第16話:交易の対価と主の献身
夜明け前の紺青が、わずかに白み始めた頃。
ドラクロワ城の重厚な石門の前には、冷え切った朝の空気が溜まっていた。
「気を付けてくださいね、ピピ、ルシアンさん。本当はわたしも、あっち側の土の匂いを嗅ぎに行きたかったのですけれど……」
アマンダが、名残惜しそうに首を傾げた。
その琥珀色の瞳は、霧の向こう側に広がる未知の湿り気に向けられている。
「嫌なこった。君が一度荷車に紛れ込んだとき、どれだけの手間がかかったか覚えてないのかい? あの時は君が商人に胞子をまき散らしたせいで、本当に酷い目にあったんだから」
ピピが心底辟易したように溜息をつき、手元の帳簿を鋭く閉じる。
アマンダの指先が、無意識に自身の袖口を弄ると、そこから微かな虹色の胞子が、キラキラと朝の光に混じって零れ落ちた。
「あら、あの人はとてもいい眠りについていましたよ。幸せそうに」
「それを世間では気絶っていうんだよ。あいつ三日寝こんで、目覚めた後も天井の染みを母親だと思って泣いてたって聞いたぞ」
ピピはこめかみを押さえ、これ以上の追及は無駄だと悟ったように肩をすくめる。
「はぁ。……いいから、君は大人しく温室の管理をしててくれよ」
ピピの小言を、アマンダはどこか遠い場所を見るような微笑で受け流す。
少し後ろ、城門の影に溶け込むようにして、ベルローズは静かに佇んでいた。
その視線がルシアンが背負った大きな荷袋と、彼の首元のチョーカーへ、一瞬だけ留まった。
「……頼んだわよ」
短く、余計な情緒を排した言葉。
それが彼女による最大限の信頼の表明であることを、その場にいる全員が理解していた。
「あぁ、分かってる」
ルシアンはぶっきらぼうに応じ、外套の襟を立てた。
ドラクロワ城の重厚な石門が、主の魔力に呼応して開く。
外界と城を隔てるその境界を越えるとき、ルシアンの肌は、城の護りとは異なる外の世界のざわつきを鋭く感じ取った。
彼はピピに急かされるまま、乳白色の霧が深く立ち込める禁忌の森へと足を踏み出した。
足元の腐葉土は夜露をたっぷりと吸い込み、一歩踏みしめるたびに重い沈み込みを見せる。
森が溜め込んだ数百年分の眠りと腐敗、そして湿った植物の呼吸。
それらが独特の重苦しい匂いとなって、靴の裏から這い上がってくるようだ。
「……なぁ。どこへ行くんだ? 買い出しってのは、人間の街へ行くのか?」
ルシアンは、ピピが用意した外套の襟を、苛立たしげに正しながら問いかけた。
彼に用意された外套は、厚手の生地を夜の闇で染め上げたような深い黒。
上背のあるルシアンの体躯を、ゆとりを持って覆い隠せる品だ。
フードの奥、藍色の獣耳は不快そうに伏せられ、重厚な尾は外套の重い裾の内側へ、力ずくで押し込められている。
衣類で耳や尾を押さえつけられることは不快だが、今はそれよりも、外界の空気に触れることへの本能的な忌避感が勝っていた。
「まさか。ベルローズ様が、あんな低俗な場所に僕らを行かせると思う?」
ピピは、背中で硬質な光を放っていた結晶質の羽根を、吸い込まれるように体内へと収束させながら言った。
城の防衛を離れた今、その羽根は余剰な魔力を浪費するだけの贅肉に過ぎない。
これは彼なりの効率の形だった。
ピピの装いは、ルシアンの無骨な外套とは対照的に、どこまでも洗練されている。
深い濃紺の生地に銀の糸で蔓薔薇の刺繍が施された、細身の執務用ジャケット。
首元には乱れなく、几帳面な結び目でタイが留められている。
まるで、どこかの格式高い貴族から特使として遣わされた少年のようだ。
だが、その理知的な身なりこそが、この森の異常性を隠すための精巧な擬態であることを、ルシアンは知っていた。
「僕らが行くのは、訳ありの商人たちが集まる隠れ市。人間の強欲さと、僕らの必要とする利便性が、ぎりぎりで均衡を保っている場所さ」
ピピは、ぬかるんだ道でも汚れることを知らないかのような、軽やかな足取りで先を行く。
磨き上げられた革靴が湿った土を踏んでも、その表面には一点の汚れも残らない。
石の精霊としての本質ゆえか、あるいはベルローズの矜持を背負っている自負ゆえか。
その背中には、迷いが一切存在しなかった。
「……そこへは、城の金で買いに行くのか?」
ルシアンが、自身の背にある空の荷袋をぷらぷらと揺らしながら問う。
一族の群れで生きていた頃、金などという概念はなかった。
