第20話『判決の双皿』
【5:10】
「おい、な、何が起こったんだ……!梯宮ッ!梯宮ッ!聞こえているなら返事をし——」
真白が繰り返し叫び続けていた、その時。
ふいに頬へ何かが触れた。
舞台装置でも、罠や仕掛けの類ではない。
それは確かに体温を帯びた、"何者かの手"。
視界を奪われた真白の思考が、一瞬完全に停止する。
「……いるのか?」
真白は思わず息を呑み、問いかける。
「そ、そこにいるのか……梯宮……?」
「忍不 様は、もういませんよ」
恐ろしいほど静かな声だった。
さっきまでの罵詈雑言の限りを尽くす彼女とは、まるで違う。
かといって、初めて出会った時のような、怯えきった声でもない。まるで別人。
いやむしろ、これこそが本来の彼女なのか。
「忍不様は――」
その声の主は、真白の頬に手を当てたまま淡々と告げる。
「たった今、私がこの手で殺しました」
「なっ……!?」
真白は反射的に頬の手を払いのけると、そのまま下がり構えを取る。
「貴殿は……何者だ。罪深殿ではないな」
「私ですか?さぁて。"今の私は一体誰"なんでしょうね。もう分かんなくなっちゃいました」
「……なんだと?」
「でも、これでいいんです」
声の主は、ひどく穏やかな声音で続ける。
「晴れて私、自由の身になりましたので」
「それは、どういう意味だ」
「どうって、そのままの意味ですよ」
罪深は、どこか楽しそうに笑ってみせた。
「もう、私を縛る忍不様はいなくなりました。監禁生活はおしまいです。五時に起きて掃除を命じられることも、洗濯も、料理も、食事の味に文句をつけられることも、理不尽に罵倒されることも、床に頭を押しつけられることも、踏みつけられることも、道具みたいに身体を弄ばれることも、泣いたらうるさいって殴られることも、笑ったら気持ち悪いって蹴られることも、痛いって言ったらもっと痛くされることも、もう、なーんにもないんです」
口調こそ笑っているものの、その言葉の裏には、ずっと胸の奥に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出しているかのようだった。
ひとつ吐き出しても、まだ足りない。
ふたつ並べても、まだ終わらない。
次から次へと零れ落ちるその言葉の数だけ、彼女がこれまで何を強いられ、何を奪われ、どれほど自分を削って生きてきたのかが、否応なく伝わってくる。
「もう自分自身を分割して、痛みをなすりつけ合う必要もなくなりました。怖い私も、泣く私も、怒る私も、怯える私も、全部バラバラにして、みんなで分け合う必要はないんです」
「……私には、その言葉の真意までは分からない。だが、貴殿がこれまで、常人には想像もつかない苦痛の中で生きてきたことは理解した。今の私は警官ではないし、ここも取調室ではないからな。貴殿の過去を、無遠慮に掘り返すつもりも毛頭ない」
真白は構えを解かぬまま静かに告げる。
「だが、一つだけ教えてくれ。貴殿は——棺桶の中に閉じ込められていたはずではなかったのか?」
「あー、そのことですか。ふふっ、簡単な話ですよ。私は最初から――棺桶になんて入ってません」
「なんだと?そ、そんなはずはない!棺桶には確かに重量があった。それこそ人一人分の重さは確実にあったはずだ!」
「誰が、棺桶には“何も入っていない”なんて言いました?」
「……なに?」
彼女は真白の反応を楽しんでいるかのように、くすりと笑ってみせる。そして、子供が数え歌でも口ずさむような調子で、奇妙な歌を歌い始めた。
クチナシ ドブネコサン
くろいおはこで ねんねして
にゃあともなけずに どぼんどぼん
ドロドロサンサン とけちゃった
「まさか……鼠面が"ドブネコ共"と呼んでいた、あの猫の面をつけた人間を、貴殿は身代わりにしたというのか」
「私はやめなよって言ったんですよ?でも、妬深と嫉深の双子ちゃんは、いたずらっ子なんです」
「何を訳の分からないことを言っている!」
真白の声に、明確な怒気が宿る。
「これは……完全なルール違反だ。それ以前に、人として看過できる問題ではない。貴殿は身代わりとして、見ず知らずの人間を間接的に殺したのだぞ!」
「あーもう怒鳴らないでくださいよ、耳がキンキンします。それに、結果としては良かったじゃないですか」
「良かった、だと?」
