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【7/16完結予定】氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―【完結まで毎日更新】  作者: 彩羽やよい
第4章:熱源の証明

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第29話:凪の終わりと、小さな予兆

 窓から差し込む朝陽は、禁忌の森の深い霧に()され、書斎の床に冷ややかな白灰色の帯を描いている。

 その光は(ちり)を踊らせるだけで、部屋に暖かさをもたらすことはない。

 むしろ、石壁の冷たさを強調し、世界の温度を奪っていくかのようだった。


 ベルローズは、使い古された魔導書の厚い(ページ)をゆっくりと(めく)った。

 その指先が、黒革の表紙から覗く漆黒の(しおり)に触れる。


 ルシアンから贈られたそれは、彼女が愛用する黒レースのドレスと同じ、混じりけのない夜の色をしていた。

 粗削りな木肌に埋め込まれた紅石が、捲られる頁の下で密やかに、主を監視するように、あるいは守護するように輝いている。


 彼女は言葉を交わすことなく、傍らに控えるルシアンの気配を感じていた。

 ルシアンは彫像のように静かに立ち、窓の外の森を睨んでいる。

 二人の間に流れるのは、かつての主従という形式的な枠組みを、密やかな信頼という熱が侵食し始めた、濃密な沈黙だ。


「ベルローズ。……顔色が良くねぇな」


 短く、低い声が静寂を破る。

 獲物を見定めるような鋭い眼差しが、ベルローズの横顔を捉えた。

 彼は、彼女の呼吸の微かな乱れ、衣擦れの音さえ、獣の聴覚で聞き逃さない。


「考えすぎよ。……少し、この数日ほど、森のざわめきが耳に(さわ)るだけ」


 ベルローズは視線を本に戻したが、その指先は無意識に、髪に隠れた漆黒の角の付け根をなぞっていた。

 痛みに集中を削がれ、先ほどからうまく文字が追えていない。


 王都との境界、禁忌の森から流れ込む不浄が、目に見えて増えている。

 それらを城の結界が弾くたび、彼女の神経を逆撫でするような魔力の不協和音が、角へと蓄積されていた。


 そこへ、慌ただしい足音と共にピピが姿を現した。

 その手には、不穏な紫色の液体が採取された瓶が握られている。


「ベルローズ様! また西の結界付近に、王都の人造魔物の残骸を見つけました。ここ数日、数が多すぎます。森の自浄作用が追いついてないんだ……」


「ピピ、声を落として……。角に響くの」


 ベルローズは眉をひそめ、冷徹な響きを含ませて言葉を遮った。

 だが、その瞳の奥には、城の管理者であるピピの危惧を否定しきれない苛立ちが滲んでいる。

 こめかみの奥で、血管が脈打つような熱い疼きが始まった。


 ピピはハッとして口を(つぐ)み、灰色の瞳を揺らした。

 彼はベルローズの角が帯び始めた熱を、石壁を伝う微かな振動として敏感に感じ取っていた。


「……申し訳ありません。でも、このままじゃ……、結界への負荷が直接、ベルローズ様の体を内側から焼いてしまいますよ」


 ピピは手元の瓶を握り締めると、震える手で懐から小さな蒼い結晶を取り出し、書斎のテーブルにそっと置いた。


「これ……、僕が城の石材から抽出した冷却用の魔導触媒です。気休めかもしれませんが、そばに置いておけば、少しは角の熱を吸ってくれるはずだ」


 ピピは、自分の魔力だけでは主の苦痛を取り除けない不甲斐なさに、ぐっと唇を噛んだ。

 城の城壁ならいくらでも直せる、ひび割れも防げる。

 だが彼では、ベルローズ個人の肉体に宿る呪いの熱には触れられない。


「僕も地下の祭壇へ行って、できるだけ結界の術式を組み替えてきます。……だから、ベルローズ様。無理だけはしないでくださいよ」


 ピピはルシアンへ「ベルローズ様を頼むよ」とでも言いたげな悲痛な眼差しを残し、地下へと走っていった。

 残された書斎に、再び重苦しい静寂が降りる。


 ルシアンは無言のまま、自身の首元に指をかけた。

 肌に馴染んだ、紫の薔薇のチョーカー。

 ベルローズの魔力が編み上げられたその契約の証が、先ほどから異常な速さで、熱い拍動を繰り返している。


 これまでのような、冷たく心地よい魔力の繋がりは感じない。

 首元の皮膚を、真っ赤に熱した針で突かれるかのような、チリチリとした感覚。

 チョーカーから伝わる彼女の魔力は、いつになく尖り、毛羽立っている。


(……なんだ、この熱は。あいつの魔力が、焦げついてやがるのか)


