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氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第3章:静寂と熱の境界

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第24話:指先の体温、紅の返答

扉を叩く音は硬く、迷いがなかった。

本来なら、城の静寂を乱す不遜な音のはずだ。

けれど今のベルローズの耳には、自身の心音の延長のように、あるいは待ち侘びた合図のように馴染んで聞こえた。


「入りなさい」


ベルローズの許可を得て、ルシアンは室内へと足を踏み入れた。

部屋には香炉から立ち昇る冷ややかな残り香と、数百年分の知識が染み付いた古い紙の匂いが漂っている。

かつて、この城に流れ着いたばかりの彼を拒絶するように感じられたその静謐が、今は不思議と、戦場帰りの肺の奥まで安らぎを運んでいた。


ベルローズは机の前の椅子に深く腰掛けたまま、無言でルシアンを呼び寄せた。

ルシアンは逆らわず、彼女の膝が触れそうなほど近い、至近距離まで歩み寄る。

見上げる主の瞳は、夜の湖のように深く、底知れない冷たさを湛えていた。


「……随分と、丁寧に洗ったのね」


ベルローズが目を細め、至近距離で彼から漂う『匂い』を鑑定した。

ルシアンからは、あの悍ましい保存液の腐敗臭など微塵もしない。

代わりに彼から漂うのは、城の石鹸の清廉な香りと、洗いたての肌から立ち昇る清々しい水の気配。

そして、幻獣特有の、冬の朝の空気のような香りがしていた。


彼が自分の美学を尊重し、執念深く汚れを落としてきたことを、彼女は瞬時に察した。

だが彼女の鋭敏な鼻は、その奥に潜む異質の魔力の、刺すような名残を逃さない。


「けれど……、まだ僅かに混じっているわ。異形の、魔力の残滓が」


「……これでも、皮膚が擦り切れるほど洗ったんだがな」


ルシアンが不本意そうに眉を寄せ、唇を歪める。

耳は伏せられ、長い尾は彼の心を隠さずに大きく揺れた。

その素直な反応に、ベルローズの唇がごく僅かに、本当に僅かだが、柔らかな弧を描いた。


「顔を上げて。……こちらへ。物理的な汚れは落ちても、肌の奥に刻まれた呪術の痕跡は、水では流せないわ」


ルシアンは促されるまま、彼女の目前に置かれた低いスツールに腰掛けた。

ベルローズは白く細い指を伸ばし、まずはルシアンの頬に残った傷に触れた。


「……ッ」


ルシアンの喉が小さく鳴る。

雪の結晶に触れられたような冷たさが、傷の火照りを一瞬で奪った。


ベルローズの指先が傷口をなぞると、深紅の魔力が糸のように指先から溢れ出し、裂けた皮膚を繋ぎ合わせていく。

細胞が強制的に活性化し、心地よい痺れが頬を駆け抜けた。

頬に走っていた痛々しい傷跡は、跡形もなく消え去った。


そのまま、彼女の指先は首元にある薔薇のチョーカーへと移る。

そして、さらに指先を滑らせ、露わになったうなじの肌に直接触れた。

ルシアンの肩が大きく跳ね、強張る。

洗いたての肌から立ち昇る、微かな水気と熱。


ベルローズの指先は氷のように冷たい。

しかし、そこから流れ込んでくる魔力は、驚くほど濃密で、芯を焼くような優しい熱を帯びていた。

荒ぶっていた幻獣の血が、彼女の規則正しい脈動に呼応するように凪いでいく。

ルシアンは無意識に耳を後ろに倒し、喉の奥を震わせた。


(……こいつ、こんなに温かかったのか)


氷のように冷徹で、血の通わない女だと思っていた。

だが、項から全身へ染み渡る彼女の魔力は、冬の陽だまりのように、彼の孤独を芯から溶かしていく。


ベルローズもまた、指先から伝わるルシアンの強烈な鼓動を感じていた。

早鐘を打つその拍動は、彼が単なる道具ではなく、意志と熱を持った命であることを、嫌というほど彼女に知らしめる。


「……もう、汚れはないわね」


そう呟きながら、彼女の指先は不自然に長く、彼の肌に留まっていた。

それはどちらの未練だったのか。


やがて彼女が名残惜しげに指を離すと、ルシアンは奪われた温もりを誤魔化すように、乱暴に上着の内ポケットを探った。


「……これ、やるよ」


差し出されたのは、漆黒の木製栞だ。

闇を切り出したような深い黒の上に、彼女の瞳と同じ、妖しい紅石が一点。

机に置かれたランプの橙色の光を吸い込み、その石は生きているかのように怪しく光った。


「…………」


ベルローズの時間が、凍りついた。

目の前に置かれたものが持つ意味を、彼女の理性が拒絶するように硬直する。


「……栞?なぜ、私に」


「街で見つけただけだ。……あんた、いつも指を本に挟んだまま、窓の外を見てるだろ。……見てて苛ついたんだよ」


あまりにも不器用で、下手な嘘だった。

ルシアンはそれ以上の説明を拒むように栞を机に置くと、背を向けた。


「……必要ねぇなら、捨てりゃいい。俺はもう行く」


扉が閉まる乾いた音。

彼が去った後の部屋には、ルシアンが持ち込んだ僅かな夜の気配と、彼自身の体温が残されていた。


ベルローズは一人、卓上の栞を見つめた。

触れれば壊れてしまうかのように、あるいは猛毒に触れるかのように。

恐る恐る指を伸ばす。


「指を本に挟んでいるのが苛ついた、ですって?……下手な嘘をついて」


掠れた声が、静寂に溶ける。

指先から伝わる木肌の熱に、彼女の心臓が不快なほど速く脈打った。


かつて自分を愛していると言った男でさえ、彼女を『美しく稀少な魔法資産』としてしか見ていなかった。

彼女が独りで過ごす時間の、無意識な指先の癖など、誰も気に留めはしなかったのに。


(あの子は、あんなに真っ直ぐな瞳で、ずっと私を見つめていたというの……?)


誰にも触れさせず、誰と共有するつもりもなかった、孤独な一人の時間。

それを贈り物という形で踏み込まれ、肯定されたことへの、恐怖に似た震え。

そして、それを超えて溢れ出す、言葉にできない甘い高揚。


「……そんなところを見て、何になるというの」


彼女は読みかけの本にそれを挟もうとして――思い直し、そっと胸元へと引き寄せた。

栞の木肌は、まだルシアンの体温を失っていない。

ベルローズは、そのかすかな熱を、自分の皮膚に刻みつけるように抱きしめた。


ふと、窓硝子を叩く微かな音。

湿った夜風が森を撫で、静かな雨が降り出し始めている。

彼女は再び本を手にとったが、その視線は一行も進まない。


部屋を満たす静寂は、もはや停滞した冷気ではない。

外で降り始めた雨が夜の深さを増していく中で、それは、主と騎士の間に芽生えた、名もなき熱を孕んだ夜の抱擁だった。

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