第35話 消えたくない、と思えた日
最終話です。
〈最終フェーズ、終了を確認〉
〈生還条件判定を実行します〉
〈全対象者:生還条件達成〉
〈現実への帰還処理を開始します〉
視界が、白く塗り潰されていく。
意識が浮上する感覚とともに、澪はゆっくりと瞼を開けた。
見慣れない、清潔な天井が目に入る。かすかに消毒液の匂いがした。だが、Nirvanaの施設で嗅いだものとは、まるで違う、穏やかな匂いだった。
「――澪」
その声に、澪はゆっくりと顔を横に向けた。
千夏が、ベッドの傍らに座っていた。目には、涙が浮かんでいる。
「おかえり」
その一言に、澪の胸が、じんわりと熱くなった。
「……ただいま」
答えた瞬間、堪えきれず、涙が溢れた。千夏も、声を殺して泣いていた。
しばらくして、看護師から、他の参加者たちも次々に目を覚ましているという知らせが届いた。
環、陽、大和、佐伯、獅子堂。全員、無事に現実へと帰還していた。
数日後、退院したばかりの澪は、皆と落ち合うため、街の小さな公園を訪れた。
「――待たせたね」
環が、いつも通り、少しだけ素っ気ない笑みを浮かべて手を挙げた。
「みんな、元気そうで良かった」陽が、駆け寄って澪の手を握った。
「澪さん!」大和が、明るい声で駆けてくる。その後ろから、佐伯と獅子堂もゆっくりと歩いてきた。
「――現実で会うと、なんか変な感じやな」佐伯が、苦笑いを浮かべる。
「本当だな」獅子堂も、珍しく穏やかな顔で頷いた。
久しぶりに顔を合わせた六人は、しばらくの間、他愛のない話で盛り上がった。あの死闘の日々が嘘のように、穏やかな時間が流れていく。
「――これから、どうするの?」
陽が、ふと真剣な顔で尋ねた。
「Nirvanaのこと、御堂のこと」
「千夏さんが、しかるべきところに、全部訴えるって言ってた」澪が答えた。「時間はかかるだろうけど、絶対に、あのプログラムを終わらせるって」
「――そうか」
環が、静かに頷いた。
「あいつがまた誰かを利用しようとするなら、私たちが黙ってない」
「せやな」佐伯も、力強く同意した。
その言葉に、皆が頷き合う。
戦いは、まだ完全には終わっていない。だが、少なくとも今この瞬間、六人はここに、確かに生きていた。
夕暮れの中、それぞれが帰り道につく前、澪は一人、公園のベンチに座って、静かに空を見上げていた。
「消えたい」
かつて、そう思っていた自分を思い出す。
誰にも認められず、何者にもなれない自分を、消してしまいたいと願っていた日々。
だが今、澪の心にあるのは、まるで違う感覚だった。
自分は、何者でもなくていい。特別な力を持つ必要もない。
ただの澪として、この場所に立っていること。それ自体が、今はもう、消したいと思うようなものではなかった。
小春の声が、遠い記憶の中で、優しく響く。
――私の力、ちゃんと役に立った?
「うん」
澪は、小さく声に出して答えた。
「ちゃんと、届いてるよ」
夕日が、街並みをオレンジ色に染めていく。
澪は、ゆっくりと立ち上がった。
明日からも、この日常は続いていく。特別な力を使うことも、もうないかもしれない。それでも、この温かさを知った自分は、もう二度と、消えたいとは思わないだろう。
澪は、皆が待つ帰り道へ向かって、静かに一歩を踏み出した。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
「ニルヴァーナ -Nirvana-」、これにて完結です。
誰にも認められないと思っていた少女が、力を得て、多くのものを失いながら進んでいく物語でした。最後には「何者でもない自分」のまま、大切な人たちに受け止めてもらえる場所に辿り着く――そんな結末を描きたくて、この作品を書き始めました。
小春、レイ、そして環。それぞれの選択と犠牲が、澪を守り、育ててきました。そのすべてが報われる結末を、丁寧に描けていたら嬉しいです。
Nirvanaという組織、御堂という存在については、まだ完全に決着がついたわけではありません。ですが、この物語の主役はあくまで澪自身の再生であり、そこに焦点を絞って筆を置くことにしました。
最後まで見守ってくださった読者の皆様に、心から感謝します。本当にありがとうございました。




