第19話『キュウソネコカミ』
「ハァハァ……何者、だ……オマエ、罪深じゃないな」
梯宮は痛みに顔を歪めながら、それでもどうにか膝を立て、ふらつく身体を持ち上げた。
マイクスピーカー越しに響くその声は、梯宮のよく知るかつての罪深のものではない。怯え従い、縋るように忍不様と呼んでいた面影は、もはや微塵も残されていなかった。
「何者かなんて、アンタが一番よく知ってんだろ。それよりどうだ痛ぇだろ?少しは理解したか?他人の痛みってやつを」
その口調は不気味なほどに冷静だった。
だが奥底には、長い時間をかけて煮詰めに煮詰められ、ドロドロに濁りきった底知れぬ憎悪の色が滲んでいる。
「まぁこれでも?罪深がアンタにされてきた数々の仕打ちに比べりゃ、腕の一本や二本じゃあ到底釣り銭にもなりゃしねぇけどなぁ!?忍不お嬢様よォ!!」
「ぐっ……!!」
「ウチはずっと伺ってた。臆病な忍不お嬢様のことだからな、普段はアンタの兄貴共が邪魔なせいで、好機がなかったが……やっと訪れたんだよ、絶好の復讐機会がなぁ!」
「……裏切り者がッ!!どこに雇われた?"BO9"か?それともあの、イかれたカルト連中か!?」
「クックック……とことん哀れなお嬢様だな。四大派閥は関係ねぇよ。これはウチらの、ただの私怨だ。勘違いしてんじゃねぇ」
その言葉に、梯宮は奥歯をぎりりと噛み締めた。
口内に、鉄錆びた血の味がじわりと広がる。
飼い慣らしていたはずの所有物から、予想外の反逆。
"窮鼠猫を噛む"とは、まさにこのこと。
彼女にとってそれは、恩を仇で返されたという強い怒りであると同時に、信頼と呼んでいたものが音を立てて崩れていく喪失でもあった。
身寄りのなかった罪深を拾い傍に置いた。
家族以外を信頼してこなかった自分が、唯一、存在を許容してやった相手。
その相手から向けられた、初めての明確な"敵意"。
それは刃物で斬りつけられるよりも、銃弾で撃ち抜かれるよりも、梯宮の内側に深く、抜けない棘のように突き刺さっていた。
「二人共、少しいいか」
沈黙を破ったのは、意外にも第三者であるはずの真白だった。
「……あ?」
「その話、私にも詳しく聞かせてもらおう」
「あ? 雌刑事には関係な――」
「いや、大いにある」
遮るように告げた真白の口調は、真剣そのものだった。
普段のような冷静さは残しつつも、その声色にはわずかな動揺と焦りが感じられる。
「思い出したのだ。私のかつての恋人――伊佐木 蓮也は、"BO9"に"殺された"」
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【7:20】
「フッ……可哀想に。あんな野蛮な連中に目をつけられるなんて、アンタの男も大概馬鹿ね。っていうか、アンタも見る目がなかったんじゃない?」
梯宮は、口の端を歪めながら意地悪く言い放った。
「私のことはどう思ってもらっても構わない。だが、それ以上故人を愚弄するのであれば――手負いだろうが容赦はしない」
「女警部如きが、梯宮一族の長女である私に勝てるとでも思ってるの?いいじゃない、ズタズタに引き裂いて締め殺してあげる」
「おいおい、お二人さん。視界も音も封じられてる状況で、どうやってやるつもりなん――」
罪深が呆れ半分にそう呟いた、その時だった。
不意に、梯宮の身体がぎゅるりと不自然にしなる。
まるで全身の関節が、一瞬だけ別の生き物にすげ替わったかのように、彼女の重心が沈むと同時に、梯宮は地面を力強く蹴りだした。
視界は奪われている。外部の音も一切届かない。
にもかかわらず、その動きに一切の迷いはなく、まるで真白の位置を正確に把握しているかのように、梯宮は黒い棺を踏み台に、高く跳躍した。
「な――」
狙いは、細く白い彼女の首筋。
「死ねッ!」
振り下ろされた左手が、獣の鉤爪のように空気を裂く。
メキメキメキメキメキ……ッ!!
