ、西側の根っこが焼かれてる……! もっと菌糸を回して!」
「わかっています、でも……、森が、もう受けきれない。これ以上は……、土が、壊れます」
アマンダの声は、いつもの穏やかさを失い、硬く強張っていた。
彼女の足元からは、黒く太い菌糸が津波のように広がり、城壁を登ろうとするキメラの脚を絡め取っていく。
だが、焼けるような異形の返り血と物量が、庭を支える生命の根幹を蝕んでいた。
額に青い筋を浮かべたアマンダの吐息は、湿った風のように苦しげに乱れている。
城の結界の至る所に亀裂が入り、空間が悲鳴を上げる。
ルシアンが前線でどれほど異形を屠ろうとも、ピピやアマンダがどれほど防衛術式を張り直そうとも。
網の目を縫うように無数の異形が雪崩れ込んでくる。
その悲鳴を、ベルローズは自分自身の骨が軋む痛みとして受け止めていた。
彼女は結界の綻びを強引に魔力で縫い合わせながら、前線に出た三人の姿を、瞳を焦がさんばかりに見つめている。
彼らの命を代償にした勝利など、彼女は一秒たりとも望んでいない。
「……根元から、断つしかないわね」
ベルローズは震える膝に力を込め、祭壇の間へと向かって、ドレスの裾をからげるようにして駆け出した。
城を守る者たちが、その誇りと命を削り切る前に。
この城を、彼らの居場所を失うわけにはいかない。
ベルローズは焦燥のただ中で、決断を下した。
城の深部、魔力の脈動が最も強く響く祭壇の間。
ベルローズは自身の肉体を導火線として、結界の心臓部に直接、膨大な魔力を叩き込んだ。
視界が真っ白に染まるほどの衝撃が走り、禁忌の森が震える。
城門に群がっていた人造キメラの群れが、一瞬で塵となって霧散していく。
それは、鮮やかな勝利などではなかった。
自らの精神と肉体を削り取って得た、あまりにも乱暴な強制排除。
嵐が過ぎ去ったあと、祭壇の中央でベルローズは崩れ落ちるように膝をついた。
「……っ、ああ……」
喉の奥から漏れたのは、かすかな、そして震える呻きだった。
使い果たしたはずの魔力が、制御を失って逆流し、濁流となって彼女の脳髄へと駆け上がる。
角の付け根が、赤く熱した鉄を直接押し当てられたように脈打ち、漆黒の表面が不吉な赤紫色の光を放ち始めた。
「ベルローズ様!」
駆け寄ろうとするピピを、彼女は片手で、拒絶するように制した。
その指先からは、制御の効かない魔力の火花が散っている。
「……来ないで。……触れることも、許さないわ」
冷徹な響きを無理やり絞り出し、彼女はふらつく足取りで立ち上がった。
壁を伝う指先は小刻みに震え、視界は熱に浮かされてぐにゃりと歪んでいる。
(こんな……、こんな無様な姿……、見せられるはずがない)
彼女は一人、最上階の自室へと引き籠もった。
その背中は、誰の助けも拒む、孤独という名の鎧を纏っていた。
◆
主の私室へと続く、重厚な扉の前。
一分の隙もなく門番のように立ち塞がるピピと、壁一面に漆黒の菌糸を這わせたアマンダの姿があった。
そこへ、廊下の奥から迷いのない、そして重い足音が響く。
ルシアンだった。
そのサファイアブルーの瞳は、扉の隙間から漏れ出す、焼け付くような熱を捉えていた。
「どけよ、ピピ」
地を這うような低い声。
だが、ピピは一歩も引かなかった。
小さな掌を扉に当て、城の一部としての矜持をその灰色の瞳に宿す。
「……駄目だよ、ルシアン。ベルローズ様は誰も入れるなと命じられた。僕らは、あのお方の誇りを守る義務があるんだ」
ピピの声は、かすかに震えていた。
ルシアンに対する怯えから来るものではなく、苦しむ主に何もできない己の無力さ。
それでも彼女が望む、完璧な魔女としての形を維持させようとする、必死の忠義だ。
弱った姿を晒すくらいなら独りで抱え込むことを選ぶ主の、その美学を守る。
それがピピの愛だった。
「……はっ、誇りだ?」
