第26話:小さな彩り
不器用に差し出したあの栞が、彼女の愛読書の頁にその居場所を許された瞬間から。
ルシアンには、言葉にできない奇妙な変化が芽生えていた。
元々、森の哨戒や見回りは、このドラクロワ城を自らの新たな縄張りだと定めた彼が、半ば意地になって始めたことだ。
不自由な銀の檻とは違う、自らの強靭な脚で湿った腐葉土を蹴り、守るべき境界線を確かめる時間。
それは彼にとって、獣としての誇りを取り戻すための神聖な儀式でもあった。
だが今では、その鋭い嗅覚と視線は、侵入者の影を追うだけではなくなっていた。
霧の隙間に、木々のざわめきの中に、彼は無意識に何かを、この城の静寂に相応しい欠片を探し求めている。
「あ、ルシアンさん。聞いてください。あっちの木陰、とっても綺麗な花が咲いているんですよ」
哨戒に向かおうとするルシアンを引き止めたのは、花壇の影から顔を出したアマンダだった。
彼女の琥珀色の瞳は、森の小さな息吹を誰よりも敏感に捉える。
彼女の案内する先、そびえ立つ巨木の根元の暗がりに、霧に濡れて妖しく輝く、可憐な野花が群生し、背筋を伸ばして咲いていた。
それは、ベルローズが好んで纏うドレスの色を想起させる、夜の底のような深い紫だった。
ベルベットのような質感の花弁には、朝露が真珠のように転がっている。
「……花?俺には関係ねぇよ。俺は敵を探しに行くんだ。そんなもんを愛でる暇はねぇよ」
ルシアンは目を丸くして、その花畑をじっと見据えたが、鼻を鳴らし、あえて関心がないふりをして背を向けた。
だが、アマンダは鈴を転がすように笑い、ゆらりと揺れるキノコの傘から、淡い燐光を放つ胞子を振りまいた。
「あら、そうでしょうか。あなたから、なんだかとっても甘くてくすぐったい匂いがしていますけど。……あのお花、ベルローズ様の瞳にきっと似合いますよ。あの方は、影の中で凛と咲くものを愛でるのがお上手ですから」
アマンダの言葉は、まるでルシアンの心の内を優しく撫でるようだった。
ルシアンは「勝手にしろ」と吐き捨て、耳を伏せて足早に歩き出したが、その心臓はわずかに高鳴っていた。
――数時間後。
ルシアンの姿はおよそ、気高い騎士とは程遠いものだった。
藍色の髪や長い尾には、深い藪を強引に潜り抜けた証である枯れ葉や、服を引っ掻く棘のある枝が幾つも無様に絡まっている。
上着の裾には、跳ね返った泥が茶色くこびりついていた。
その右手の掌には、アマンダが教えてくれたあの紫の花の束が、押し潰されないよう大切に、まるで壊れ物を扱うような手つきで握られている。
「ちょっとルシアン!またそんなに頭にゴミをつけて!城の中に森の残骸を持ち込まないでって、何度言えばわかるんだい!」
エントランスの、冷たい石畳の上で待ち構えていたピピが、箒を武器のように構えてルシアンを呼び止める。
ピピの精霊としての潔癖さが、ルシアンの持ち込んだ外の汚れに鋭く反応したのだ。
「うるせぇ、勝手に付いてきやがったんだ」
ルシアンは横を向き、ぶっきらぼうに言い返した。
彼が不機嫌そうに長い尾を大きく振ると、枯葉や小枝がエントランスに舞い散り、ピピは悲鳴を上げる。
「嘘だね!花を折らないように肩を強張らせて、妙に不自然な歩き方をしておいて、何が『勝手に』だ!ほら、じっとしてな。今その汚い枯葉を取ってあげるから!」
ピピは呆れ果てた顔をしながらも、器用に箒を立てかけると、背伸びをしてルシアンの頭に手を伸ばした。
乱暴に枝葉を払い落としながら、ピピはふと、ルシアンの藍色の髪に隠れた耳が、嬉しげに、そして誇らしげに震えているのを見逃さなかった。
その口角が、わずかに緩んでいることも。