だが、真白は寸前で反応していた。
急所を狙われていると悟ったのだろう。両腕を交差させ、頭部から首元にかけてを庇うように身を固める。
だが、それでも衝撃は殺しきれなかった。
受け止めたはずの腕には、骨の奥まで響くような、鈍い痛みが走った。
「ぐぅ……っ!」
次の瞬間、真白の身体が背後へ弾き飛ばされる。
ゆとりのない足場の上で、靴底が激しく擦れた。
踏み外せば、その下には混酸の奈落。
わずかでもバランスを崩せば、一巻の終わり。
それでも真白は歯を食いしばり、かろうじて体勢を立て直した。
「嘘だろ……なんで分かるんだよ……目も見えねぇ!音も聞こえてねぇはずだろ……!?」
その異様な光景に、罪深は思わず動揺した様子で叫ぶ。
「凡人には分からないでしょうけど」
梯宮は振り下ろした左腕をゆっくりと下ろすと、いたって涼しげな声で呟く。
「五感を奪われた状態での戦闘なんて、私は"五歳"の頃から叩き込まれてる。視界が使えていた時点で、この舞台のおおよその地形は把握済み。足場の幅、棺桶のサイズ、先ほどまで歩いた歩数——そんなもの、全部とっくに頭に入ってるの」
言いながら、梯宮は再び構えを取り直した。
右腕の一部を失ってもなお、彼女の戦意はまるで削がれていなかった。重心を深く沈め、残された左腕をだらりと前へ垂らす。
その姿は、獲物へ飛びかかる寸前の女豹を想起させた。
美しく、しなやかでかつ、獰猛。
それは武道でも格闘技でもない。
梯宮一族の血と訓練によって培った、彼女独自の臨戦体勢。
「これで分かったかしら。最初からオマエの指示なんて私には必要ないの」
「ッ……人間じゃねぇ……!」
つい先ほどまでは、梯宮を追い詰めていたはずだった。
棺桶の中から一方的に状況を把握し、視覚と聴覚を封じられた彼女は罪深の指示に従わざるを得ない。
だが、現実は違った。
ほんの一瞬でひっくり返された。
あまりにも簡単に。
あまりにも理不尽に。
しかし、それは決して不思議なことではない。
“梯宮 忍不”という女を。
いや、梯宮一族という存在を少しでも甘く見た者に訪れる、当然と言えば当然の結末だった。
梯宮一族。
それは、日本の裏社会において、知らぬ者はいない殺人請負の一族である。
その起源は今からおよそ三百年前、1720年頃まで遡るとされており、元々は江戸幕府に仕えていた御庭番衆の流れを汲む一族だった。表向きには諜報や監視、護衛の任を担っていたが、その実態は幕府にとって不都合な人物を密かに処理するための、極めて実戦的な暗殺集団だったとされる。
大政奉還を機に幕府という後ろ盾を失った梯宮家は、時代の変化に合わせて独立組織と姿を変え、以降は政治家、財界人、華族、軍関係者、企業重役など、表社会の権力者たちから極秘の依頼を受け、裏の世界でめきめきと頭角を現していった。
現在の表向きの家業は——梯宮探偵事務所。
浮気調査、失踪人捜索、企業調査、身辺警護などを請け負う一般的な探偵事務所として営業しているが、それはあくまで表の顔に過ぎない。裏の仕事では、殺人、偽装、情報回収、標的の身辺調査などを一括して請け負う。
最大の特徴は、四大派閥の中で唯一、血縁者のみで構成されていること。外部の人間を正式な構成員として迎え入れることはなく、血の繋がりこそが絶対の信頼証明とされている。
そのため構成人数はわずか九人。
しかし、その九人全員が各分野の専門家であり、この戦闘力においては、四大派閥随一とされている。
撲殺を得意とする者。
絞殺を得意とする者。
毒殺を得意とする者。
刺殺を得意とする者。
銃殺を得意とする者など。
依頼料は裏社会でも有名なほど高額とされているが、達成率は98%以上とされ、一度正式に依頼を受ければ、標的がどこへ逃げようと必ず追い詰める。
裏社会での評価は、職人気質の殺人一族。
派手さはないが、言われた仕事はキッチリ最後までこなす。
個々の戦闘能力においては、四大派閥の中でも随一とされる。
そして現在、その一族を束ねているのが、忍不の長兄にあたる梯宮 雅扇。
忍不には、雅扇以外にも三人の兄がおり、その誰もが裏の世界では名を聞くだけで恐れられる存在だった。
そんな一族の中で、唯一の女として生まれ育ち、幼い頃からありとあらゆる殺人術を叩き込まれてきた、殺し屋としての純血種
それが——"梯宮 忍不"である。
だからこそ、視覚を奪われようが。
聴覚を封じられようが。
片腕を潰されようが。
彼女は今も、そこに立っている。
「だから——オマエはもう用済みなのよ」
次の瞬間。
梯宮は、罪深の入った黒い棺桶を思い切り蹴り上げた。
人一人入った棺桶があっさりと浮く。
