第9話 光になる前に
巨影の輪郭は、亀裂の入ったガラスのように震え続けていた。
あと数撃で、崩せる。
誰もが、そう確信し始めていた。
その油断が、致命的だったのかもしれない。
巨影の身体の奥――これまで一度も動きを見せていなかった、背中の膨らみのような部分が、突如として裂けた。
中から現れたのは、これまでの付属肢よりも一回り小さい。だが、異様なほどに速い、鞭のような触手だった。
「――!?」
誰も、その動きに反応できなかった。
触手は地面を這うように低く伸び、標的を絞るように、大和たちへ真っ直ぐ向かっていく。
「大和、危ない!」
澪の叫びと、澪の能力が拾い上げた感情の奔流が、同時に襲ってきた。
〈対象:複数。感情パターン検出中……処理負荷、限界値に接近〉
大和の恐怖。周囲の仲間たちの焦り。
それらすべてが、一気に澪の中へと押し寄せる。
視界が歪み、思考が白く塗り潰されそうになる。
だが、澪より先に動いた者がいた。
「――っ!」
小春が大和を突き飛ばすようにして、その場から弾き出した。
触手の軌道が標的を失い、代わりに小春の腹部を捉える。
鈍い音とともに、小春の身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられた。
「小春――!」
陽の悲鳴のような声が響く。
澪は能力の処理負荷も忘れ、小春のもとへ駆け寄った。
「小春さん、しっかり……!」
小春は荒い息をつきながら、それでも薄く笑ってみせた。
「……大和くん、無事?」
その問いに、大和が声を詰まらせながら頷く。
小春はそれだけを確認すると、安堵したように少しだけ肩の力を抜いた。
〈対象:柚木小春。感情パターン検出――恐怖91%/諦念58%〉
小春の絶望が、津波のように澪の中へ流れ込んできた。
それは陽の勇気を読み取った時とはまったく違う。重く、冷たく、澪の足をその場に縫い止めるような感覚だった。
だが今度は、澪はその感覚に飲み込まれきることはなかった。
「――嫌です」
澪は小春の手を強く握った。
「まだ、諦めないでください。まだ、間に合う」
触手が再び体勢を整え、こちらへ向き直ってくる。
環が、その進路に割り込むように立ちはだかった。
「これ以上は、通さない」
環の拳が、限界を超えた速度で繰り出される。
一撃、二撃。
だが、触手の動きはこれまでの付属肢よりも遥かに俊敏で、環の拳はその大半を空振りに終わらせていた。
「くっ……!」
三撃目で、ようやく触手の一部を捉えた。
だが、その衝撃で触手はさらに苛烈な動きへと変化し、環へ逆襲を仕掛けてくる。
「環さん!」
陽がナイフを構え、援護に入る。
二人がかりで、ようやく触手の動きを抑え込み始めた。
その間、澪は小春の傷を見つめていた。
深い。
VRとはいえ、システムが再現する痛みと損傷は、あまりにも現実的だった。
「私は、大丈夫だから」
小春が掠れる声で言った。
「澪、みんなのところに行って」
「嫌です。小春さんを置いていけない」
澪の目に、涙が滲んでいた。
それは、これまで澪が誰かのために流したことのない涙だった。
環と陽が、ようやく触手を押し返す。
巨影全体の輪郭が、限界まで震え始めていた。
「――今しかない! 一気に畳みかける!」
環の号令とともに、残る全員が最後の力を振り絞って攻勢に転じた。
大和たちの投擲。
陽のナイフ。
そして、環の渾身の一撃。
それらが折り重なるように、巨影の中心部へと突き刺さっていく。
〈特殊個体、討伐条件を満たしました〉
巨影の輪郭が、まるで砂の城が崩れるように、内側から瓦解していった。
周囲を取り囲んでいた通常個体の影たちも、それに引きずられるように、次々と姿を消していく。
戦いは、終わった。
だが、澪の腕の中で、小春の身体はすでに光の粒子を纏い始めていた。
「――勝った、んだね」
小春が、掠れた声で、それでも嬉しそうに言った。
「はい。小春さんのおかげです」
「よかった……大和くんも、みんなも、無事で」
小春の指先が光の粒子となり、少しずつ空気に溶け始めていた。
澪は、その手を離すことができなかった。
「小春さん……」
「澪」
小春は最後の力を振り絞るように、澪の顔を見つめた。
「前に言ったこと、覚えてる? 澪の中に、私のこと、残ってくれたら嬉しいって」
「……はい」
「本当に、そう思ってる。だから、悲しまないでとは言わない。ただ……忘れないで」
小春の身体が、腕から、肩から、少しずつ光になって崩れていく。
それでも、その表情には恐怖ではなく、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「今度こそ、普通の場所で……」
その言葉を最後まで紡ぐことなく、小春の姿は完全に光の粒子となり、夜の空気に溶けていった。
〈参加者、柚木小春。生存欲求指数の算出を終了しました〉
〈判定:生還条件未達〉
静寂の中、澪だけが両手を虚空に伸ばしたまま、立ち尽くしていた。
誰も、しばらく言葉を発せなかった。
大和が地面に膝をつき、声を殺して泣いていた。
「俺のせいだ」
そう繰り返し呟きながら。
陽が、その肩にそっと手を置いた。
「大和のせいじゃない。誰のせいでもない」
その言葉は大和にというよりも、その場にいる全員――そして、澪自身へ向けられているようだった。
環は何も言わず、ただ澪の隣に立っていた。
澪は、自分の手を見つめていた。
小春の恐怖と諦めは、消えていなかった。
それどころか澪の中に、まるで自分自身の記憶であるかのように、はっきりと残り続けていた。
小春が最後に見ていた景色。
小春が最後に感じていた、「誰かに気づいてほしかった」という願い。
それらすべてが、澪の内側に居座っていた。
だが、それだけではなかった。
「澪の中に、私のこと、残ってくれたら嬉しい」
その言葉もまた、確かに澪の中に残っていた。
奪ってしまった、という罪悪感。
託されたのかもしれない、という小さな光。
その両方を抱えたまま、澪は静かに立ち尽くし続けていた。
〈第一フェーズ:終了まで残り04:58:12〉
時間だけが、何事もなかったかのように過ぎていく。
澪はその数字を見つめながら、初めて、自分が手に入れた力の本当の意味を理解し始めていた。
それは「認められる」ための力ではなかった。
誰かの心の中に踏み込み、そこにあったものを、良くも悪くも自分の中に留め続けてしまう力だった。
けれど、それだけでもない。
誰かが最後に望んだことを、確かに覚えていられる力でもあるのかもしれない。
その両方を、澪はこれから抱えて生きていくことになる。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第9話は、小春の決断と、澪が自分の能力の重さを改めて知る回になりました。
ただ感情を知るだけではなく、誰かの恐怖や願いまで自分の中に残り続ける。
それは澪にとって、力であると同時に、これから背負っていくものでもあります。
次回もよろしくお願いします。




