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氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第3章:静寂と熱の境界

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第23話:宵闇の帰還

森の霧を切り裂き、ようやくドラクロワ城の重厚な門がその輪郭を現した頃、空は深い群青色に染まり、夜の完全な支配が始まっていた。


城のテラスでは、ベルローズが彫像のように動かず、降り積もる夜の帳を受け入れるように佇んでいる。

傍らのテーブルに置かれた読みかけの本は閉じられ、ずいぶん長い間そのままになっていた。


冷え切った大気が彼女のドレスを撫で、その肌からじわじわと体温を奪っていくが、彼女はその不快感にさえ気づいていないようだ。

彼女の視線は文字を追う代わりに、もう何度目か分からないほど執拗に、霧の奥へ。

ルシアンとピピが消えていった、境界線へと投じられていた。


「ベルローズ様、お茶を温かいものに入れ替えましょうか?凍えてしまいます」


背後から声をかけたアマンダに、ベルローズは短く応える。


「……いいわ。片づけてしまって」


アマンダは主の横顔をそっと盗み見る。

彼女の大きなキノコの傘から溢れる淡い光の胞子も、今はベルローズの心を鎮めるのにはさして役立たない。


主の周囲に漂う『ひとりぼっちの匂い』。

それは古びた書庫の奥底に溜まった埃や、冷たい雨の匂いに似ている。

アマンダは、主を包む孤独がルシアンの不在によってより鮮明に浮き彫りになっていることに、寂しげに睫毛を伏せた。


ベルローズは、自分がどれほど長くこの場所に立ち、どれほど深く霧の先を案じているのかを、アマンダに悟られまいとしていた。

だが、その理性とは裏腹に、胸元で握りしめた指先には血の気が引くほど力がこもる。

ルシアンのチョーカーから伝わる共鳴が、先ほどから不穏な波紋を描き、彼女の指先にまで刺すような熱と微かな戦慄を伝えてきていたからだ。


(ルシアン……。向こうであなたは、何に触れたというの)


チョーカーを通じて流れ込んでくるのは、ルシアンの荒ぶる拍動と、どろりとした負の魔力の余韻。

彼が何かに直面し、その獣の血を滾らせたことを、彼女の敏感な指先は克明に描き出していた。


「アマンダ。お茶の代わりに、魔力の安定に長けた香を用意してくれる?」


「……わかりました。とびきり質の良いものを選んできますね」


アマンダは主の、震える声を隠そうとする矜持を察し、静かに頷いて下がった。

用意された芳香の香りがテラスの冷えた空気に混ざり、密やかに、けれど濃密に広がり始める。

それは、激しい戦いを終えて戻るであろう彼の、血に濡れて荒ぶり傷ついた魂を、城という揺り籠に沈めるための、彼女なりの密やかな準備だ。


ベルローズは立ち昇る煙の向こうを見つめながら、夜の冷気に指先を震わせた。

この香りと、自分の魔力で、彼の内側の獣を凪がせてみせようと。

霧を透かす彼女の瞳は、静かな、けれど熱を帯びた独占欲を湛えたまま、ただ一点を見つめ続けていた。





ルシアンは、城門をくぐった瞬間に肺の奥まで届いたその空気に、思わず喉を鳴らした。


外界の、あの油と埃と腐敗が混じり合った悪臭が、城の静謐な魔力によって一気に押し流されていく。

古びた石材が抱く冷ややかな湿り気、庭園から漂う薔薇の芳醇な芳香。

そして、テラスの方から流れてくる、凛としていて、それでいて逃れようもなく甘い彼女の香り。


(……帰ってきた)