「ばいばい」
「あ、」
罪深の声は、そこで途切れた。
黒い棺桶が、足場の外へ滑り落ちる。
一瞬だけ宙に投げ出されるように浮かび――そのまま、奈落へ消えていった。
……どぼん。
遅れて、底の方から音が返ってきた。
だぷ、だぷ、だぷ。
重たい何かが、ゆっくりと時間をかけて沈んでいく音。
粘ついた液体が、棺桶の角を舐め、隙間へ染み込みゆっくりと奥へ引きずり込んでいくような音。
どぷ。
どぷ。
どぷ。
まるで奈落の底に、巨大な口があるみたいだった。
落ちてきたものを噛み砕くでもなく、吐き出すでもなく。
ただ、舌の上で転がすように。
ゆっくりと。
しつこく。
ねちっこく。
棺を底なしの喉奥へと、送り込んでいく。
どぷり。
それきり、何も聞こえなくなった。
「フッフッフッ……フッ、フッ……アーハッハッハッハッハッ!!」
静寂を切り裂くように、梯宮の哄笑が響き渡る。
「この私に!梯宮に楯突くからこうなるのよッ!地獄で自らの過ちを一生呪って、惨めに悔いるがいいわッ!!」
「おい、おい!」
真白には、この一瞬で何が起きたのかまるで理解できなかった。
分かるのは、罪深の声が突然途切れたことだけ。
「梯宮!一体何をしたのだ!状況は今どうなっている!?」
そんな彼女の叫びなど、梯宮はまるで気にも留めず。
小さく息を整えると、何かを思い出したように指を折る。
その仕草は、人を殺めた直後のものとは思えないほど淡々としていた。
まるで、買い物リストに印をつけるように。
帳簿の端に、小さな記録をひとつ書き足すように。
彼女にとっては、たったそれだけのこと。
そんな異様な無機質さが、彼女の横顔には滲んでいた。
「これで八十七人目……っと」
梯宮は満足げに微笑み、誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟いた。
地這滑 罪深 (20)
ギフト: 二律背反
-GAME OVER-
死因:混酸槽への落下による全身破砕および腐食
「……って、何勝手に殺してんだっつーーーの」
「……は?」
梯宮は、思わず喉から間の抜けた声が漏れる。
あり得ない。
そんなことが、あり得ていいはずがない。
だって、その声の主はもう――この世に存在しないはずなのだから。
自分が落とした。
黒い棺桶ごと、奈落の底へ叩き落とした。
混酸の海へ沈み、骨も肉も、声帯さえも溶け崩れ、二度と浮かび上がってくるはずがない。
それなのに。
「あーあ。予定がメッチャクチャじゃねぇか、どうしてくれんだ」
「ど、どういうこと……?」
梯宮の口元が引きつる。
「罪深……オマエは、私が今さっき落としたはず……」
「…やっぱウチがいねぇと何も分かってねぇじゃねぇか。どこまでも憐れなお嬢様だ」
「何よこれッ!気色が悪いッ!吐き気がするわッ!!出てこい罪深!!どこにいる!!今すぐこの手で八つ裂きにしてや——」
「アンタの目の前だよ」
ドンッ——。
それは突き飛ばされた、というより。
身体の中心を杭で撃ち抜かれたような衝撃だった。
「――っ、あ」
平衡感覚がぐちゃぐちゃになる。
前も後ろも、右も左も分からない。
まるで自分の身体が、自分のものではなくなったみたいに。
宙へ放り出された梯宮は、ただなすすべもなく流されていく。
そして、そんな彼女を待ち受けていたのは。
ごぅごぅと、空気を裂くように唸りをあげる、巨大な棘槌。
「あ゛っ――」
鉄塊が、彼女の身体を横殴りに捉える。
ぐしゃり。
骨か肉か、それとも服の下の別の何かか。
何が壊れた音なのか、自分でも分からなかった。
身体の芯を通っていたはずの一本の線が、曲がってはいけない方向に折り曲げられたような感覚。
華奢な身体は棘槌に弾かれ、まるで紙くずのように宙へ舞う。
だが、幸か不幸か。
あれほどの衝撃を受けたにもかかわらず、彼女の意識は妙にはっきりしていた。
だからこそ、聞こえた。
いや、残酷なほどに鮮明に、聞こえてしまった。
「お世話になりました、"忍不様"」
最後に聞こえたその言葉は、彼女がよく知る、本来の罪深そのものの声。
かつての従者が、かつての主へ贈る、最後の挨拶。
そこに怒りはなかった。
恨みもなかった。
勝ち誇る響きさえない。
ただ、役目を終えた者が静かに幕を下ろすような、冷たく澄んだ決別の意が宿っていた。
そして、梯宮の身体は足場の外へ投げ出される。
重力だけが無慈悲に彼女へ寄り添って、そのまま奈落の底へと、真っ逆さまに引きずり落としていった。
梯宮 忍不 (25)
ギフト:加虐女帝
-GAME OVER-
死因:棘槌による多発裂創および全身打撲、心肺停止




