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194.嘘と欲

「それじゃあもしかして、この一年間で僕に変質が起きなかったのは……僕自身が自覚できるぼどの変化がなかったのは」


「ああ、代行者としての戦いをしてこなかったからだね。もっと有り体に言うなら苦戦・・をしなかったから、となるか。代行者きみの敵に見合う敵がいなかった。特典を受け取って以降力を求める必要が今日まではなかったのだから、そりゃあ成長もなければ変質もない。だから君は誤解してしまったんだな。何も起きていないのはつまり、変質にはそれだけ膨大な時間がかかるものだと」


「…………」


 何も言えなかった。まさにその通りだったからだ。


 代行者として生きていくことで僕が僕でなくなる。今こうして人のままでいたいと願う僕は、いなくなってしまう。そう黒天使から聞いて、恐れて、けれど一年経ってもなんの変化も、その兆しのようなものすら感じないからには、きっとそこまで怖がることではないのだと。少なくとも今この時をいつかの未来のために怯えて過ごすのは間違ったことだと前向きに思うようになった。


 僕には確かになんの変化もない。それは自己判断だけでなくシスからもお墨付きを頂いていることであり、ミーディアを始めとする周辺にいる誰からも何も言われていない。それが何より、僕が変わってない証明にもなっていた。


 だが、まだ変質が進んでいない。それは正しくとも「まだ」の部分には大いに錯誤があった。いや、自分の都合のいいように歪んだ認知の仕方をしていたようだ。


「黒の脅威とはそう易々とは撥ね退けられないからこそ意味がある。代行者である君が苦戦し、更なる力を欲するだけの試練であることにね。そうでなければ均衡を保つための一助とはならない……理解の早い君だからもはや言わずもがなだろうが、あえて言わせてもらおう。魔人たちとの再戦は君にとって『初めての代行者としての仕事』になる。これまでのことは一切その数に入らず、だからこそ君は良くも悪くも大して変わっていないわけだが、アフターゲームが始まってしまえばそうもいかない」


 イオとのゲームがそうだったように、戦いが始まったからといっていきなり雌雄を決するほどの総力戦にはならないだろうが──というか、そんな魔人側にとって「勝ち目のない」展開には白天使がしないだろうが、という注釈を合間に付け加えつつ黒天使は続けた。


「だが絶対ではない。それとなく流れに掉さすように導くことはあっても、それ以上のことはできない。俺や白天使にゲームのを動かす権利はないからだ。だからいきなりの決戦とはならずとも始まりからして大規模な衝突だったり、君はともかく君の仲間が絶体絶命の危機に陥ることは大いに起こり得る。そうなると君は否応なしに進化せざるを得ない……だってそうだろう、君の『個人的な使命』は仲間を守ることにある。人の社会や世界を守るのはその延長線上でしかないのだからそういう場面で君に他の選択はないし、できない。だね?」


「……はい」


「要するに今後は『必要に迫られる』ということだ。なんであれ人はそれによって成長するもの。なんの必要もなしに自発的に能力が伸びる方が珍しいんだからね。そこは人が人以外になっても変わらないのさ。延々と無意味な育ち方をするのは天然物・・・の特徴かな。顕著、というほどでもなく類型としてよく見られる程度だから、どちらかと言えばそうだとしておくのが正しいかもだが」


「はあ……」

「おっとすまない」


 僕の気のない返事から──わざとではなく精一杯に興味深そうなリアクションを取ろうとはした、したのだ──またしても話が明後日の方向へ飛ぼうとしていると気付いてくれたのだろう、黒天使は軽く首を振って。


「まとめると、だ。猶予は思っているほどにはない。君が君でいられる時間。君のままで戦っていられる期間。いったい『どれくらい』なのか? それは誰にもわからない。君自身は元より、俺にも、管理者たちにも。その時が来て初めてその時だと知ることになる。そして変化というものが往々にしてそうであるように、時が来てからでは遅いんだ。わかるね? ライネ君が人の営みを行うには変化の起きていない今。アフターゲームで変わってしまう前でないといけない」


 ……変わってしまえば人の営みにも興味を持てなくなる、か。僕は僕以外を「ただの人間」として区別するようになり、自分と同じだとは……対等だとは思わなくなる。増長だとか傲慢ではなく、「自分自身が守るべきものの内側にはいない」という白の守護者としての意識が、使命をより効率よく果たすために自ずと思考を切り替えさせるのだそうだ。これも黒天使が懇切丁寧に教えてくれたことである。


 今のところ僕は他の人をそういう風には見ていない。どころか、自分がそこまでの別物・・になっているという自覚症状もシス共々にまったくない。しかしそれは単にまだ代行者への変質が始まっていないから、だったのか。


 そして僕にとっての試練であるアフターゲームがいざ始まれば、いつ「その時」が来てもおかしくないと。来てしまえば僕はただ一時を境にして、がらりと変わってしまうかもしれない──そうなってからではもう手遅れだと、黒天使は言っている。


「そういえば代行者と人間との間にそもそも子どもはできるのかとも気にしていたね。どういう造りになっているのかは俺も把握していなかったから、そこも『何か』へ訊ねてみたが、問題ないそうだ。生殖機能はオミットされていない……が、それも「今のところ」の話だ。代行者へと完全に至った君がどうなるかまではよくわかっていない。代行者を設けるのは『何か』にとっても初のことだから当然と言えば当然だが、要はいずれ興味・関心がなくなるだけでなく性行為そのものができなくなるかもしれないわけだ。だが、少なくとも今はまだ君の体にも子をなす力が残っている。そしてそういうことへの興味も失っておらず、愛する妻までいるんだ。まさに千載一遇ってやつじゃないかい?」


