第28話:真夜中の秘密の共犯者
ドラクロワ城の夜。
石壁に埋め込まれた魔導灯は淡く伏せられ、青白い微光が、長い回廊に引き伸ばされた影を落としていた。
廊下には沈黙が積み重なり、時折古びた梁が軋み、城の溜息のような微かな鳴き声を上げるだけ。
まるで、世界から音が消え去ったかのようだ。
自室の天蓋付き寝台で、ベルローズは静かに瞳を開いた。
漆黒の髪が絹の枕に乱れ広がり、深紅の瞳が天井の闇に潜む複雑な意匠を見つめる。
悪夢を見たわけではない。
けれど最近の夜は、不意に訪れる静寂の重みが、鋭利な刃物のように魂を削り取っていくのを感じる。
結界の端々に触れる不快な雑音が、彼女の神経を逆撫でしていた。
(……冷えるわね。それとも、今の私は感覚が尖りすぎている……?)
独り言が、吐息と共に白い熱を持って冷たい空気に溶けていく。
ベルローズが寝衣の上に、夜の闇を裁断したような黒いガウンを羽織ろうとした、その時だった。
水滴が静かな水面に落ちるような、軽やかでいて、どこか弾むような音が扉を叩いた。
ベルローズが扉を開けると、そこには琥珀色の瞳を異様に輝かせたアマンダが立っていた。
彼女は、大事そうに背中に何かを隠している。
その体からは、雨上がりの森を凝縮したような、湿った土と緑の匂いが強く漂ってきた。
「ベルローズ様。……起きていましたね。わたしの菌糸たちが、お部屋の空気が少しだけ『寂しい色』に震えているって教えてくれました」
「アマンダ、こんな時間にどうしたの? ……ピピに見つかったら、また説教の嵐よ」
「森が、とても甘い匂いをさせていたんです。あの子たちが、『今が一番美味しいよ、今夜を逃したら土に還ってしまうよ』って。……ねぇ、二人だけの秘密にしませんか?」
アマンダの唇から漏れた、秘密という言葉。
それは、合理的で冷徹な魔女の論理を、あざ笑うかのように融かしていく。
ベルローズはわずかに迷ったが、アマンダの差し出した小さな手に、指先を重ねた。
◆
二人は忍び足で、城の温室へと向かった。
アマンダが育てている鮮やかな色彩のキノコや、夜の魔力に満ちた花々が、月光を受けて淡く光っている。
アマンダが取り出したのは、蔓で編まれた小さな籠。
その中には、深い紫色の果実が、夜露に濡れて黒い宝石のように並んでいた。
「森の奥、霧が一番濃く溜まる場所にだけ実る『星降りの実』です。ピピには、まだ青いから食べちゃ駄目、お腹を壊すよって言われていたんですけれど。……でも、今夜の月光を吸って、ようやく最高に甘くなったんですよ」
アマンダが指先で実を割ると、中から濃密な花の香りと、蜜のような甘い匂いがふわりと立ち上り、温室の空気を一変させた。
ベルローズは、アマンダの期待に満ちた視線に促されるまま、その果実を一口、口に含んだ。
(……甘い。けれど、それだけじゃない。これは『生きた記憶』だわ)
舌の上で弾ける、鮮烈で濃厚な果汁。
それは冷たい夜露のようでいて、喉を通り過ぎる瞬間にはじわりと温かな、心臓を直接撫でられるような魔力が広がる、不思議な感覚だった。
王都で供された、精巧に糖分を計算され尽くした、死んだ菓子とは違う。
野性味に溢れ、剥き出しの土の温もりを内包した、生のままの暴力的な喜び。
「どうですか? ベルローズ様。少しだけ、身体が軽くなりませんか?」
「……そうね。悪くないわ。少し、舌の先が痺れて、思考の端が甘く溶けていくような感覚があるけれど」
「それは、この実がお城の魔力を吸って育ったからです。ベルローズ様がこの土地に流した魔力を、この子たちが濾過して、甘くしたんですよ。つまり、これはベルローズ様の優しさの味なんです」
