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ニルヴァーナ -Nirvana-  作者: 夜華カナタ


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第2話 覚醒、そして出会い

最初に感じたのは、匂いだった。


濡れた土と、かすかな鉄錆のような匂い。VRだと分かっていても、それはあまりにも現実的で、澪は一瞬、本当に自分の身体がここにあるのではないかと錯覚した。


目を開けると、そこは薄暗い森だった。頭上を覆う木々の隙間から、灰色がかった光が落ちている。空には太陽も月もなく、ただ均一に明るいだけの、作り物めいた空だった。


自分の手を見る。見慣れない、けれど確かに「自分のもの」と感じる手。参加前に選んだアバターは、現実の澪とほとんど変わらない姿にしていた。せめてここでは、本当の自分のままでいたかった。理由は自分でもうまく説明できなかった。


視界の端に、半透明の文字列が浮かび上がった。


〈参加者、水無瀬澪を確認しました〉


それだけだった。ルールも、次に何をすべきかも、何も表示されない。澪はしばらくその場に座り込んだまま、自分の呼吸の音だけを聞いていた。


怖いはずなのに、不思議と涙は出なかった。ただ、頭のどこかが妙に静かだった。


ここには、澪を「いてもいなくても同じ」と扱う人間が、まだ誰もいない。


その静けさが、恐怖よりも先に澪の中を満たしていた。


腰のあたりに、見慣れない重みを感じた。目を落とすと、簡素な鞘に収められた一本のナイフがベルトに固定されていた。装飾のない、実用一辺倒の刃。澪はしばらく、その柄に触れることすらできなかった。


〈初期装備:護身用ナイフを支給しました〉


その表示だけが、素っ気なく浮かんで消えた。至れり尽くせりではない。だが、完全に無防備でもない。


その中途半端な「配慮」が、かえってこの世界の意図の悪意深さを感じさせた。


――――――――


どれくらいそうしていたのか、分からない。


木の葉を踏む音が、澪を我に返らせた。


「……生きてる? それとも、もうバグった?」


声をかけてきたのは、澪と同じくらいの年齢に見える少女だった。癖のある短い髪に、警戒心を隠さない目。彼女は距離を詰めることなく、澪を観察するように見ていた。


「生きて……ると思います」


「思います、って。まあ、それが普通の反応か」


少女はふっと笑った。どこか投げやりな笑い方だった。


「七瀬環。あんたは?」


「水無瀬、澪です」


環は小さく頷いただけで、それ以上、名前について触れなかった。彼女は澪の少し先を歩きながら、時折立ち止まっては周囲を確かめていた。


「ここ、来たことがある人みたいな歩き方ですね」


澪が思わず言うと、環は肩をすくめた。


「初めてだよ。ただ、油断してる方から先に消えるってのは、別にこのゲームに限った話じゃないから」


その言い方に、澪は何かを感じ取った。


環はきっと、Nirvana以前からずっと、こうやって「油断しないこと」で自分を守ってきたのだろう。


「あんたは、どうしてここに来たわけ?」


環が唐突に尋ねた。澪はすぐには答えられなかった。


「……分からなくなりました。今は」


嘘ではなかった。ここに来た理由は分かっていたはずなのに、目の前に「生きている」という感覚が急に押し寄せてきて、澪自身、少し戸惑っていた。


環はそれ以上追及しなかった。ただ、「そう」とだけ言って、また前を向いた。


――――――――


三十分ほど歩いたところで、開けた場所に出た。


崩れかけた石造りの建物の跡らしきものがあり、そこに数人の人影があった。


「あ、また増えた」


そう声をかけてきたのは、人懐っこい笑顔の少女だった。


「陽っていいます。遠野陽。よろしく」


環とは対照的に、初対面の緊張をまるで感じさせない口調だった。人懐っこいというより、他人との距離の詰め方を自然に知っている、という印象だった。


「あたしは小春。柚木小春。……こんな状況だけど、よろしくね」


小柄な少女が、少し無理をしたような笑顔で会釈した。その笑顔の下に隠れている不安を、澪は何となく感じ取った。似たものを、自分も抱えているからかもしれない。


四人でいることに特別な意味があったわけではない。ただ、近くにいた者同士が自然と身を寄せ合っていただけだった。


それでも澪にとっては、これまでの人生でほとんど経験のない距離感だった。


「みんな、なんでここに来たか、聞いてもいい?」


小春が、誰にともなく尋ねた。


陽が軽く笑って答える。


「あたしは家族に、ちゃんと生きてるって証明したくて。単純でしょ?」


環は答えなかった。小春も、それ以上は聞かなかった。


「澪ちゃんは?」


急に自分に話が振られ、澪は言葉に詰まった。


「……消えても、誰も困らないと思って」


沈黙が流れた。


だが、それは澪が想像していたような気まずい沈黙ではなかった。


陽が小さく「うん」と頷き、小春が澪の肩に軽く触れた。


「それ、分かる気がする」


小春の声は静かだった。


誰かに否定されるでも、慰められるでもなく、ただ「分かる」とだけ言われたことに、澪は不意に喉の奥が熱くなるのを感じた。


――誰かの近くにいても、透明にならない。


その感覚に、澪はまだ戸惑っていた。


――――――――


四人はしばらく、崩れた建物の陰で身を寄せ合いながら過ごした。誰からともなく、他愛のない話が始まった。


小春は、元々イラストを描くのが好きだったこと。


陽は昔、部活で怪我をして以来、身体を動かすことに妙な執着があること。


環はそれについて何も語らなかったが、他の三人が話す間、意外なほど静かに耳を傾けていた。


「環は、話さないの?」


陽が軽く聞くと、環は少し間を置いてから答えた。


「別に。話したところで、変わらないし」


「そっか」


陽はそれ以上踏み込まなかった。


その距離感に、澪は少しほっとした。誰かに無理やり心を開かせようとしない優しさが、そこにはあった。


不意に、小春が空を見上げた。


「……この空、なんか変だよね。ずっと同じ明るさで」


「多分、時間を感じさせないようにしてるんじゃない。逃げ場がないって思わせるために」


環が呟くように言った。


誰も、それに反論しなかった。


崩れた建物の周囲を見渡すと、石畳の隙間から伸びる名も知らない蔓草、朽ちた木の柵、そして遠くに霞んで見える、これよりも深い森の輪郭があった。


ここが「安全地帯」なのかどうかすら、誰にも分からなかった。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第2話では、澪がNirvanaの世界で環、陽、小春と出会います。

まだ何が起こるのか分からない世界の中で、少しずつ四人の関係も描いていけたらと思います。

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