 彼女の魔力が持ち主の制御を離れて焼け付き、悲鳴を上げているかのようだ。

 ルシアンは、自らの内に眠る野性が、不快な警戒音を鳴らすのを聞いた。

 主を(むしば)み始めた不可視の熱を、彼はその本能で、誰よりも敏感に察知している。


「なぁベルローズ。……あんたがどれだけ隠したところで、俺には筒抜けだぞ」


「…………」


「この熱、ただの疲れじゃねぇだろ」


 一歩、ルシアンが踏み出すが、彼の手が彼女の身体に触れることはない。

 ただ、その影が彼女を包み込むように重なり、外気から彼女を遮断する。


「……少し、休むわ。アマンダに、庭の薬草を摘んでくるよう伝えて」


 ベルローズはルシアンの問いには答えず、栞を挟んで本を閉じる。

 逃げるように書斎を後にした彼女の足取りは、いつものように凛としたものだ。

 だがすれ違いざま、ルシアンは彼女の角が微かに赤紫色の不吉な光を帯び始めたのを見逃さなかった。


 ◆


 ベルローズが私室へと戻ってしばらくして、ルシアンは閉ざされた扉の前で立ち尽くしていた。

 たった扉一枚の距離が、やけに遠いものに思える。


 普通の騎士であれば、主が「休む」と言えばその場を()するのが通例だろう。

 だが、ルシアンの野性的な嗅覚は、扉の隙間から漏れ出る、焦げ付くような魔力の匂いを敏感に捉えてしまう。


 彼は、その場を動かなかった。

 一瞬、扉に手をかけようかと思案した後、背中を扉に預け、ずるずるとその場に腰を下ろす。

 重厚な木材を隔てたすぐ向こうに、苦痛に耐える主がいる。

 それならば、せめてここで、誰にも邪魔をさせない防波堤になると決めた。


 ◆


 自室に戻ったベルローズは重い扉を閉めると、膝から崩れ落ちるように姿見の前へ這い寄った。

 震える手で漆黒の角に触れた瞬間、指先が焼けるような高熱に弾かれる。

 魔導回路の過負荷によって、鏡に映し出された角の表面には、妖しい赤紫色の脈動が毒の(つた)のように浮かび上がっていた。


「……醜いわ、本当に」


 鏡の中の自分を見つめ、彼女は自嘲(じちょう)気味に呟いた。

 突き刺すような熱は、次第に疼きとなって彼女の思考を奪っていく。


(……自らの魔力程度、(ぎょ)せなくてどうするの)


 無理矢理にでも押し込めようとするが、抗う甲斐もなく魔力は溢れ出てくる。


 脳裏を掠めるのは、冷徹な碧眼(へきがん)

 彼が、装飾で覆い隠したこの角を眺め、完璧な美貌に空虚な微笑を浮かべて放った言葉。


『君は美しいよ、ベルローズ。……その異形さえ、僕の手で正しく隠されていればね』


 彼にとって、彼女は自分好みに調整された『高価な動力源』でしかなかった。

 あの瞳は、どこまでも澄み渡りながら、決してこちらを映さない偽りの青空だった。


 それに対し、今、扉を隔てたすぐ向こう側に感じる、重く静かな気配。

 彼の瞳は、どんなに深く昏くとも、真実を宿した夜空のようだ。

 けれどそれゆえに、この醜い姿、無様な熱に浮かされる姿を見せるわけにはいかない。


 角の熱は、支配されていた日々の窒息感を呼び覚ます。

 この熱を逃がす(すべ)など、彼女は知らない。

 ただ独り、この不快な拍動が収まるまで、唇を噛んで耐え忍ぶこと。

 それが彼女がこれまでの人生で身につけた、唯一の防衛術だった。


 ベルローズは鏡に背を向け、暗がりの寝台に身を沈める。

 熱に浮かされる意識の端で。

 誰かの温もりを求めることなど、今の彼女にはまだ許されない背徳のように思えていた。


 扉の向こう側から聞こえる、立ち去ることのない静かな呼吸の音。

 その重なりだけが、彼女の孤独な夜に唯一の境界線を引いていた。


 ルシアンは、静かに目を閉じる。

 扉越しに聞こえる、ベルローズの微かな、震えるような吐息。

 彼の獣としての鋭敏な感覚が、今は彼女の苦しみを共に分かち合うための唯一の(くさび)となっている。


 角の熱が引くまで、あるいは彼女が再び自分を呼ぶまで。

 ルシアンは、静かな呼吸音を扉に刻み続け、闇の先を睨みつけていた。


 静寂の向こう側で、森の波濤(はとう)がまたひとつ、城の壁を打つ音がする。

 城内を満たす静寂はもはや安らぎではなく、来るべき嵐を予感させる、熱を持った緊張へと変貌していた。

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