補題
現在、中沢新一氏の「レンマ学」という本を読んでいる。これは、中沢さんの集大成と言っても良いものだろう。思い返せば、ポストモダンの旗手として、オウム事件や色々なとばっちりを受けてきた彼であるが、見事に、ゴール地点を見つけたことになる。
レンマとは、ロゴスに対する言葉であり、ロゴスとは、西洋的な論理と言っても良いだろう。それに対して、レンマとは、補題や前提という意味であり、ジレンマ、トリレンマ、テトラレンマ、これらは、みな類語であるが、この場合は、直感的にものを包括する能力と言った意味である。
これは、カントの言っていた、「物自体」にアプローチしてしまう能力と言っても良いだろう。西洋哲学では、物自体にはアプローチできない。それを現れるものとして、目で見るか、頭で想像するしかない。それを現象学というが、レンマは、一気にそれを把握してしまうのである。
我々のいわゆる「自分探し」とか「私」とか言うものも、全て西洋的な誤謬の上に成り立っている。私の個性とか、そういうものも、皆、仏教では我執として、遠のけられてしまうのはそこにあるのだ。そして、現在、自分探しや自己実現という到底無理な概念に、頭をやられている大馬鹿者達が溢れてしまっている。
日本人や、東洋人はとっくの昔に、自分探しなどというくだらぬ陳腐な自己欺瞞を、喝破していたのであるが、西洋かぶれになって人々は、愚鈍化したのであった。まさに、南無阿弥陀というところであるが、かように、仏教は、自己を相対化し得ている。それは空海が日本にいた頃から、そうであり、空海がどうして密教をすぐ吸収できたのかも、もともと日本には知的な土台があって、それが華厳学なのであった。
中沢新一氏は、華厳経とレンマの関係性を力説している。華厳経というものは、自己を通さずにして、あらゆるものを認知するレンマへと通じる教義である。それは、もはや量子力学にも近い考え方である。
奇しくも、安藤礼二という文芸評論家が、彼のライフワークの頂点として、「空海」という書物を書かれている。そこでも日本最高の知性の空海のことが記されていることだろう。次章は、私の友人の学僧である、会田鉄男氏とのア・カップ・オブ・ティーのお話である。次章を読み終える頃には、あなたは、真の悟りに近づいてしまっているかもしれない。私はあなた方にこう言いたい。
「覚醒しても知らないよ!」