「もし私が素直に棺桶の中に入っていたら、今頃真白さんは一人ぼっち。そんな状態でどうやって、この先を進んで行くんですか?」
「……失望したぞ。私は、貴殿のような下衆と共に生き延びるくらいなら、このまま時間切れで死ぬことに何の悔いもない」
その言葉に、迷いはなかった。
見せかけの正義を振りかざしたいわけでもない。
ただ、一人の人間として、彼女のしたことは到底看過できるものではなかった。
なんなら、ここにきて初めて、真白は梯宮にすらわずかな同情を覚える。この第三試練は、全員が一心同体となり、互いの命を預け合って進むものだった。
少なくとも、そういう建前の上に成り立っていたはずだった。
だが、実際は違う。彼女だけは、最初から安全圏にいたのだ。
棺桶の中で命を懸けていたのは、彼女ではない。
身代わりにされた、別の誰かだった。
たとえそれが、鼠面に“ドブネコ共”と呼ばれていた運営側の人間だったとしても。たとえ彼らが、これまで参加者を苦しめてきた側の人間だったとしても。
だからといって、他人の命を道具のように扱っていい理由にはならない。命を助かるための駒として使い潰し、その結果を当然のように受け入れる。
その性根の部分が。
真白には、どうしても許せなかった。
「いいんですか?このまま、何も知らないまま死んでも。本当に」
「………」
真白は答えない。
もはや彼女とかわす言葉などない、そう思っていた。
「——伊佐木 蓮也さん。彼を殺した"BO9"について、真実を、知りたくはないんですか」
「………ッ!!」
だが、その名が出た瞬間。
拒絶しかけていた思考が。
真白の中で、ナニカが大きく揺れ動いた。
【3:02】
【3:01】
【3:00】
✳︎ ✳︎ ✳︎
side:A(烈々子×百千切×瑠璃)
【5:13】
「いっぱい時間を使っちゃいましたけど、何とかなりましたね! 首が寝違えたみたいに痛いですケド……これも"名誉の負傷"というやつですね!」
烈々子は、うつ伏せの姿勢からどうにか立ち上がると、苦笑しながら首筋をさすった。
「ああ、これくらいなら安い物さ。瑠璃ちゃんのお陰だよ」
「いえ、私はお二人に運んでもらっているだけの立場なので」
そう言いながら、瑠璃は棺桶の内側から慎重に周囲を確認した。
背後では、たった今突破した断罪の棘槌が、相変わらず重たい音を立てて揺れている。
巨大な針付きの鉄槌が、振り子のように進行通路を塞ぐ今回の仕掛け。
一人で走り抜けるだけなら、そこまで難しいものではない。
だが、棺桶を運びながら三人一組で通過するとなれば話は別だ。
運搬役は視界を奪われ、指示役は棺桶の中。
棺桶の重みで素早く動くこともできず、振り下ろされる鉄槌を避ける余裕などほとんどない。
まともに挑めば、間違いなく難関となる地点だった。
しかし、棺桶の中から冷静に様子を観察していた瑠璃は、目の前である違和感に気がつく。
あれほど巨大な棘槌が振るわれているにもかかわらず、足場そのものにはまったく傷がついていないことに。
つまり棘槌の殺傷範囲は、足場スレスレまでは届いていない。
立ったまま通れば、必ず誰かが直撃。
けれど、棺桶を足場に寝かせ、身体を限界まで低くすれば、鉄槌は頭上すれすれを通り過ぎる。
その抜け穴を利用し、瑠璃たちは棺桶を持ち上げるのではなく、
烈々子と百千切は匍匐前進に近い姿勢を取り、棺桶を少しずつ押し進めていったのだ。
一見すれば、あまりにも単純な攻略法だが。
極限状態の中では、その単純さに気づくことが何より難しいものだったりする。
棺桶には取っ手がついていること。
運搬役という名称も、当然のように「持ち上げて運ぶ」ことを連想させる。
その先入観こそが、他の二チームには気付けなかった盲点だった。結果として、チームAは時間こそ大幅に消費したものの、誰一人傷を負うことなく、第二関門を突破することに成功したのだった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「出口が見えました。恐らく、次が最後の仕掛けです」
「本当に?やった!」
烈々子は、思わず声を弾ませる。
「安心するのはまだ早いです。最後まで気を抜かずに進みましょう」
「イエッサーッ!」
明らかに呼吸を乱し、疲弊しきった様子の百千切とは対照的に、烈々子にはまだまだ活力が漲っているようだった。
