第27話:石の記憶
ドラクロワ城の夜明けは、常に厳格な、等しい順序で訪れる。
北の山脈から湿り気を帯びた冷たい風が吹き下ろし、城壁の蔦が微かに震える頃。
静寂に満ちた大広間に、規則正しい、硬質な靴音が響き始めた。
銀色の髪を輝かせ、灰色の瞳に理知的な光を湛えたピピは、誰に命じられるまでもなく、今日という一日を起動させる。
彼は歩きながら、白い手袋をはめた指先を石壁にそっと滑らせた。
その瞬間、城の隅々まで張り巡らされた魔力の脈動、人間で言うところの神経系が、石の記憶を伴って彼の意識へと直接流れ込んでくる。
(……ああ、やっぱり。西塔の三階、また少し湿気が溜まってる。あそこの石材は吸湿性が高いから、放っておくとカビの予備軍が芽を出すんだよね)
◆
僕――ピピの眉根が、不機嫌そうに寄る。
この城の地下深く、眠っていた鉱脈から生まれた僕にとって、壁のひび割れは僕自身の切り傷と同じこと。
床がちょっと汚れてるのだって、顔にべたべた泥を塗られるようなもんだ。
「おはよう。今日も機嫌が悪そうだね。あちこちが軋んでる」
独り言をこぼしながら、僕は広間の大時計をチェックする。
一秒の狂いもない。
食器を磨き上げるこの手つきだって、実は最近覚えたばかり。
僕がこの世界に『ピピ』として生まれたのって、そう遠い昔の話じゃないんだよね。
人間が行くっていう学校なんかには通ったことはないけどさ。
城全部の壁が、床が、天井が、僕にとっての教科書だった。
城の記憶回路には、かつての『ドラクロワの黄金時代』の知識が膨大に、それこそ地層のように積み重なっている。
だけど、それは図書室の奥底で埃を被っている古い本と同じ。
僕という個体が実際見たわけじゃないし、肌で感じたことじゃない。
僕がこの目で見た本物の景色は、王都から心身ともにボロボロになってやってきたベルローズ様が、埃まみれの広間で力なく座り込んでいる姿だった。
絶望に染まった彼女の赤い瞳から、石畳に一滴、魔力が宿った涙がこぼれ落ちた。
その一滴に宿る「誰かにそばにいてほしい」っていう熱が、城の地下にあった眠れる鉱脈を強く叩いて、僕という形を造り上げたんだと思う。
生まれたての僕は、まだ名前も、自分を定義する言葉も持たない、ただの鈍色の塊だった。
「……あなたは、だれ?」
ベルローズ様は、掠れた声で僕に問いかけたっけ。
僕は城の知識から、その場にいちばんふさわしい言葉をそりゃあもう必死に探して、答えた。
「……僕は、この城の管理者です。ベルローズ様、お帰りなさい。まずはその汚れたドレスを脱いでください。不潔なのは、僕が……、この城が許しませんから」
今にも泣きだしそうだった彼女が、一瞬だけ、毒気を抜かれたっていうのかな。
呆然と瞬きをしたのを今でもはっきり覚えてる。
そして彼女は、僕の硬い頬に冷たい指先を当てて、ふっと、呼ぶたびに唇が綻ぶみたいな、弾む響きの名をくれたんだ。
「ピピ……。今日からあなたは、ピピよ」
正直に言えばさ?
