第28話:厨房の守護者
深い夜が明け、城の重厚な石壁を、夜露を含んだ薄桃色の陽光が照らし始めた頃。
ドラクロワ城の心臓部の一つである厨房では、かつてないほど繊細かつ、深刻な戦いが繰り広げられていた。
朝の哨戒を終え、森の湿った土と針葉樹の匂いを纏ったルシアンが、ふらりと厨房を覗いたのが運の尽きだった。
「あ、いいところに!ルシアン、ちょっと手伝ってよ。今朝はベルローズ様に、王都の最高級品よりふかふかなパンを差し上げたいんだから。この僕が火加減を見るんだよ、絶対美味しく焼けるに決まってる。ほら、早く手を洗って!」
「……は?」
「早く早く、温かいスープも作らなきゃいけないんだから!いいからこっち来て!」
ピピの鋭い呼び出しを無視できず、ルシアンは今、その強靭な身体を窮屈そうに屈めて、木製のまな板の上に鎮座する一本の人参と対峙している。
ルシアンは調理台の高さに合わせるように、ぐっと背を丸めた。
本来なら直立しているだけで威圧感を放つその体躯が、今は不格好に縮こまっている。
獲物の喉笛を裂くのは容易いのに、この鮮やかな橙色の硬い根菜の皮を剥くだけのことが、これほどまでに困難だとは。
ルシアンの額に、うっすらと脂汗がにじむ。
力を込めればまな板を両断してしまいそうだ。
自分の指先が、どうしようもなく不器用な代物に思えて苛立ちを隠せない。
「……っ」
サファイアブルーの瞳が、獲物を狙う猛獣のように鋭く細められた。
ルシアンの大きな、けれど節の整った強靭な指先が、小ぶりな果物ナイフを、まるで爆発寸前の魔導具でも扱うかのように慎重に握り込んでいる。
ピピとの戦闘訓練中にも、不浄な魔物と対峙したときですら見せないような、異様なまでの集中力が、その広い背中に滲んでいた。
「ちょっと、ルシアン!さっきから言ってるだろ、力みすぎなんだよ。もっと力を抜いて、刃を滑らせるように!……っていうか君、ナイフの持ち方がまるで武器を持ってるみたいだよ。怖いんだってば」
ピピが腰に手を当てて、呆れ声を上げた。
銀髪を揺らし、灰色の瞳を細めると、ルシアンのあまりに不器用な手元を覗き込む。
「分かっちゃいるが……。道具が軽すぎて落ち着かねぇ。重さがないと、どこまで刃が入ってるのか手応えがねぇんだよ」
「当たり前だろ!剣と同じ重さだったら、まな板ごと粉々になっちゃうよ。……あぁもう、そんなに厚く剥いたら、芯しか残らないじゃないか。全く、君は僕がいないと、まともに食事の支度もできないのかい?」
ピピはふんと鼻を鳴らし、奪い取るようにルシアンの手から野菜を回収した。
彼は城の管理者として、膨大な調理の知識をアーカイブとして持っている。
とはいえ、実際に食材の冷たさや土の感触を味わうのは、ピピにとっても比較的新しい体験だ。
それでも、主に仕える城の主柱としての矜持が、彼を完璧な指導者として振る舞わせている。
厨房には、煮え立つスープの温かな蒸気が白く立ち込め、朝の冷気を濃厚な幸福感で塗り替えていく。
ルシアンは、自分より遥かに小さなピピに口うるさく言われながらも、不思議と苛立ちは感じていなかった。
いつもなら聞き流すか、鼻を鳴らすところだ。
それでも、視線の先では、自分より小さなピピがベルローズのために、湯気の向こうで必死に火加減を調整している。
その小さな背中から漂うのは、執着に近い誠実さだ。
それを認めざるを得ない自分に、ルシアンは内心で苦笑した。
(……まぁ、こいつはこいつで、必死なんだろ。俺が外壁なら、こいつは内装、いや……、城の心臓そのものだ)
ルシアンは、ピピの小さな背中に視線を向け、再び慣れない手つきで小麦粉の入ったボウルを引き寄せた。
