第14話:静謐なる狩り
ドラクロワ城を包む夜霧は、外界の光を拒絶する黒い天蓋だ。
それは単なる気象現象ではなく、城を闇へと縫い止める、ベルローズの強大な魔力の境界線でもあった。
ルシアンは、手入れの行き届いた庭園の端から、境界の向こう側に広がる禁忌の森へと一歩足を踏み入れ、侵入者の気配を探っていた。
うねるように枝を伸ばす古木たちは、霧を吸って黒々と光る。
枝が夜風に揺れては、地下で何かが蠢いているかのような、ごうごうとした音を響かせている。
森を吹き抜ける冷気が、ルシアンの濃藍色の髪を激しくなびかせた。
湿った土の匂い、朽ちた葉の甘ったるい腐敗臭、そして微かに混じる針葉樹の鋭い香り。
野生の嗅覚が、周囲の情報を濁流として脳内に送り込んでくる。
首元の薔薇は、今や彼の剥き出しの体温に完璧に馴染み、その花弁の奥で微かな、けれど規則正しい拍動を伝えてくる。
その鼓動がルシアン自身の心臓と共鳴するたび、体内を巡る幻獣の荒ぶる力は濾過され、一滴の濁りもない力として、四肢の末端まで統制されていた。
「……ここか」
ルシアンは鼻に皺を寄せ、霧の向こうを見据える。
サファイアブルーの瞳は、夜闇を透過する猛獣のそれへと変貌し、暗闇の中で冷たく煌めいていた。
ピピが石材に張り巡らせた微細な振動感知、アマンダが影に潜ませた菌糸の監視網。
それらを潜り抜け、城の結界の僅かな歪みを突いて、庭園への侵入を目論む者がいる。
この数月で、主である魔女によって徹底的に磨き上げられた感覚が捉えたもの。
それは異質の、そして吐き気を催すほどに不浄な気配だった。
ルシアンは、喉の奥で低く、不快げな唸りを鳴らした。
霧が不自然に裂け、湿った音を立てて這い出したのは、王都の魔導士たちが神の領域を侵して造り出した歪な命、キメラだ。
筋骨逞しい肉食獣の胴体に、節くれ立った巨大な蜘蛛の脚が八本。
背中には、数人分の人間の頭部が縫い合わされ、埋め込まれていた。
蜘蛛の足が一歩踏み出すたびに、周囲の木々や花が腐り落ちるかのような、不浄な魔力を放っている。
それはルシアンがかつて捕らえられていた、あの聖銀の檻と同じ。
命を部品としか見ていない連中が放つ、吐き気を催すほどに腐った鉄の臭いをさせていた。
「……チッ。……反吐が出るぜ」
その臭いを嗅いだ瞬間、ルシアンの全身の毛並みが拒絶反応で逆立った。
彼の内側に宿る、原初の幻獣としての本能が、目の前の冒涜的な存在を激しく嫌悪している。
その喉笛を噛み千切り、存在ごと抹消せよと、魂の底から咆哮を上げている。
ルシアンは濃藍色の耳をぴんと立てて牙を剥く。
殺意はもはや、夜の冷気よりも鋭く尖っていた。
『……アァ……ウツクシイ……イノ……チ……』
キメラは埋め込まれた複数の顔を歪に引き攣らせ、濁った涎を垂らしながら地を蹴った。
その動きは、生命としての調和を無視した、機械的なまでに速く、けれど醜悪な暴力そのものだ。
ルシアンは動かなかった。
かつての獣の姿であれば、ここで剥き出しの衝動に従い、四肢を地につけて力任せに突進していただろう。
だが、今の彼は、ベルローズに再定義された、ドラクロワの騎士だ。
(……無駄な力はいらねぇ。ピピが言ってた理ってやつを、試させてもらうぜ)
ルシアンは腰の黒鉄の剣を抜くことすらなく、ただ静かに、けれど揺るぎない芯を持って身を構えた。
歪に合成された鋭い爪が空気を引き裂き、彼の喉元を狙って肉薄する。
瞬間、ルシアンの体が夜霧に溶ける陽炎のように揺らいだ。