城の管理者として生きていくなら、もっと何ていうか……、かっこよくて、仰々しい名前が良かったかもしれない。
だけど、あのときのベルローズ様が抱えていただろう、どうしようもなく寂しい気持ちとか、小さなものへの慈しみとかが混じったその響きを、僕は一瞬で気に入った。
あの時から僕は、彼女に絶望する暇なんて一秒も与えないくらい、忙しなく小言を言い続けるって決めたんだ。
「……よし、一階の銀食器は磨き終えた。次は朝食の準備だ」
僕専用の戸棚を開けると、そこにはルシアンやアマンダみたいなやつらには、到底理解できない宝物が並んでいる。
僕は指先で一粒、クリスタルみたいにエッジの立った角砂糖を摘み上げた。
指先で触ったときの、尖った結晶の感触。
舌に乗せた瞬間に弾ける、まっすぐに伝わってくる甘み。
「ふぅ……。やっぱり砂糖は角張っているに限るね」
石でできてる僕の体内を循環しているのは、血液じゃなくって、魔力が溶け込んだ鉱物油みたいな液体だ。
それが熱を持つと、中身がぎゅっと詰まった結晶体の隅々まで、甘みがじわじわって染み渡っていく。
僕の味覚は甘いとか、辛いとかっていうより、純度が高いか、低いかで構成されてるらしい。
ついでに、お気に入りの銀磨き粉の瓶を少しだけ開けちゃおう。
このツンとした清潔な、鼻の奥をつつかれるみたいな香りを吸い込む。
これが僕にとって、どんな魔法薬よりも効く最高の気付け薬だ。
仕上げに、お盆に一杯の、熱い白湯を用意する。
何も混じっていない、透明な熱。
これを飲み干すとね、僕の体の中を純粋な熱が循環して、不純物を消してくれる感じがして。
最高に気分が良くなるんだ。
人間が言うところの「健康になった」って感じかな?
執事のように完璧に、優雅に振る舞いたいけれど、現実はいつもドタバタだ。
ルシアンが廊下に泥の付いた足跡を残せば、僕は箒を構えて追いかけ回さなきゃいけないし。
アマンダが勝手に温室の外に湿った苔を生やせば、石の呼吸を止めるなって怒鳴りながら、剥がすのに半日かかるし。
「……あぁもう、想像しただけで頭が痛くなってきたよ。どうしてあいつらは、あんなに無秩序なんだろ」
僕はルシアンのような戦うための幻獣でも、アマンダのような不思議なキノコでもない。
ただの、城の一部。
城壁の外では満足に力も振るえない、ちっぽけな石の精霊でしかないけれど。
「……僕がいなかったら、この城は一日でゴミ溜めになっちゃうんだからね。……しっかりしなきゃ」
背中にある結晶の羽をパタパタと羽ばたかせ、高い窓の埃をチェックする。
僕はふと、自身の腕を見つめた。
……本当は、僕だってまだ怖いんだ。
あのキメラとの戦いを思い出すと、胸の奥がヒリヒリと痛む。
僕は城の一部だ。
城の敷地内なら、思い切り防衛魔法を使えるし、たいていの敵なら石の檻に閉じ込めて粉砕できる。
でも、城門を一歩でも出れば、僕の力はただの、重い石に成り下がってしまう。
――あの時、森の中でルシアンを援護しようとしたのに、僕の魔力は散り散りになって、結局ルシアンの頬を裂かせてしまった。
城の管理者だとか、偉そうなことを言っておきながら、外の世界じゃあいつの盾にすらなれなかったんだ。
ルシアンは「掃除だ」なんてぶっきらぼうに言ってたけど。
それでもあいつの負った傷は、僕の無力さの象徴みたいで……今だってすごく、悔しい。
「……だから、せめて城の中にいる間くらいは、あいつが羽を伸ばせるようにしなきゃいけないんだ」
僕は自分に言い聞かせるように、頬を叩いてキリッと表情を引き締めた。
城の、ベルローズ様の記憶の底に、淀んで沈んでいる王都の影。
そいつらが、いつかまたこの静かな生活を壊しに来るんじゃないかって、静かな夜にはふと考えちゃうこともあるよ。
でも、ベルローズ様が僕に名をくれたあの日から、この場所はただの石の塊じゃなくて、僕たちの家になったんだ。
ここだけは、僕が命に替えても磨き上げて、守り抜かなきゃいけない。
さあ、そろそろベルローズ様に朝食を用意しなくちゃ。
まずは、あのしっぽを振り回して埃を撒き散らす大きな犬――。
ルシアンを叩き起こして、厨房の手伝いをさせるところから始めよう。
あいつ、ベルローズ様の前じゃなんだか張り切っちゃってるけどさ、僕の前じゃすぐ怠けるからね。
今日は絶対に、あの汚れた上着を洗濯桶に放り込んでやるんだから!




