第15話:触れざる指先、確かなる自負
城の静寂を乱すことなく、ルシアンは影のように滑らかな足取りでテラスへと戻った。
指先にはまだ、蒼炎が生み出した絶対零度の痺れが、心地よい脈動となって微かに残っている。
首元の薔薇は、激しい魔力の行使を終えた彼の安堵感からか、鎖骨の上でトクトクと、穏やかで規則正しい拍動を刻んでいた。
それはまるで、主であるベルローズの心音が自分の血流に混じり合っているかのような錯覚を、ルシアンに抱かせる。
テラスには、先ほどと変わらぬ姿勢でベルローズが佇んでいた。
彼女は手にしていた魔導書を閉じると、音もなく近づいてきたルシアンへと視線を向けた。
「……随分と早かったわね。迷子になるような時間もなかったかしら」
「あんなガラクタ、鼻を利かせるまでもなかっただけだ。王都の腐った臭いがしてたからな」
ルシアンはぶっきらぼうに答え、彼女から数歩離れた位置でぴたりと足を止めた。
無遠慮に牙を剥かずに一定の間を保ったのは、臆病さゆえの退避ではない。
己を律し、彼女の不可侵な領域を守るという、彼なりの新しい節度だ。
本能的に身につけた、静かな敬意の示し方だった。
「王都の魔導士どもが造ったキメラだ。結界の綻びを突いて這い出しやがったが、あんたの庭は、一滴の血でも汚しちゃいない」
「そう。……よくやったわ、ルシアン」
ベルローズは、ごくあっさりとした賞賛しか与えなかった。
けれど、ルシアンにはそれが自分そのものを肯定してくれたかのように感じられた。
彼女はゆっくりと、月光を切り裂くようにルシアンへと歩み寄る。
夜風に揺れる重厚な黒いドレスの裾が、彼の靴先を静かにかすめた。
ベルローズは、ルシアンの頬のあたりに向かって、白く細い指先をすっと伸ばした。
(なんだ……? 何する気だよ)
ルシアンは思わず身を硬くし、耳を微かに後ろへ伏せる。
だが、彼女の手は肌に触れる直前、あと僅かという位置で止まった。
彼女の体温が伝わってきそうな距離だ。
指先から微かな熱が放たれるが、触れそうで、決して触れない。
ベルローズは、ルシアンの肌に直接触れることをあえて避けているようだった。
一度でも触れてしまえば、この美しく完成されつつある騎士と主という均衡が、生々しい体温によって崩れてしまうのを恐れているかのように。
「……あなたの力、随分と静かになったわね。不純物が削ぎ落とされたよう」
彼の頬の周囲に漂う、戦いの余韻。
凍てつく冷気の残滓を、形のない宝物を慈しむかのように、ベルローズは指先で空中に小さな円を描く。
ルシアンの鋭敏な嗅覚が、彼女の肌から漂う冬の薔薇のような、冷たくも柔らかい香りを至近距離で捉えていた。
それを吸い込むたびに、彼の獣の血は不思議なほど鎮まっていく。
この香りに包まれている間だけは、自分が化け物であることも、呪われた一族であることも忘れられる。
もし今、彼女がこの隙間を埋めて自分に触れたなら。
その瞬間、自分は騎士であることを捨て、ただの忠実な獣に成り下がってしまうのではないか。
そんな甘美な恐怖が背筋を焼いた。
「以前のような、無秩序な熱が消えているわ。……ずいぶん上手く抑え込んでいるようね」
「……あんたが、この薔薇を通して魔力を流し込んでるからだろ。おかげでこの体の方が、力を一点に絞り込みやすいってことに気づいちまった」
ルシアンは視線を逸らしながら、自身の首元にある漆黒のベルベットに触れた。
初めて触れたときには、支配の鎖かと思い込んでいた、その感触。
だが今となっては、主の冷徹な意志が、自分の暴走しがちな荒ぶる血を鎮めてくれている。
そしてこれからも、高みへと導いてくれる、確かな絆のように感じられていた。
「あなたを拾い上げたとき、借りは返す……と、言ったわね」
「……ああ」
ルシアンが何かを確かめるようにチョーカーをなぞるのを一瞥し、ベルローズは言う。
その表情は、平素の彼女と比べれば辛うじて読み取れる程度に、どこか満ち足りている。
「ならば、その力をさらに磨きなさい。私の景色を汚さぬよう、より精密に、より冷酷に」
「……言われなくても分かってる。あんたの隣に立つのに、無様な姿は見せられねぇからな」
ベルローズは、彼の不器用な決意にも微笑まず、無表情のままだ。
ただ、その深紅の瞳の奥で、ほんの一瞬だけ、凍てついた湖面に波紋が広がるような、微かな揺らぎが生じた。
「……いいわ。今日はもう下がりなさい。明日は朝からピピが騒がしいはずよ。城の備蓄や魔石の質が、少しばかり心許なくなってきたの。あなたも、森の外へ同行してもらうわ」
「外……? 人間の連中がいる場所か」
ルシアンの喉が、微かな警戒で震える。
冷たい銀の檻と、不快な薬品の香り。
それらが脳裏をよぎるが、不思議と以前のような、視界が赤く染まるほどの憎悪は湧いてこなかった。
「ええ。ピピ一人では、持ちきれないほどの荷物になるでしょうしね。荷運び用の腕が必要なのよ」
「荷運びだ? ……俺をそこらの馬車馬と一緒にすんな」
吐き捨てながらも、ルシアンの蒼い尾は逡巡するように、ゆったりと左右に揺れている。
命令への拒絶というより、未知の状況に対する野性的な興奮の表れだ。
「……嫌かしら?」
ベルローズが静かに問いかける。
ルシアンは少しだけ沈黙し、それから藍色の尾をもう一度、今度は力強く一振りした。
「……いや。今の俺なら、人間の姿で紛れ込むのも、そこで奴らを圧倒するのも、そう悪くないと思ってる」
かつて自分を虐げ、素材として扱った人間たちの喧騒の中へ。
今度は守るべき主のために、その圧倒的な力を隠して踏み込む。
その事実はルシアンの内に、ある種の優越感に満ちた高揚を与えていた。
もはや彼は、一族から疎まれた青い瞳の出来損ないでも、人間に捕らわれた檻の中の獣でもない。
ドラクロワ城の主が認め、その魔力を分け与えられた、ただ一人の騎士だ。
その自負が彼の背筋を、かつてないほど真っ直ぐに伸ばさせていた。
「そう。では……、今夜はしっかり休むことね。明日のピピの目利きは、……そうね。ちょっとした狩りよりも過酷よ。ルシアン」
ベルローズは僅かに微笑み、優雅にドレスの裾を掬うと、背を向けて部屋の中へと消えていった。
ルシアンは、彼女がいなくなった後の冷たい空気の中で、もう一度だけ、首元の薔薇に指を這わせた。
外の世界へ向かうことへの微かな不安は、薔薇から伝わる彼女の魔力によって、すぐに心地よい緊張へと上書きされる。
そこにある確かな拍動と体温だけが、この夜の中、彼が唯一信じられる真実だった。