見た目や言動の軽さに反して、彼女は意外にも強靭だ。いやはや、さすがはアイドルというべきか。
普段から歌って踊り、愛想を振りまき、時には理不尽なファンサービスまで求められる職業だ。一般人よりも体力と精神力が鍛えられていても、何ら不思議ではない。
そんな烈々子の返事に背中を押されるように、私は改めて前方へ意識を集中させる。
視界の先にあったのは、私たちの背丈をはるかに超える巨大な天秤。左右には大きな皿が一つずつ。
片方には、等身大のマネキンが乗せられている。
現状、天秤はその役割通りマネキン側へ大きく傾いており、背後には恐らく出口と思われる一枚の扉が見える。
扉の上には『GOAL』の文字が、一昔前のギラギラしたネオン看板のように光っていた。
あいも変わらず悪趣味だという感想は、ひとまず飲み込んでおく。少なくとも、あそこが出口であることは間違いなさそうだった。問題は、その扉が堅牢な鉄製の閂でがっちりと封じられていること。
遠目に見ても分かる。
あれは力任せにどうにかできる類のものではない。
つまり、扉を強引にこじ開けるという選択肢は最初からないとすると、やるべきことは一つ。
目の前にある、この巨大な天秤の仕掛けを正確に解き明かすこと。
「お二人とも、疲れているところ申し訳ありません。あと少しだけお願いします」
私はスピーカー越しにそう告げる。
「私が指定する場所まで、この棺桶を運んでもらえますか?」
「イエッサーッ!」
「分かった。どこへ運べばいいかな?」
幸いにも、二人は小言一つこぼすことなく応じてくれた。
棺桶の内側から、巨大な天秤の周囲を慎重に見渡す。
皿の形状、床との距離、周囲に仕掛けらしきものは……見当たらない。限られた視界の中で確認できる情報を拾い集めながら、二人に細かく進行方向を伝えていく。
「もう少し右……はい、そのまま真っ直ぐ六歩ほど……はい、後少しです」
私を乗せた棺桶は、ぎしり、ぎしりと重たい音を立てながら、巨大な天秤の皿の前まで運ばれていった。
「ここです。ここに棺桶を乗せる台座がありますので、烈々子さんの方を持ち上げて……はい、バッチリです」
「そーっとね。そーっと……」
「万が一、何か異変が起こった場合はすぐに指示しますので。その時は、いつでも持ち上げられるよう準備しておいてください」
「了解。何もないのが一番だけどね」
二人は息を合わせて、私の指示通り天秤の皿の上へ棺桶をゆっくりと乗せる。
——ガコンッ。
「……?今、なんか音がしましたね」
烈々子が呟いた直後。
棺桶の重みで、巨大な天秤の皿がゆっくりと沈んでいく。
同時に、反対側の皿が持ち上がり、金属の支柱がぎしぎしと音を立てた。やがて、揺れていた左右の天秤の高さがぴたりと揃うと、扉を塞いでいた鉄製の閂が、低い駆動音とともにあっさりと引っ込んでいく。
そして――。
軋む音を立てながら、正面の扉がわずかに開いた。
「開いた……開きました……!」
「やったっ!これでこの変なゴーグルともおさらばですねっ!」
烈々子の声が明るく弾む。
だが、足りない。これではまだ最適解とは言い難い。
「扉が開く条件は判明しました。一度、棺桶を下ろしてもらえますか」
【3:19】
私の指示通り、二人は慎重に棺桶を天秤の皿から下ろした。
直後、巨大な天秤がぎしりと音を立てる。
均衡を失った皿は再び傾き、反対側がゆっくりと持ち上がっていく。同時に正面扉には、再び鉄製の閂が差し込まれた。瞬く間に元通り。
さっきまで開いていたはずの扉は、何事もなかったかのように、再び固く閉ざされてしまった。
扉までの距離は、およそ十メートル。
対して、扉が閉じるまでの猶予は一秒にも満たない。
全力で駆けたところで、常人の走力ではまず間に合わないだろう。
扉を開く鍵は天秤の均衡。
問題は、その均衡をどう維持するか。
単純に考えれば、天秤の上に最低一人は置き去りにする必要がある。いや、果たして本当にそうだろうか。
もしそれが唯一の解法なら、ここに辿り着いた時点で人数が一人しか残っていなかった場合、この試練はその瞬間に詰む事が確定する。
でも、そんなひねりのないトリックをここの運営がするとは思えない。あくまでそれは正攻法というだけであって、定石であって最善手ではない。
他にあるはず。
全員を生かす事のできる別の方法が。
考えろ。
私がまだ拾いきれていない、別の手掛かりを。
考えるんだ、私。