そこにあったのは、牙と爪の強さが決める序列と、仕留めた獲物を分け合うという単純な生存の形だけだったからだ。
「半分はね。城の備蓄金から出すのさ。でも残りの半分は、話のわかる商人と物々交換するんだ。ほら見て、この包みの中身。なんだと思う?」
ピピは懐から、丁寧に布で梱包された小さな木箱を取り出し、愛おしげに、そして誇らしげに指先で叩いた。
箱からはわずかに甘ったるく、同時に肺を刺すような冷たい魔力の香りが漏れている。
「この箱の中身はね、アマンダが城の温室で育ててる、幻覚作用がある胞子の瓶詰めだよ。医療用としても、暗殺用としても、魔導士たちが喉から手が出るほど欲しがる最高級品なんだ。それとこっちは――」
ピピがもう一つの小箱を開けて見せる。
そこには、繊細な銀糸で縁取られた、溜息が出るほど美しい刺繍のハンカチーフが収められていた。
月の光を糸に変えて縫い付けたような、丁寧で緻密な仕事だ。
「ベルローズ様が昨夜まで窓辺で手掛けていた刺繍に、僕がちょっとした魔力を付与したものさ。貴族の阿呆どもが、家宝にしたいと競り合う一点物!」
「あいつ、そんなものまで作ってるのか」
ルシアンの脳裏に、主の横顔が浮かぶ。
夜の静寂の中、月明かりを浴びて物憂げに、けれど機械的なまでに正確な間隔で針を動かしていたベルローズ。
ただの優雅な気晴らし、あるいは高貴な身分の嗜みだと思っていたあの指先の動き。
それが、実はドラクロワ城の平穏を買い支えるための、鋭利で緻密な労働でもあったこと。
その事実は、ルシアンの胸の内に、ざらついた砂を噛むような言いようのない感触を残した。
すべてを冷たく見下しているようなベルローズが、指先をわずかに震わせながら、城を維持するための商材を、自らの手で紡いでいた――?
「当たり前だろ? 城の維持費、僕たち精霊の糧。それに君みたいな大飯喰らいの幻獣を養うには、相応の対価が必要なんだ」
ピピは、呆れたようにルシアンを仰ぎ見る。
「……本当は、ベルローズ様の知性と魔術は、こんな辺境の森に朽ちさせておくには美しすぎるんだけどね」
ピピがふと立ち止まり、霧の奥にそびえる黒い城の方を振り返った。
その灰色の瞳には、主をこの地に繋ぎ止めている過去の呪いへの憎しみと、それでもなお損なわれることのない彼女の才気に対する、狂信的なまでの誇りが宿っている。
「……ま、最近はそこに、君が森で仕留めた獲物の牙や爪なんかも加わったけどね。魔物の死骸も、適切に処理して無駄なものを取り除けば、裏の連中にはよだれが出そうな素材になるってわけ。正直、助かってるよ」
ピピは不敵な笑みを浮かべ、再び歩き出した。
アマンダが育てる薬草や胞子、地下から湧き出る魔力の結晶、ベルローズの刺繍、そしてルシアンがもたらす野生の恩恵。
それらをピピが正確に管理し、適切な価値へと変えていく。
ルシアンは、ドラクロワ城が単なる隠れ家ではないことを思い知った。
主の技術と精霊たちの献身によって、外界の汚れを跳ね除けながら自立する、一つの国家のように機能していることに、深い畏敬を覚えていた。
「……お前らみんな、あいつのために身を削ってんだな」
ルシアンは、肩にかけた荷袋の紐を強く握りしめる。
自分の首にあるこの薔薇が、彼女の命を削って作られた魔力の結晶であるならば。
それをただの支配の鎖だと思っていた時の自分自身が、無性に情けなく思えてきた。
彼女の誇りを守るための重みを、自分はまだ何も知らなかったのだ。
「おい、ルシアン。何を立ち止まっているんだい? 霧が晴れる前に境界を越えるよ。人間の匂いに当てられて、鼻が馬鹿になったわけじゃないだろ?」
「分かってんだよ……。さっさと案内しろ、ピピ」
ルシアンは自らの内に芽生えた、城の一員であるという自覚を隠すように、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
だが、その足取りは先ほどよりもずっと力強く、主の平穏を買い支えるための重い責任を、誇りとして受け止め始めていた。
やがて深い霧が途切れ、視界が開ける。
禁忌の森の端、断崖に張り付くように築かれた、石造りの歪な街並み。
ここが、あらゆる法が霧に消える交易拠点『鴉の止まり木』。
ルシアンはフードを深く被り直し、その鋭敏なサファイアブルーの瞳を、人間に見られぬよう暗がりに潜めた。
不快な人間の欲望や、曰くつきの品物の匂いが風に乗って届く。
彼は牙を隠し、雑踏の中へと踏み出した。




