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氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第3章:静寂と熱の境界

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第25話:朝陽に溶ける、紅い沈黙

翌朝、ドラクロワ城を包む霧は、昨夜の雨をたっぷりと吸い込んで重く沈殿していた。

窓の外では、濡れた古の巨木たちが吐き出す濃密な湿り気が、城の石壁を伝ってひんやりとした静寂を醸し出している。

それは、世界の終わりまで続くのではないかと思わせるほどに深く、静かな朝だった。


ルシアンの部屋の重いドアが、遠慮のないリズムで叩かれた。


「ルシアン、起きてるかい?ベルローズ様がお待ちだよ。昨日のキメラの毒が残っていないか、もう一度微調整をしておきたいってさ」


ピピの快活な声が、朝の冷気に震えて響く。

ルシアンは、じっとりと肌に張り付くような寝汗を感じながら、重い瞼を持ち上げた。

昨夜、あの漆黒の栞を、まるで喧嘩を売るような無作法さで机に叩きつけ、逃げるように部屋を去ってからというもの、まともな睡眠など取れてはいなかった。


瞼を閉じれば、栞を見つめて石像のように固まっていた彼女の、底知れない深紅の瞳が何度も蘇る。

そのたびに、心臓が不快な警鐘を鳴らした。


(……やっぱり、柄じゃなかったか)


誰かに何かを贈る、あるいは誰かを想って品を選ぶという概念そのものが、彼の人生には欠落していたのだ。

それを、こともあろうにあの気高き魔女に対して実行してしまった。


彼女は驚いたように絶句していた。

あんな拒絶に近い沈黙を誘うくらいなら、いっそその場で「不要だ」と突き返された方が、どれほど楽だっただろう。

期待などしていなかったはずなのに、浮かれていた自分に吐き気がした。


彼女の美学に、自分は救いようのない泥を塗ってしまったのではないか。

朝の光が差し込むほどに、そんな被害妄想が泥のように脳内へ浸食していく。


「ルシアン、入るよ」


返事を待たず、ピピが入室してきた。

彼は手慣れた動作で寝台の脇に清潔な予備のシャツを置くと、気だるげに身を起こしたルシアンの顔を至近距離で覗き込んだ。


「……ひどい顔だね。徹夜で森の守護でもしてたの?……ほら、顔を貸しなよ」


ピピの手からは、すり潰したばかりの薬草が放つ、青臭くもツンとした刺激臭が漂っている。

ルシアンは思わず鼻に皺を寄せ、目を細めた。


「くせぇな。なんだよ……」


「昨日の頬の傷、あんな不浄なキメラに付けられたんだ。放っておいたら、王都の呪毒で傷跡が腐り落ちるかもしれない。石の精霊特製、とっておきの消毒薬を持ってきてあげたから――」


ピピが、褐色の薬液に浸した白い布を差し出したところで、その動きがピタリと止まった。

ルシアンの左頬。

昨日、確かに真鍮の鋭利な爪が深く裂き、どす黒い保存液がこびりついていたはずの場所。


そこには、赤みすら残っていなかった。

朝陽を浴びた肌は、まるで何事もなかったかのように滑らかで、傷跡の欠片も、不浄の気配すらも見当たらない。


「おや?治ってる。僕の記憶違いかな、結構深かったはずだけど……。一晩で治るなんて、君の自己再生能力はいつからそんなに異常になったんだい?」


「……あいつが、治してくれたんだよ。昨日の夜、部屋に呼ばれた時にな」


ルシアンは寝台から這い出し、ぶっきらぼうに吐き捨てた。

「あいつ」という不敬な呼び方に、ピピは一瞬だけ呆れたように肩をすくめた。

だが、すぐにその言葉の裏にある事実を察し、その灰色の瞳に、意地の悪い、けれどどこか楽しげな色を浮かべた。


「へぇ……。ベルローズ様が、直接手入れをしてくださったわけだ。あの方は無駄な魔力消費は嫌うはずなんだけどね。君、よっぽど価値ある『拾い物』として認められたらしいじゃないか」


「うるせぇ。……その薬は、アマンダにでも塗ってやれ。キノコの肥料にでもなればいい」


「ふん、何言ってるんだか。……さっさと着替えな。僕はお茶を淹れに先に行くから、しっかり身なりを整えてからくるんだよ?いい?」


そう言うとピピは、鼻歌混じりに部屋を出ていった。

一人残されたルシアンは、洗面場にある曇った鏡に向かい、自分の顔を忌々しげに睨みつける。


指先で頬に触れてみても、痛みはまったくない。

ただ、彼女の指先が触れたときの、あの指先から浸透してきた冷たい熱の記憶。

それだけが、皮膚の裏側にこびりついて、心臓を騒がせ続けていた。


洗面場の鏡に映るルシアンの顔は、寝不足のせいでひどく不機嫌そうだ。

彼は冷たい水で無理やり意識を覚醒させると、シャツに袖を通す。

昨夜、皮膚が赤くなるまで洗ったはずなのに、まだどこかに王都の腐敗臭が残っているような気がする。

彼は心底不快そうに眉を寄せ、無意識に襟元を正して部屋を出た。


「あ、ルシアンさん。おはよう。今朝のあなたは、なんだか『雨上がりの土』みたいな、深くて落ち着く匂いがします」


廊下の曲がり角からひょっこりと姿を現したアマンダが、琥珀色の瞳を細めた。


「……なんだよ、それ。褒めてんのか」


「ふふ、とっても。なんだか、お城の空気が『美味しい』です。ベルローズ様からも、今朝はとても静かな、春の陽だまりみたいな匂いがしていますよ。まるで、お気に入りの宝物を見つけた子供みたいに」