人間の肉体だからこそ可能な、関節の遊びを活かしたしなやかで最小限の回避動作。
爪は彼の前髪をほんの僅かに掠め、虚空を切った。
(……軽い)
ルシアンは、己の肉体の進化に内心で舌を巻いた。
幻獣の強大な出力を、人間の骨格と筋肉という繊細なバネが、一寸の無駄もなく純粋な運動エネルギーへと変換している。
首元の薔薇から流れ込むベルローズの魔力が、不器用だった関節の一つひとつに最高級の潤滑油を差し、完璧な動きへと優しく導いているかのようだった。
キメラは思い通りに動かぬ蜘蛛の脚を苛立たしげにばたつかせ、辺りの木の根を砕きながら再度突進してくる。
背中の顔が同時に、泣き叫ぶような声を上げ、悍ましい不協和音が森を震わせた。
「逃げんなって言いてぇのか? ……あんたの動きがあまりに鈍くて、欠伸を噛み殺すのに必死だっただけだ」
ルシアンは退屈そうに目を細めてキメラを一瞥すると、掌を向けた。
薔薇のチョーカーを通じて、城の最上階にいる主の魔力と同期する。
体内の熱を帯びた魔力が、彼女の冷徹な意志に呼応するように、一瞬で絶対零度の氷へと属性を変えた。
「……凍れ」
絶対零度の冷気が、ルシアンの手から扇状に解き放たれた。
森の湿った霧が瞬時に結晶化し、無数の氷の礫となってキメラの腐肉を打ち抜く。
突進の勢いのまま、蜘蛛の脚は石床に瞬時に凍り付き、その巨体が真っ白な霜に覆われていった。
自由を奪われたキメラは、恐怖に歪む数人分の顔を震わせ、声にならない呻きを漏らす。
ルシアンの手に、音もなく小さな蒼い炎が灯った。
それは熱を持たない、命の灯火を摘み取るための、冷徹な死の炎。
蒼炎は氷の結晶を導火線にして、キメラの全身へと、音もなく、けれど瞬く間に燃え広がっていった。
猛火のような爆音も、焦げ付く臭いもない。
ただ、絶対的な拒絶の色をした蒼が、不浄な命の定義を無へと書き換えていく。
キメラは悲鳴を上げることすら許されず、内側から魂を凍てつかされ、蒼い光の中で、雪解けのように消滅していった。
あとには、ただ冷たい霧が再び立ち込めるだけだ。
城の静寂は、何事もなかったかのように平穏を保っていた。
ルシアンは、自分の掌を見つめた。
かつては弱さと不完全の象徴だと思っていた、この、人の指先。
(……悪くねぇな。この体なら、あいつの愛する縄張りを、汚さずに守り抜ける)
戦闘の興奮に逆立っていた耳と尾が、夜風に撫でられ、ゆっくりと鎮まっていく。
首元の薔薇を通じて流れ込む主の魔力が、神経の末端までを優しく癒やし、強張った体を解きほぐしていくのが手に取るように分かった。
鼻を突いていたキメラの不快な金属臭は、今や薔薇の芳醇な香りに完全に上書きされ、霧散している。
「……チッ、あいつに手入れされてるみてぇだ。落ち着かねぇ」
ルシアンは喉の奥を小さく鳴らしながら、首を左右に捻って骨を鳴らした。
肩をすくめて背筋をぐっと伸ばすと、尾が名残惜しそうに一度だけ鋭く空を打つ。
サファイアブルーの瞳に宿っているのは、かつての盲目的な復讐心でも、死への誘惑でもなかった。
この不自由な、人の形でなくてはならない。
この体は、主であるベルローズと同じ視点に立ち、彼女の愛する庭を、彼女自身の魔力を使って守るための、最も鋭利で気高い武器なのだ。
「……さっさと報告に戻るか。また子供扱いされるのはごめんだ」
ルシアンはぶっきらぼうに呟いた。
そして、一瞬だけ、愛着を込めて首元の薔薇に指先でそっと触れると、闇の中を影のように滑らかに駆け出す。
ドラクロワの騎士として、主が待つあの月光のテラスへと。




