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氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第3章:静寂と熱の境界

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第27話:石の記憶

ドラクロワ城の夜明けは、常に厳格な、等しい順序で訪れる。

北の山脈から湿り気を帯びた冷たい風が吹き下ろし、城壁の蔦が微かに震える頃。

静寂に満ちた大広間に、規則正しい、硬質な靴音が響き始めた。


銀色の髪を輝かせ、灰色の瞳に理知的な光を湛えたピピは、誰に命じられるまでもなく、今日という一日を起動させる。

彼は歩きながら、白い手袋をはめた指先を石壁にそっと滑らせた。


その瞬間、城の隅々まで張り巡らされた魔力の脈動、人間で言うところの神経系が、石の記憶を伴って彼の意識へと直接流れ込んでくる。


(……ああ、やっぱり。西塔の三階、また少し湿気が溜まってる。あそこの石材は吸湿性が高いから、放っておくとカビの予備軍が芽を出すんだよね)



僕――ピピの眉根が、不機嫌そうに寄る。

この城の地下深く、眠っていた鉱脈から生まれた僕にとって、壁のひび割れは僕自身の切り傷と同じこと。

床がちょっと汚れてるのだって、顔にべたべた泥を塗られるようなもんだ。


「おはよう。今日も機嫌が悪そうだね。あちこちが軋んでる」


独り言をこぼしながら、僕は広間の大時計をチェックする。

一秒の狂いもない。

食器を磨き上げるこの手つきだって、実は最近覚えたばかり。

僕がこの世界に『ピピ』として生まれたのって、そう遠い昔の話じゃないんだよね。


人間が行くっていう学校なんかには通ったことはないけどさ。

城全部の壁が、床が、天井が、僕にとっての教科書だった。


城の記憶回路には、かつての『ドラクロワの黄金時代』の知識が膨大に、それこそ地層のように積み重なっている。

だけど、それは図書室の奥底で埃を被っている古い本と同じ。

僕という個体が実際見たわけじゃないし、肌で感じたことじゃない。


僕がこの目で見た本物の景色は、王都から心身ともにボロボロになってやってきたベルローズ様が、埃まみれの広間で力なく座り込んでいる姿だった。


絶望に染まった彼女の赤い瞳から、石畳に一滴、魔力が宿った涙がこぼれ落ちた。

その一滴に宿る「誰かにそばにいてほしい」っていう熱が、城の地下にあった眠れる鉱脈を強く叩いて、僕という形を造り上げたんだと思う。

生まれたての僕は、まだ名前も、自分を定義する言葉も持たない、ただの鈍色の塊だった。


「……あなたは、だれ?」


ベルローズ様は、掠れた声で僕に問いかけたっけ。

僕は城の知識から、その場にいちばんふさわしい言葉をそりゃあもう必死に探して、答えた。


「……僕は、この城の管理者です。ベルローズ様、お帰りなさい。まずはその汚れたドレスを脱いでください。不潔なのは、僕が……、この城が許しませんから」


今にも泣きだしそうだった彼女が、一瞬だけ、毒気を抜かれたっていうのかな。

呆然と瞬きをしたのを今でもはっきり覚えてる。

そして彼女は、僕の硬い頬に冷たい指先を当てて、ふっと、呼ぶたびに唇が綻ぶみたいな、弾む響きの名をくれたんだ。


「ピピ……。今日からあなたは、ピピよ」


正直に言えばさ?