アマンダは嬉しそうに目を細め、自分も実を頬張った。
二人は暗闇の中で、交互に籠から実を摘む。
凛とした主としての仮面を少しだけ脇に置き、ベルローズは無言のまま、アマンダとの間に流れる、非合理で無意味な時間を許容していた。
管理も、義務も、王都の執拗な追跡もない。
ただ、口の中に広がる痺れるような甘みと、隣にいる精霊の温かい気配。
その穏やかな密会を、回廊の陰から見守る視線があった。
温室へと続く曲がり角。
ルシアンは闇に完全に同化し、気配を殺して身体を屈めている。
その鋭敏な嗅覚は、実が放つ魅了に近い甘い香りを、危険信号として捉えていた。
「……おい。あいつ、変なもん食わされてんじゃねぇだろうな」
ルシアンが地を這うような小声で唸り、爪に力を込めた。
その隣で背筋を伸ばして立っていたピピが、深いため息をつく。
ピピの手には、いざという時のための、解毒成分を配合した白湯が入った水差しが、戦闘準備のように握られている。
「しっ、声が大きいよ。……あれは『星降りの実』だね。毒性はないけどさ……、ちょっと魔力的な多幸感が強すぎる。明日のベルローズ様の朝食は、魔力循環を整えるために、少し軽めに調整しなきゃ」
ピピは水差しの持ち手を指先で弄びながら、管理者として不満げに眉を寄せた。
けれど、その灰色の瞳は、闇の中でわずかに唇を綻ばせたベルローズを見て、どこか安堵したように細められている。
ピピの様子を見たルシアンは、改めて鼻をひくつかせた。
アマンダの振りまく胞子の甘さは、本来彼が最も警戒すべき毒だ。
けれど、その毒を嬉しそうに受け入れている主の横顔を見た時、彼の牙は自然と収まり、喉の奥から小さな、安堵の唸りが漏れた。
「……まったく、僕がしっかり管理してるつもりなのにさ。ベルローズ様も、隠れて楽しそうにしちゃって。明日、アマンダには庭の雑草取りを山ほど言いつけてやる。……さ、行くよルシアン。早寝早起き!」
「はいはい……」
ルシアンは、ベルローズが小さな実を口に運び、安らいだように睫毛を伏せる様子をじっと見つめ、それから満足げに濃藍色の尾を一振りした。
自分の守るべき主が、今この瞬間、王都の呪縛から解き放たれている。
その事実だけで、彼の胸の奥にある野性は満たされていた。
ピピとルシアンは、二人の静かな時間を邪魔せぬよう、闇夜に溶けるように去っていった。
暗闇の中の共犯者たち。
それをさらに見守る、過保護すぎるほどに献身的な守護者たち。
ドラクロワ城の夜は、依然として冷たい。
けれど、この秘密の甘さを分け合える者がいる限り、この場所はまだ、彼女たちの安息の地でいられるはずだった。
――だが。
わずかに微笑むベルローズの額の傍ら、漆黒の角が、不意に針で刺されたような鋭い痛みを発した。
「……っ」
一瞬、彼女の視界が不吉な赤に染まる。
城の外、漆黒の森の奥底から、どろりとした不浄な何かが這い寄ってくる感覚。
日に日にその数を増す王都の残骸たちが、城の広大な結界を維持している彼女の角に、静かに、けれど確実に、逃げ場のない過負荷を与え始めていた。
「……ベルローズ様? 痛いところがありますか? ……体の中の魔力が、焦げ付いている匂いがします」
アマンダが異変を察し、その琥珀色の瞳を不安げに揺らす。
ベルローズは角の疼きを飲み込み、震える指先で椅子を掴んだ。
「……いいえ。……私は大丈夫よ、アマンダ。少し、夜風が冷たすぎただけ」
甘い果実の後味が、不意に鉄のような、錆びた味に変わった気がした。
凪いでいた夜の静寂の裏側で、巨大な嵐の胎動が、すぐそこまで迫っている。