アマンダの琥珀色の瞳は、嘘をつかない。

けれど、ルシアンにはその宝物が、自分の差し出したあの黒い板きれだとは微塵も思えなかった。


(……別のいいことでもあったのかよ。あの栞のせいで不機嫌になってなきゃいいが)


ルシアンは「俺には分からねぇよ」とぶっきらぼうに返し、足早に彼女を追い越した。


そこへ、反対側から銀のトレイを掲げたピピがやってくる。

ちょうど主の部屋へと紅茶を運び終え、戻ってきたところのようだった。

ピピはルシアンとすれ違いざま、隠しきれない揶揄を含んだ笑みを浮かべた。


「ふん。及第点、ってところだね。あの方の厳しい審美眼に、君の不器用なセンスがどうにか『居場所』を貰えたみたいだよ」


「は?……おい、何のことだ」


呼び止めるルシアンを無視して、ピピは鼻歌混じりに去っていく。

二人の言葉は、まるで霧を晴らす風のようだ。

だが、当のルシアンは「主の機嫌を損ねた自分を、二人がかりで馬鹿にしているのか?」と、ますます被害妄想を募らせるばかりだった。


彼は九割の不安と一割の、消え入りそうな希望を胸に、ベルローズの書斎の重厚な扉を押し開けた。

朝陽がステンドグラス越しに斜めに差し込む室内には、ピピが淹れたばかりの紅茶の、華やかで高貴な香りが満ち満ちている。


「……来たわね。そこへ座りなさい」


ベルローズは顔を上げず、机に広げた古びた羊皮紙に向かったまま淡々と命じた。

ルシアンが、まるで断頭台へ向かう死刑囚のような覚悟で、昨夜と同じスツールに腰を下ろそうとした、その時だった。


彼女の手元にある、年季の入った分厚い魔導書。

その、現在進行形で開かれている頁の間に、あの漆黒の木製栞が、当然のような顔をして納まっていた。


瞬間、ルシアンの思考は真っ白に染まった。

闇を切り出したような深い黒の木肌。

そこに嵌まった紅い石が、朝陽の粒を反射して、彼女の瞳と全く同じ鮮血の色で密やかに、けれど力強く輝いている。


(……使って、やがる)


言葉での感謝などなかった。

微笑み一つ、投げかけられてはいない。

けれど、彼女はそれを捨てなかったどころか、今まさに自分が知恵を汲み取っている本の一番大切な場所に、その居場所を許していた。


ルシアンの胸の奥で、朝の寒気よりも冷たかった不安が、一瞬で熱い、猛烈な拍動へと弾けた。

人間の形を保ってはいても、内なる幻獣の本能までは欺けない。

ルシアンの藍色の髪の隙間から覗く獣の耳が、無意識のうちにピンと直立し、感情を隠しきれずに小刻みに震えた。

さらに、上着の裾の下で、長い尾が行儀悪く床を激しく叩きそうになるのを、彼は必死に理性の力で抑え込む。


その様子を、ベルローズは魔導書から目を離さぬままで把握していた。

首元のチョーカーを通じて伝わってくるルシアンの魔力の跳ね方が、まるで春を喜ぶ幼い獣のように、あまりにも素直だったからだ。


「どうしたの?早く座りなさい。私の時間を無駄にするつもり?」


ベルローズはわざとらしく小首を傾げ、ようやく深紅の瞳を彼に向けた。

彼が自分の手元を、まるで奇跡でも目撃したかのように、穴が開くほど見つめているのを知っていながら、あえてその内容には触れなかった。


ベルローズは満足げに、そして優雅な所作で静かに魔導書を閉じると、机の上にそれを置く。

栞の紅い石が、二人の間で重厚な存在感を放っている。

ルシアンの瞳に灯った、隠しきれない純粋な歓喜。

彼女はそれを言葉では指摘せず、ただ、熱を帯び始めた自身の指先で、そっとその木肌をなぞった。


「ルシアン。顔を上げなさい」


ベルローズの声が、書斎に響く。

彼女が細い指先を伸ばし、彼の項に触れる。

その指先から伝わる冷たさが、今のルシアンには何よりも心地よい、信頼の温度に感じられた。


昨日出会った異形のキメラ。

そして、それを生み出す王都の影。

自分を壊した過去の因縁が、いつかこの城を、そして彼女の指先を汚す日が来るかもしれない。


(……あいつらが、この景色を汚そうとするなら、俺が……)


ルシアンの心に、かつての憎しみとは違う、鋭利で純粋な守護の意志が宿る。

彼はベルローズの魔力が自分を包み込む感触に身を委ねながら、静かに目を閉じた。

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