城の管理者として生きていくなら、もっと何ていうか……、かっこよくて、仰々しい名前が良かったかもしれない。


だけど、あのときのベルローズ様が抱えていただろう、どうしようもなく寂しい気持ちとか、小さなものへの慈しみとかが混じったその響きを、僕は一瞬で気に入った。

あの時から僕は、彼女に絶望する暇なんて一秒も与えないくらい、忙しなく小言を言い続けるって決めたんだ。


「……よし、一階の銀食器は磨き終えた。次は朝食の準備だ」


僕専用の戸棚を開けると、そこにはルシアンやアマンダみたいなやつらには、到底理解できない宝物が並んでいる。

僕は指先で一粒、クリスタルみたいにエッジの立った角砂糖を摘み上げた。


指先で触ったときの、尖った結晶の感触。

舌に乗せた瞬間に弾ける、まっすぐに伝わってくる甘み。


「ふぅ……。やっぱり砂糖は角張っているに限るね」


石でできてる僕の体内を循環しているのは、血液じゃなくって、魔力が溶け込んだ鉱物油みたいな液体だ。

それが熱を持つと、中身がぎゅっと詰まった結晶体の隅々まで、甘みがじわじわって染み渡っていく。

僕の味覚は甘いとか、辛いとかっていうより、純度が高いか、低いかで構成されてるらしい。


ついでに、お気に入りの銀磨き粉の瓶を少しだけ開けちゃおう。

このツンとした清潔な、鼻の奥をつつかれるみたいな香りを吸い込む。

これが僕にとって、どんな魔法薬よりも効く最高の気付け薬だ。


仕上げに、お盆に一杯の、熱い白湯を用意する。

何も混じっていない、透明な熱。


これを飲み干すとね、僕の体の中を純粋な熱が循環して、不純物を消してくれる感じがして。

最高に気分が良くなるんだ。

人間が言うところの「健康になった」って感じかな?


執事のように完璧に、優雅に振る舞いたいけれど、現実はいつもドタバタだ。

ルシアンが廊下に泥の付いた足跡を残せば、僕は箒を構えて追いかけ回さなきゃいけないし。

アマンダが勝手に温室の外に湿った苔を生やせば、石の呼吸を止めるなって怒鳴りながら、剥がすのに半日かかるし。


「……あぁもう、想像しただけで頭が痛くなってきたよ。どうしてあいつらは、あんなに無秩序なんだろ」


僕はルシアンのような戦うための幻獣でも、アマンダのような不思議なキノコでもない。

ただの、城の一部。

城壁の外では満足に力も振るえない、ちっぽけな石の精霊でしかないけれど。


「……僕がいなかったら、この城は一日でゴミ溜めになっちゃうんだからね。……しっかりしなきゃ」


背中にある結晶の羽をパタパタと羽ばたかせ、高い窓の埃をチェックする。

僕はふと、自身の腕を見つめた。


……本当は、僕だってまだ怖いんだ。

あのキメラとの戦いを思い出すと、胸の奥がヒリヒリと痛む。


僕は城の一部だ。

城の敷地内なら、思い切り防衛魔法を使えるし、たいていの敵なら石の檻に閉じ込めて粉砕できる。

でも、城門を一歩でも出れば、僕の力はただの、重い石に成り下がってしまう。


――あの時、森の中でルシアンを援護しようとしたのに、僕の魔力は散り散りになって、結局ルシアンの頬を裂かせてしまった。

城の管理者だとか、偉そうなことを言っておきながら、外の世界じゃあいつの盾にすらなれなかったんだ。


ルシアンは「掃除だ」なんてぶっきらぼうに言ってたけど。

それでもあいつの負った傷は、僕の無力さの象徴みたいで……今だってすごく、悔しい。


「……だから、せめて城の中にいる間くらいは、あいつが羽を伸ばせるようにしなきゃいけないんだ」


僕は自分に言い聞かせるように、頬を叩いてキリッと表情を引き締めた。

城の、ベルローズ様の記憶の底に、淀んで沈んでいる王都の影。

そいつらが、いつかまたこの静かな生活を壊しに来るんじゃないかって、静かな夜にはふと考えちゃうこともあるよ。


でも、ベルローズ様が僕に名をくれたあの日から、この場所はただの石の塊じゃなくて、僕たちの家になったんだ。

ここだけは、僕が命に替えても磨き上げて、守り抜かなきゃいけない。


さあ、そろそろベルローズ様に朝食を用意しなくちゃ。

まずは、あのしっぽを振り回して埃を撒き散らす大きな犬――。

ルシアンを叩き起こして、厨房の手伝いをさせるところから始めよう。


あいつ、ベルローズ様の前じゃなんだか張り切っちゃってるけどさ、僕の前じゃすぐ怠けるからね。

今日は絶対に、あの汚れた上着を洗濯桶に放り込んでやるんだから!

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