第三章:のりこの歌、届かなかった指先
のりことの距離は、縮まれば縮まるほど、僕を臆病にさせた。
彼女は、特別美人というわけではないが、少し目の離れたキュートな笑顔に惹かれた。
彼女は両親と不仲で、店の近くの古びたアパートで、祖母とひっそりと暮らしていた。
夜のスナックで大人の女たちの色香に溺れ、気が付かれない範囲で遊び歩いていた僕だが、のりこの前では、ディマジオを着た自分を恥じた。彼女のアパートで、同じベッドに横たわり、すぐ隣で寝ている祖母の微かな寝息を聞きながら過ごす夜。僕は彼女の肩に手を回すことすらできず、ただ天井を見つめていた。
「……寝た?」
暗闇の中で彼女が囁く。僕は何も答えず、ただ彼女の髪の匂いを嗅いでいた。年上好みの僕が、なぜこれほどまでに年下の彼女に、手を出すのを躊躇うのか。それは、彼女をこの「境界線」の内側へ引きずり込みたくないという、僕なりの、そして最後にして唯一の純潔だったのかもしれない。
後年、携帯電話なんてものがない時代が終わりを告げる頃、彼女から電話がかかってきた。
「今はカラオケの会社で、好きな歌を歌っているよ」
受話器から流れる彼女の声は、どこか遠い銀河からの通信のように響いた。守るべき現実と平和な幸せとは別だが魅力も感じるあの世界、だがまた踏み入れると幸福が、砂のようにこぼれ落ちていく感覚を、僕は背中に感じた。