白い粉末が指先にまとわりつき、水を加えると粘土のような独特の弾力が生まれる。
粉がだんだんとまとまっていくにつれ、掌の下で、小麦粉の塊が生き物のように押し返してくる。
ルシアンは無意識に爪を引っ込め、大きな掌で生地を優しく、力強く押し込んだ。
(……あいつの口に入るもんだ、雑に作るわけにはいかねぇ)
生地を捏ねるたびに、甘く香ばしい粉の匂いが鼻腔をくすぐり、彼の荒ぶる本能が不思議と凪いでいく。
慎重に力を加えながら、ルシアンはふと思い出したように、ピピに向けて呟きをこぼした。
「……そういえば、ピピ。今日のスープ、いつもより少しだけ、甘くしてやってくれねぇか」
「え?ベルローズ様は、甘ったるいのは嫌いだって言っただろ。魔力の循環が緩くなるからって、いつもはっきりした味を好まれるんだ。君、味覚まで鈍ったのかい?」
ピピが不思議そうに首を傾げ、ルシアンをじろりと見上げた。
「いや。……あいつ、昨晩あんまり、よく眠れてなかったみたいだからな。魔力の波が……、夜通し尖ってた」
ルシアンが、言葉を濁すように言った。
その声に威圧感はないが、隠しきれない独占欲と、慈しむような熱が滲んでいた。
首元の薔薇のチョーカーを通じて、微かな震えと共に伝わってきた、彼女の寝苦しそうな吐息。
それを知っているのは、城の中で、文字通り彼女と繋がっている自分だけだという自負が、生地を捏ねる指先にこもる力を少しだけ柔らかくさせた。
ピピは目を丸くし、一瞬ルシアンを凝視する。
それから何かを深く察したように、大きなため息をついた。
「……君は本当に、ベルローズ様のことになると。……いいよ、わかった。特別に蜂蜜を数滴、多めに入れてあげる。隠し味程度にね」
「ああ、頼む」
ルシアンは安堵したように息を吐くと、口元を緩めた。
彼の耳が、喜びを隠せずにぺたりと伏せられる。
「その代わり、君はちゃんとその生地を練るんだよ。しっぽの毛が入らないように、気をつけてよね!」
「……入らねぇよ。……分かってる」
ルシアンの濃藍色の尾が、わずかに照れを含みながら、心地よげに、ゆったりと揺れる。
かつて、苛立ちの対象でしかなかったこの人間の身体。
けれど今、この不器用な指先は、誰かを傷つけるためではなく、大切な主の空腹を癒やすための、柔らかな生地を練り上げている。
指先から伝わる生地の弾力は、優しく、生命の温度を宿しているように温かかった。
「……ピピ。お前、鼻の頭に粉ついてんぞ」
「わっ、ちょっと!汚れた手で触らないでよ!僕は石の精霊なんだから、清潔第一だって言ってるだろ!?ああもう、せっかく綺麗に整えたシャツが台無しだ!」
「ふん、うるせぇんだよ。……ほら、次はオーブンの火を熾せばいいんだな?火加減なら任せろ」
賑やかな厨房の音。
ピピの怒鳴り声と、ルシアンの喉を鳴らすような抑えた笑い声が、朝の静寂をゆっくりと溶かしていく。
自分たちに居場所を与えてくれた、たった一人の女主人のために。
かつては檻に囚われていた騎士と、主を待ち続けた精霊。
二人の守護者たちの戦いが、今日も始まろうとしている。
その頃、主の寝室では、ベルローズが壁越しに伝わる微かな喧騒を耳にして、ゆっくりと重い瞼を開けていた。
(……今朝はずいぶんと、騒々しい匂いがするのね)
チョーカーを通じて流れ込んでくる、ルシアンの穏やかで誇らしげな拍動。
そして、鼻腔をくすぐる、隠し味の蜂蜜の柔らかな残り香。
彼女は、不器用な騎士と口うるさい精霊を思い、ふっと、誰にも見せない慈愛の笑みを唇に浮かべた。
そして、昨夜の疲れが、その魔力の波に心地よく溶けていくのを感じながら、窓から差し込む光を、白磁のような指先でそっと受け止めた。




