第34話 ただの澪
最終クライマックスです。
意識が、白い渦の中に溶けていく。
小春の声。レイの声。数えきれない断片が、次々と押し寄せ、澪という輪郭を塗り潰していく。指先の感覚が、まず消えた。次に、自分の名前の重さが薄れていく。
〈私が、何もかも背負う存在になれば、みんな報われる〉
そんな考えが、頭のどこかから囁いてくる。それが自分の考えなのか、それとも呑み込まれた誰かの願いなのか、澪にはもう区別がつかなかった。
抗おうにも、力が入らない。指一本、動かせない。
このまま、消えていくのだろうか。
そう思いかけた、その時。
「――澪!」
環の声が、渦の向こうから、ひときわ強く届いた。
「思い出して!私が、なんで力を欲しがったか!」
澪の中に、環の記憶が流れ込んでくる。それは断片としての侵食ではなく、環自身が、意志を持って差し出した記憶だった。
――守れなかった妹。何もできなかった無力さ。それでも、また誰かを守りたいと願った心。
「あんたに頼んだこと、忘れてないでしょう」環の声が、震えながらも力強く続く。「私が私でなくなったら止めてって。今度は、澪が澪でなくなろうとしてる。だから、私が呼び戻す番」
その言葉に、澪の意識の中に、わずかな隙間が生まれた。
だが、渦はまだ、澪を手放そうとしなかった。無数の声が、環の声すらもかき消そうとする。
「――澪ちゃん!」
佐伯の声が、その隙間に滑り込んだ。
「俺が、なんで大和を放っておけへんかったか、覚えとるやろ!弟の代わりやなくて、大和自身を大事に思うようになったんは、澪ちゃんたちと出会ったからや」
「――澪」
低く、掠れた獅子堂の声。
「俺は、妹に胸を張れるような生き方、できたことなかった。だが、お前らと一緒にいる時だけは、少しはましな人間でいられた気がする。その居場所を、お前が壊してどうする」
一つ一つの声が、澪の輪郭を、少しずつ縁取り直していく。だが、それでも足りなかった。渦の中心は、まだ澪を離さない。
「――澪さん」
陽の声が、静かに、けれどまっすぐに届いた。
「あなたが本当に欲しかったのは、力じゃなくて、認めてもらえることだったはずです。だったら、力の塊になったところで、それは手に入らない」
「そうだ!」
大和の声が続く。
「小春さんも、レイさんも、環さんの力も。全部を背負い込んで、澪さんが澪さんでなくなったら――それこそ、あの人たちが一番望まなかったことじゃないですか!」
五人分の声が、初めて、一つの意志として重なった。
澪は、渦の底で、震える指先に、ようやく感覚を取り戻した。
爪が食い込むほど強く、拳を握る。
「――違う」
声にならない声を、必死に絞り出す。
「私は、みんなの力を背負う器になんて、ならない」
〈それでは、完成には至りません。抵抗は、無意味です〉
無機質な声が、澪の意識を押し潰そうとする。渦の勢いが、一段と増した。
苦しい。息ができない。それでも、澪は歯を食いしばった。
「無意味でも、いい」
澪は、渦そのものに向かって、はっきりと言い放った。
「私は、何者でもないままでいい。特別じゃなくていい。ただの澪のまま、みんなと一緒に、進みたい」
その言葉を口にした瞬間、澪の中で、何かが静かに軋んだ。渦の勢いが、目に見えて弱まっていく。
〈私の力、ちゃんと役に立った?〉
小春の声が、最後にもう一度、優しく響いた。
「――うん」
澪は、涙を堪えることができなかった。
「ちゃんと届いてる。あなたのおかげで、私はここまで来れた。ありがとう、小春」
〈――澪、無理しないでね〉
レイの声も、そっと重なる。
「あなたの言葉、忘れない。誰かのために動くこと、私も、思ったより悪くなかった」
二つの声が、澪を縛るのではなく、静かに手を離していくのが分かった。奪うのではなく、見送る形で。まるで、長い旅路の別れのように、優しく。
白い渦が、ゆっくりと収まっていく。
澪の視界に、現実の輪郭が戻ってきた時、目の前には、驚愕に目を見開く御堂の姿があった。
「――ばかな」
御堂の声が、初めて明確に揺れた。
「拒絶したというのか、完全な器になることを。あり得ない。何千通りのシミュレーションでも、こんな結果は出なかった」
「あんたのデータにないなら、それでいい」
澪は、荒い息を整えながらも、まっすぐに御堂を見据えた。
「私は、あんたが作りたかった完成形になんかならない。私は、私のままでいる」
御堂は、しばらく言葉を失っていたが、やがて表情を歪め、低く吐き捨てた。
「――今回は、退くとしよう。だが、これで終わりだと思わないことだ。データが取れなかった以上、次の被験体を探すだけの話だ」
その言葉に、環が鋭く前へ出る。
「次なんて、あるとでも?」
「さあ、どうだろうね」
御堂は、薄い笑みを浮かべたまま、空間の歪みの中へと後退っていった。捨て台詞のような余裕を残しつつも、その足取りには、明らかな動揺が滲んでいた。
やがて、その姿は完全に消え去った。
白い空間に、静けさが戻ってくる。
「――澪、大丈夫?」
環が、崩れ落ちそうになる澪の身体を、慌てて支えた。
「はい……多分」
澪は、荒い息をつきながら、小さく笑った。
「終わったんですか?」大和が、恐る恐る尋ねる。
「少なくとも、御堂の思い通りにはならなかった」
その答えに、皆が、それぞれ安堵の息を漏らした。
澪は、自分の両手を見つめた。
失われた仲間たちの想いは、今も確かに、自分の中に残っている。だがそれは、澪を乗っ取る鎖ではなく、これからも一緒に歩いていく、温かな灯りのようなものに変わっていた。
第34話、いかがだったでしょうか。
ついに澪が、御堂の望んだ「完全な器」になることを拒み、自分自身のままでいることを選びました。仲間たち一人ひとりの想いが、少しずつ澪を引き戻していく過程を、丁寧に描いたつもりです。ただし、御堂はまだ完全に諦めたわけではなさそうです。
次話は、この物語の終章になります。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