その実感だけで、荒ぶっていた獣の血が目に見えて凪いでいくのを、ルシアンは自身の鼓動の安定によって悟った。


「ベルローズ様、ただいま戻りました!」


ピピが、弾んだ声でベルローズへ駆け寄った。

ルシアンの傍で、城の結界に干渉して荷物を浮かせながら、ピピは今日手に入れた戦利品の数々を、誇らしげに報告する。


「……ピピ、ご苦労さま。あなたが選んだものなら、間違いはないわ」


ベルローズはピピの報告を静かに聞き届け、ごく僅かに目を細めて頷く。

それは献身を受け止める主としての、確かな信頼だった。


ピピは満足そうに顔を輝かせ、「早く荷解きをしないと」と軽やかな足取りで城の中へと歩みを進めたが、ふと足を止め、振り返った。


「……それから、ベルローズ様。森の境界で少し、荒事がありました。僕の力が及ばない場所で、少々手こずりましたが……」


ピピは一瞬だけ、悔しそうに眉根を寄せ、それから視線を後方のルシアンへと投げた。


「不本意ですが、ルシアンが盾になったおかげで、城の備品は一つも傷つかずに済みました。……あいつ、意外と使い物になりますよ」


城の外で自分の無力を補った牙への、屈辱混じりの感謝。

それを報告し終えると、ピピは照れ隠しのように鼻を鳴らし、今度こそ騒々しく城の奥へと消えていった。


「そのようね。……わかっているわ」


ベルローズの視線は、一段後ろで泥と闇を纏って立ち止まっているルシアンへと移る。

その瞳は、瞬時に慈悲なき鑑定者のものへと戻っていた。


「随分と……、不浄な匂いを連れて帰ってきたわね。ルシアン」


ルシアンは視線を逸らし、一度だけ鼻を鳴らした。

ベルローズは一歩、長く影を曳いてルシアンに歩み寄った。

彼女が放つ花の香りが、ルシアンの周囲に漂う薬品臭を静かに押し返していく。

白い指先が、直接触れることなく、彼の頬の傷をなぞるように空を切った。


「掃除しただけだ。城の近くが薄汚れてたからな」


ルシアンは短く吐き捨てた。

その表情に戦勝の喜びはない。

ただ、自分の縄張りを侵そうとした不浄を払ったという、淡々とした、けれど苛烈な義務感だけがあった。


「掃除にしては、少し詰めが甘いわ。私の視界に……、そんな不潔な痕跡を入れないで」


酷薄な言葉とは裏腹に、彼女の深紅の瞳は、傷口に付着した不浄な魔力を、慈しむような緻密さで鑑定していた。

ルシアンの頬をかすめた薄い切り傷と、上着の裾にこびりついたあの異形の、死を拒絶された臭い。


「ルシアン、あなたは身なりを整えた後、私の部屋へ来なさい。余計な雑音を城に響かせたままにするのは、私の美学に反するから。……いいわね?」


「……分かったよ。すぐに行く」


ルシアンは、重い足取りで自室へと戻っていく。

ベルローズが彼を呼んだのは、騎士の手入れのため。

外の世界が彼に刻んだ汚濁を、自分自身の魔力で上書きし、完全に消し去る儀式だ。


(……他の誰にも、あの子の魔力には触れさせない。たとえそれが、王都の呪いや死の匂いであっても。あの子を染めるのは、私だけでいい)


彼女は無意識に、自身の熱を帯びた角の付け根を指先でなぞった。



その頃、ルシアンは洗面場にある大きな石造りの水盤に向かって、冷水を頭から浴びていた。

乱暴に頭を洗い、頬の傷に染みる水の痛みを無視して、執念深く皮膚を擦る。


激しい戦闘で火照った頭、そして王都のキメラが撒き散らした、鼻の奥にこびりつくような保存液の匂い。

それらを一刻も早く、一滴残らず洗い流したかった。


ふう、と深く息を吐き、彼は濡れた髪を振り乱した。

大型の獣が水浴びの後にするように、首を激しく左右に振って水を払う。

周囲に水飛沫が飛び散り、藍色の髪から零れた滴が、鎖骨を伝って服の襟元を濡らした。


「しつこい匂いだ。あいつに、こんなもん嗅がせられるかよ」


彼は異形の返り血で汚れた上着を忌々しげに脱ぎ捨てると、ピピが用意していた清潔なシャツと上着を手に取った。


そして、脱ぎ捨てた上着の内ポケットから、あの紅と黒の栞を慎重に取り出す。

汚れひとつ付いていないことを指先で確かめ、繊細な手つきで新しい上着の同じ場所へと滑り込ませた。


今から向かうのは、静謐な彼女の部屋だ。

主の指先に触れられる自分に、一欠片の汚れも残しておくわけにはいかない。

鏡に映る自分の顔から不浄な気配が消えたことを確認し、彼は静かに部屋を出る。


自分が勝利したことなど、今の彼にはどうでもよかった。

ただ、彼女の待つ静寂を守り抜き、この小さな贈り物を無傷で持ち帰れたこと。

その事実だけが、今の彼にとっての、代えがたい唯一の戦果だった。

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