ルシアンの喉の奥から、地鳴りのような唸りが漏れた。
彼は一歩踏み出し、ピピを圧するように見下ろす。
逆立った尾が、苛立ちを隠すことなく石床を激しく叩き、火花が散る。
「中で死にかけてたら、そんなもんクソの役にも立たねぇだろ。死んだ後の尊厳なんて、俺は知らねぇよ」
一歩踏み出したルシアンの体躯は、静かな、けれど圧倒的な威圧感を放っていた。
荒々しい獣というより、極限まで研ぎ澄まされた冷たい刃。
その肉体は廊下の微かな明かりを吸い込み、殺気にも似た覚悟を帯びていた。
ピピが重んじるのは、彼女が築き上げてきた高潔な魔女としての形だ。
だが今のルシアンが求めているのは、扉の向こう側で熱に焼かれている、彼女の命そのものだった。
「……ルシアンさん」
アマンダが、琥珀色の瞳をルシアンに向け、囁くような声を重ねる。
「ベルローズ様が……、泣いているような匂いがします。とても苦しくて、熱い、焼けるような匂い。でも、あの方は、誰かにその熱を見られることを、何よりも嫌がっているの」
ルシアンの指先が、主の苦痛に呼応して脈打つ、首元の紫の薔薇に触れた。
チョーカーは今や、彼の肌を焼くほどの熱を持っている。
「……尊厳なんてもんを守ってあいつが壊れるなら、汚れは俺が背負う。嫌われようが、後で首を撥ねられようが構わねぇよ」
ピピは、彼の言葉に目を見開いた。
力でねじ伏せるのではない。
己の全てを捨ててでも、主の地獄へ踏み込もうとする、騎士の剥き出しの覚悟。
その圧倒的なまでの生への執着が、ピピの張り詰めた拒絶を融かした。
ピピは悔しげに唇を噛みながら、握りしめていた拳を、ゆっくりと解いた。
そして何も言わず、ただ、扉の前から一歩脇へ退く。
「……わかった。勝手にしろ。ただし、もしもベルローズ様をこれ以上傷つけたら、僕がこの城の奥深く、君を埋めてやるからね」
ピピは背を向け、廊下の闇へと歩き出す。
それが今の彼にできる、精一杯の肯定だった。
ピピはルシアンの瞳の中に、自分のような純粋な敬愛ではなく、もっと泥臭く、救いのないほど深い執着を見た。
それは、理性を美学とする自分には一生真似のできないだろう、猛毒のような献身だった。
残されたアマンダは、ルシアンをじっと見つめていたが、やがて微笑んだ。
それは慈愛でも励ましでもなく、ただ嵐が通り過ぎるのを認めたような、自然の無垢な静けさだった。
「ルシアンさん。ベルローズ様の熱を、ちゃんと飲み込んであげてくださいね」
彼女が指先を揺らすと、扉を覆っていた漆黒の菌糸が、潮が引くように壁へと吸い込まれていく。
道は開かれた。
ルシアンは一切の躊躇なく、重厚な扉を押し開ける。
室内は赤紫色の魔力が霧となって立ち込め、チリチリと肌を焼くような熱気に満ちていた。
角から溢れ出した余剰魔力が蒸気となり、優雅な寝室を異質な熱帯へと変えているのだ。
その霧の奥。
長椅子に身を沈め、胸元を掻きむしるようにしてうずくまる影があった。
ベルローズは、乱れた漆黒の髪の間から、熱に浮かされた瞳で侵入者を睨みつけた。
「……誰が、許可した……。……出て、……行きなさい……!」
白い肌は、沸騰する血に焼かれたように赤く染まっている。
拒絶を込めた瞳は、熱と生理的な涙で潤み、今にも溢れそうに揺れていた。
気高く、理知的であったはずの魔女は、今、一匹の傷ついた獣のように無防備だった。
ルシアンのチョーカーが、彼女の呻きと同期して激しく拍動する。
「言っただろ。……俺には、全部筒抜けだってな」
ルシアンは彼女の拒絶を、ただの音として聞き流した。
そして静かに、けれど逃げ場を塞ぐような確かな足取りで、赤紫の霧の中へと踏み込んでいく。
そのサファイアの瞳には、蔑みも憐れみもない。
ただ、目の前の熱をすべて自分が引き受けるという、静かな狂気にも似た決意だけが、深く宿っていた。