「ふん。……ま、その花はベルローズ様の書斎の花瓶に合うだろうね。さっさと置いてきなよ」
ピピのからかうような、けれどどこか温かい言葉を背に、ルシアンは足早にその場を去った。
誰もいない隙を見計らって、彼は主の書斎の片隅にある、黒曜石の花瓶へと向かう。
昨夜までの花が萎れかけているのを見ると、彼は花瓶の中の水量を確かめる。
そして水を継ぎ足すと、わずかに迷ってから、持ってきた紫の花を放り込むようにして挿し替えていく。
無造作な振る舞いを装いながらも、茎の角度を調整するその指先には、確かな熱がこもっていた。
贈り物は、花だけでは終わらなかった。
ある日は、鳥も手を出さないほど酸味の強い、けれどつやつやと輝く、鮮やかな野生の木苺。
ベルローズが好むのは、深く淹れた紅茶や、目が覚めるような酸味の強い木苺だ。
その、甘えを許さないような峻烈な味の好みは、彼女の生き方そのもののようにも思えた。
彼が獲物を追い詰めるために研ぎ澄ましていた嗅覚と視覚は、明確な殺意を伴うものだった。
それが今では、彼が茂みをかき分けるのは、ただ彼女の好みの味をその唇に運ぶためだ。
かつての自分が見れば、さぞや滑稽に映るだろう献身。
けれどルシアンは、奇妙な充足感さえ抱いていた。
ルシアンは、指先を棘で傷だらけにしながら、深い藪の奥でようやく見つけた小粒な実を慎重に持ち帰る。
そして、ピピが用意したティーセットの脇へ、これ見よがしに「ついでに見つけただけだ」と言わんばかりの無愛想な顔をして、そっと置いていくのが日常となった。
実際、ルシアンが持ち帰る木苺は、洗練された王都の菓子とは程遠い、野性味の強すぎる代物だ。
噛めば酸味が弾け、舌に野生の香りが残る。
ベルローズはその鮮烈な酸味に、眉ひとつ動かさない。
「美味しい」という安っぽい賛辞も、労いの言葉も、彼女の唇から零れることはない。
けれど、彼女が白い指先で実を摘み、唇に運ぶとき。
ルシアンの首元の薔薇のチョーカーを通じて伝わってくる彼女の魔力は、微かに、けれど確かな満足感を持って、穏やかに跳ねるのだった。
ベルローズがふと視線を上げ、傍らで控えるルシアンの姿を捉えた。
彼女は何も言わなかったが、その瞳の奥に微かに柔らかな光を宿す。
ルシアンは、その一瞬の揺らぎを見逃さない。
言葉を交わすよりも雄弁な、彼女からのささやかな許し。
その温度だけで、彼の胸の中は熱いなにかで満たされていくようだった。
彼女が再び手元の本へと視線を落とし、ルシアンが贈った漆黒の栞を、細い指先でそっと撫でる。
この沈黙の時間こそが、彼女が許した最大級の親愛であると、今のルシアンには痛いほど理解できていた。
かつて、世界は彼にとって、敵か檻かのどちらかだった。
奪い奪われ、喰い殺すだけの、彼が暮らした冷たい北の地には、守るという概念など存在しなかった。
けれど今、彼の鋭敏な感覚が捉えるのは、城を包む柔らかな花の香りや、ピピやアマンダの態度に滲む親愛、そして主の指先から伝わる静かな肯定だ。
ベルローズが頁をめくる音、窓の外を流れる季節の匂い、自分の帰りを待つかのような小さな気配たち。
ルシアンは、この平穏がいつか砂のように零れ落ちるのではないかと、時折ひどく恐ろしくなることがある。
だからこそ、彼は牙を研ぎ続ける。
(……汚させてたまるか。この場所も、この時間も)
かつては自分を縛り、獣に堕とす呪いだと思っていたこの人の体。
それは今、彼女の隣に立ち、その平穏と美しき孤独を守り抜くための、唯一無二の誇りへと変わっていた。
ルシアンは、主の傍らで静かに目を閉じる。
そして、次なる外敵の気配を逃さぬよう、その鋭敏な感覚を城の隅々、そして深い霧の向こう側まで研ぎ澄ませた。




