第29話:胞子の庭
ドラクロワ城の東側に位置する温室は、城内で最も生と死の境界が曖昧な場所だ。
天井を覆う古びたガラス板から、陽光が差し込んでいる。
絶えず空間を舞い踊る目に見えない胞子がキラキラと反射し、熱帯の雨上がりのような、重く湿った空気を生み出す。
そこには常に、濡れた土の芳香と、発酵していく生命の匂いが、濃密な膜となって立ち込める。
その光の渦の中心で、少女の形をした精霊、アマンダは、しゃがみ込んで黒い土を弄んでいる。
淡いベージュの髪を微かに揺らし、琥珀色の瞳を凝らして、朽ちていく切り株の裂け目から芽吹く小さな命をじっと見守っている。
彼女の周囲だけは、時間が堆肥のようにゆっくりと積み重なっているかのようだった。
彼女が細い指先を土の奥深く、ひんやりとした暗闇へと沈めた瞬間。
アマンダの意識は、神経のように張り巡らされた菌糸を伝わり、城の庭園全体、そして地中深くへと静かに沈み込んでいった。
(……ああ、あそこの古い樫の木。寂しがっている。根っこに少しだけ、菌たちの栄養を分けてあげましょうね。死ななくていい、ゆっくりと土に還りながら、次の緑の寝床になればいいんです)
◆
わたし――アマンダは、地中の脈動を肌で感じながら、心地よい微睡みの中でそっと目を閉じた。
わたしにとって、このお城の庭は一つの大きな生命体。
そして、そこに集う人たちは、同じ根っこから養分を吸い上げる双葉のようなもの。
わたしがこの世界に形を得たのは、石の身体を持つピピよりも少し後のことでした。
王都から傷ついた心を引きずって帰還したベルローズ様が、この荒れ果てた城の片隅で、誰にも見られぬようにうつむいていたとき。
深い悲しみと、それでもこの森と城を慈しみたいという、消え入りそうな願い。
その純粋な魔力が、土の奥に眠っていた古い森の記憶と混ざり合い、わたしの形を造り上げた。
そうして生まれたわたしに、ベルローズ様は『アマンダ』という名前をくれました。
わたしには、意味はわからなかったけれど……。
物知りなピピいわく、傷ついたベルローズ様の「それでも誰かを愛したい」気持ちが、形になった名前に思えるって。
とっても嬉しくて、大好きな名前です。
わたしは力持ちでもないし、お城のなかで一番背丈が低い。
大きなルシアンさんがやってきてからは、より自分の非力さを感じることもあります。
けれど、地中に伸ばしたわたしの根っこは、お城の庭全体を覆い、禁忌の森にまで手を伸ばしている。
森のざわめき一つ、風が運ぶ一粒の毒すら、わたしは見逃したくない。
それなのに最近は、ピピの防衛魔法や、わたしの監視網にもかからないような、不自然な魔物が現れるようになってしまった。
あれは、土から生まれたものではない、歪な魂の継ぎ接ぎ。
でも、そんな魔物の匂いを、野性の直感で正確に嗅ぎ取るルシアンさんのおかげで、今日もベルローズ様の平穏は保たれている。
ピピは石の継ぎ目の汚れや直線を気にし、ルシアンさんは獲物を追いかけることに全神経を尖らせている。
けれど、わたしはもっと深い場所にあるつながりを見ています。
この世界には、無駄なものなんて一つもない。
枯れ葉が腐り、土に還り、それをわたしたち菌類が食べて、また新しい緑が芽吹く。
その、残酷なまでに美しい終わりのない円環。
それこそが、わたしの愛する世界の姿です。
「ベルローズ様の魔力は、深い森の底にある冷たい泉みたい。透き通っていて、とっても静かで……でも、ほんの少しだけ、震えているんです」
わたしは独り言をこぼしながら、自分の胸元をそっと押さえた。
石の精霊であるピピとは違い、わたしの身体はやわらかい。
ベルローズ様がくれた清らかな樹液と、多幸感を孕んだ甘い胞子のしずくが、血管の代わりに絶え間なく巡っている。
だからわたしの体温は、いつも雨上がりの地表のように生暖かい。
ピピとは、ベルローズ様に仕える精霊同士だけれど……、よく叱られます。
お城の廊下が乾燥して、石たちが痛そうに軋んでいたから。
湿り気を与えるために光るキノコを少し増やしただけなのに。
あの子は秩序という形の決まったものが大好きだから、わたしがもたらす、境界を融かすような無秩序な成長が、少し怖いみたい。
でも、いいんです。
どんなに美しく整えられた石造りの城だって、いつかは朽ちて土に還る。
死んで動かなくなったものも、カビやキノコになって、また新しい何かに変わっていく。
それが自然の、そしてわたしの愛し方だから。
「……ふふ。ベルローズ様の匂い」
ふいに湿った空気の中に、落ち着いた、冬に咲く花のような凛とした香りが混ざり込み、わたしは顔を上げた。
温室の入り口に、陽光を寄せ付けないような漆黒のドレスを纏った、ベルローズ様が立っている。
ベルローズ様は、自分のことを冷酷な支配者だと思い込もうとしています。
けれど、わたしにはすべて視えてしまう。
彼女の魂の周りには、誰にも見せない微かな渇きがあること。
そして、彼女が庭で鍛錬するルシアンさんを瞳の端に捉えるときに。
その渇きがほんの一瞬だけ、夕立の後のような潤いを見せることを。
「ベルローズ様。……疲れてるんですね。わたしの傘の下に入れば、少しだけ心が楽になりますよ。多幸感の胞子を、少しだけ強めに振りまいてあげましょうか?」
わたしが歩くたび、足元からは小さな光るキノコたちが、主人に踏まれるのを喜ぶように次々と顔を出し、わたしの歩みを光で縁取っていく。
「……いいわ。それより、廊下に苔を広げるのはやめなさい。ピピの小言が温室まで響いてくるのは御免よ」
ベルローズ様は、いつもの温度の低い声で言う。
けれどわたしは知っている。
ベルローズ様が、わたしの髪についた白い胞子を、そっと長い指先で払ってくれるとき。
その手つきが、言葉とは裏腹に、とても温かく、壊れ物を扱うように優しいことを。
彼女が時折、温室の奥で誰にも見せず、ルシアンさんから贈られたあの漆黒の栞を、愛おしそうに指先でなぞっていることも。
(お城のみんな、不器用で、愛おしい……)
今日は心が落ち着くお茶のために、とっておきの薬草を摘んでおきましょう。
ベルローズ様が夜、王都の恐ろしい夢を見なくて済むように。
多幸感の胞子を枕元の花に混ぜて、残酷な現実を優しくぼかしてあげるのが、わたしの役割。
「ベルローズ様、見てください。このキノコ、ルシアンさんの尻尾と同じ色に育ったんですよ。とっても可愛らしいでしょう?」
「……アマンダ、あなたはもう少し、美意識というものを学びなさい」
呆れたような彼女の声さえ、わたしにとっては森を揺らす心地よい風の音と変わらない。
ドラクロワの庭は、今日も静かに、けれど力強く、わたしたちを包み込んで成長し続けている。
そしていつか、すべてが土に還るその時まで。
わたしはこの、家族という名の菌糸を大切に、大切に広げて、みんなを一つに繋いでいくのだ。




