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氷の幻獣は、冷徹な魔女に拾われる。―夜の庭にサファイアは咲く―  作者: 彩羽やよい
第2章:騎士の形成

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第14話:茨のまどろみ

深夜、ドラクロワ城は青白い月光の海に深く沈んでいた。

城を囲む禁忌の森も今は静まり返り、時折、夜鳥が不吉な声を上げるだけだ。


ルシアンは、人としての規律ある生活に馴染み始めている。

だが、体内で渦巻く魔力の高まりと、己を律しようとする過酷な訓練による疲労が、その魂を一時的に、本来の荒ぶる形へと回帰させていた。


ルシアンが人間の姿を維持しているのは、ベルローズの魔力を精密に制御するためだ。

体内に溜まった魔力を放熱するのには、幻獣の姿のほうがかえって効率がよかったのだろう。


テラスの隅、影の溜まり場で深い眠りに落ちているのは、一匹の蒼狼。

冷たい月光が、夜の底を写し取ったような豊かな毛並みを一本一本、鋭く縁取っている。

その姿は、まるで夜の闇に溶け込むようだった。


太い首元には、人間の時と同じ、あの紫の薔薇が静かに咲いている。

だがそれは、主の魔力の変幻に応じて別の形を成していた。


紫に発光する、細い茨の環。

それは、幻獣の喉を締め上げる無機質な首輪ではなく、慈しむように、あるいは優しく縛るように絡みついている。

毛並みの奥深くに沈み込み、脈動に合わせて淡く瞬く茨は、彼の命がベルローズの魔力と深く結びついていることを、静かに、独占的に主張していた。


「……う……、うぅ……」


穏やかだった寝息が、次第に湿った、苦しげな唸りに変わる。

伏せられた藍色の耳が微かに震え、ルシアンの前足が、何か目に見えぬ敵を追い払うように石床を鋭く掻いた。

硬い爪が石を削る音が静寂を乱す。


夢の淵を浸食するのは、決して拭い去ることのできない暗い記憶の澱だ。


鼻を突く消毒液の刺激臭。

焦げ付いた鉄の、生理的な嫌悪感を呼び起こす匂い。

冷たい銀の檻が肌を焼き、自分の価値を検品する冷徹な声が、耳元で幾重にも重なり響く。


(……生きたまま魔導回路に繋げば、変換効率も飛躍的に上がる。死なせるなよ、これは『高価な部品』だ……)


(……強靭な幻獣である君なら……あの熱量も容易に制御し、永続的にエネルギーを産み出せるだろう?)


幻獣であるルシアンは人語をも解する。

だが、王都の研究者たちは、彼が言葉を完全に理解していると知りながら、家畜を値踏みするような言葉を平然と投げつけてきた。


意思が通じる尊厳ある生き物としてではなく、言葉を理解する、便利な高知能パーツとして。

それが何よりの屈辱だった。

過去の呪縛は、深い眠りの中にさえ牙を剥き、彼の魂をあの暗い泥濘へと引き戻そうと、しつこく脚に絡みついてくる。




「……また、何かに追われているのかしら。それとも、失った群れの影を追っているの?」


静寂を裂く、柔らかな衣擦れの音。

私室から出たベルローズが、そこに音もなく立っていた。

彼女は、悪夢に喘ぎ、体を震わせる獣を静かに見つめる。


激しい呼吸に合わせ、大きく上下するその背。

彼がどのような地獄を再体験しているのか、彼女に知る術はない。

けれど、必死に何かを拒むように石床を掻く爪の音は、かつて絶望の中にいた自分自身の呼吸と、酷く似通ったリズムを刻んでいた。


量られる側の痛み。

それは、彼女の魂に刻まれた消えない痣と同じ色をしていた。


ベルローズは、迷うことなくその場に跪き、荒い毛並みに白く細い指先を沈めた。

熱を帯びた獣の体温が、彼女の冷たい掌を包み込む。


起きている時の彼ならば、人間の姿の彼ならば――。

この距離に近づくことさえ、互いの矜持が許さなかっただろう。


「人の姿でいるのが、そんなに苦しいの?」


ベルローズは独り言のように囁きながら、指先から丁寧に、静謐な魔力を流し込んでゆく。


「それとも、夢の中でまで、檻に閉じ込められているのかしら」


彼女の魔力は、夜風よりも穏やかで、けれど外界の不浄を一切寄せ付けない、絶対的な断絶の力。

チョーカーの茨が呼応して紫の光を強めると、ルシアンの体内を巡る不吉な記憶が、春の雪解けのように鎮められていく。

ベルローズの手のひらを通じて、獣の強張りが、波が引くように解けていった。


喉の奥の呻きは消え、呼吸は深く、安らかなものへと変わる。

ベルローズはしばらくの間、無防備な獣の毛並みを愛おしむようになぞり続けていた。


相手が眠っているからこそ許せる、彼女自身の心の防壁を解いた束の間の休息。

触れられているのは彼のはずなのに、癒されているのは自分の方ではないかと、自嘲気味に息を吐く。


「……おやすみなさい。人のままでも、獣のままでも……好きなように。怯えずに眠るといいわ」


彼女は、ルシアンの額をそっと指先で撫でた。


「ここには、あなたを量る秤なんて存在しないのだから。……ましてや、誰かのための部品になんて、私がさせはしない」


その指先が、名残惜しそうにルシアンの耳の付け根を一度だけ、熱を確かめるように撫で、彼女は月影の中に消えた。

彼女が去った後のテラスには、ただ浄化されたような清冷な空気だけが残されていた。




翌朝。

眩しい陽光がテラスを炙り、ルシアンは目を覚ました。


視界に入ったのは、狼の太い前足ではなく、もはや見慣れた自分の人間の手だ。

いつの間にか形態は安定し、服の乱れもない。


「……何か、温かい夢を見た気がするな。あんなに、何かに追い詰められていたはずなのに」


首元のチョーカーに触れても、そこにはいつもの柔らかな布の感触と、一輪の薔薇があるだけだ。

茨の棘が自分を癒したことなど、彼は露ほども知らない。


傍らで、昨夜の痕跡を消すように念入りに石畳の掃除を始めていたピピに、ルシアンはそれとなく尋ねた。


「……なぁピピ。暗いうち、誰かここに来たか?」


「ふん、君がだらしなく、犬みたいに丸まって眠っていただけだろ?おかげで毛の掃除が大変だよ」


ピピは鼻で笑い、無頓着に箒を動かした。

その表情には、主の秘密を守る精霊としての、わずかな誇らしさが隠れている。


「城の景観を損なうから、次からはちゃんと寝室で寝なよ。……まあ、昨夜はこの城の空気も、少しだけ優しかった気がするけどさ。石が冷えすぎなかったというか」


「……あ?」


「なんでもないよ。さっさと顔を洗ってきな!訓練の時間に遅れるだろ!」


ルシアンは自分の手のひらを見つめ、指先に微かに残る、あの柔らかな熱の正体を知らぬまま立ち上がる。

なぜか今日は、身体の芯に残っていた重苦しい魔力の澱が消え、驚くほど体が軽い。


彼はその熱を、昇り始めた太陽のせいだと思い込み、再び己を律するための訓練へと向かった。


その凛とした背中を、城の奥――ステンドグラスの影から見つめる、深紅の瞳があることを、彼はまだ知らない。


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