「い──いや、ちょっと待ってくださいよ」


 ずいと迫ってくる黒天使の迫力に押されて思わず後退りしながら、僕は彼女がとある一点を無視していることを指摘する。


「そもそもで言うなら、僕とミーディアの気持ちの方がずっと大切ですよ。僕はミーディアと……その、子どもを作ろうなんて気はないです! ミーディアだってそれは同じですよ、そうでなくちゃおかしい」


 シスとの間でも似たような話題があがったばかりだというのに、なんでまたこんなよくわからない弁明をしなくてはならないのか。恥ずかしいやら悔しいやらで複雑な思いを抱きながら告げた言葉に、黒天使はこてりと人形のような仕草で首を傾げた。


「おかしい? 何がかな」

「だって、そういうことをするつもりがないからこそ結婚したはず……でしょう? もしも僕を、本当の意味での伴侶として迎えるつもりならさすがに、ミーディアでももっと悩むに違いないじゃないですか」

「ふむ……あくまでイクセスの姓のため。君との利害の一致のみが理由だから、彼女も迷わず君と夫婦になったのだと。夫婦間に他に『求めるもの』があるのならこうもあっさりと結婚なんてできなかっただろう、というのが君の主張か」


 合っている、という意味で何度か頷けば「ふう」と黒天使は息を零して。


「そういう見方・・も、確かにあるね。だがこうも考えられはするんじゃないか? たとえ互いに他の『求めるもの』があったとしても、ミーディア君に迷う余地はなかった。つまり君とならばそういうことをするのもやぶさかではないからこそ、迷わず結婚に踏み切ったのだ。というまったく逆の見方もこの場合には当てはまるし、俺としてはそちらの方がずっとミーディア・イクセスその人らしいと思うけどね。気風のいい彼女らしい選択だ、と」


「──、」


 ミーディアが、僕とそういうことを……男女の行いをすることを、嫌がっていない? だから結婚した? それは、本当なのだろうか。


 姓の共有のために夫婦になってはどうかと言い出したのはミーディアの方で、僕はそれにありがたく乗っかった形だ。イクセス姓を絶やさないためというミーディアの要望を叶えるために協力できるなら、という思いもあれど、それ以上に僕には……やはりいつ寿命が尽きるとも知れない、あとどれくらい話せるかもわからない彼女との間に、新たな繋がりを持てること。テイカーの先輩後輩以外の関係性ができることに、喜びがあったから。だから、事が事なだけに即答こそできなかったが翌日には「よろしくおねがいします」と返事をしたのだ。僕にしては相当に早い決断だったと思う。


 ただ関係を深くしただけではない。これから先、たとえミーディアがいなくなった後でも、僕はミーディアから託された苗字を名乗ることができる。彼女がいた思い出をより鮮明に感じ続けることができる。それはすごく特別なことだ。それだけで僕には充分過ぎた──嘘じゃない、本当にそう思っている。なのに黒天使はそれで満足するなと言う。


 満足した気になるなと詰め寄ってくる。


「そもそもで言うならば、だ。夫婦になっておきながら君たちの間に何もない方が不適切だろうに。色んな愛の形があることは認めよう、結婚後のプラトニックだって否定はしないとも。だが、見たところミーディア君にもライネ君にも歳相応の欲求はあるようだ。そして互いを憎からず想ってもいる。いや憎からずどころか、率直に表現させてもらうが『そういう目で見ている』。性の対象として意識している。これで指一本触れようとしないのはかえって不健全だよ」


「な、な……」


 なんてことを言うんだこの人は! 僕とミーディアがお互いを、なんて、そんなこと……ああいや、でも、否定しきれはしないのかな。ミーディアの場合、確かに黒天使の言う通り僕とのそういうことにも抵抗を覚えないから結婚したのだとする方が彼女らしい気はする。それに彼女は僕に、キスをしたのだ。あれだって好意を持つ相手にしかしないだろうし……問題はその好意がどの程度の大きさ、あるいは深さなのかという点だが。


 ──って、しっかりしろ僕! 黒天使に惑わされ過ぎている。いくら衝撃的な言葉を連続で投げかけられているからってこんなに動転してどうするというんだ。


 問題なのは推し量れないミーディアの気持ちではない。僕だ。僕にもわかる僕自身が「どういうつもり」でいるのかが一番の問題じゃないか。論点にできるのはそこだけであり、そしてそこだけでこの話は終わる。


 ひとつ深呼吸をして、僕は決意を固めて言い返す。


「先にも言ったように、僕にミーディアをどうこうするつもりはありません。僕も男だ、性欲がないとは言いませんよ。ミーディアは魅力的な女性だから『そういう気持ち』が湧かないとも、言いません。でもそれを彼女に向けて発散することはない。僕が彼女に対して抱いているのは純粋な尊敬の念です。結婚だって、性欲でしたものじゃありません。ただ彼女との繋がりが欲しいから、少しでも傍にいたいからしたんです。そこに嘘はない」

「いや、嘘だ」

「はっ?」


 決意をバッサリと切り捨てるその言葉に僕がたじろげば、また黒天使は近づいてくる。壁を背後にもう逃げられない僕へ、追い詰めた彼女は黒々とした瞳を間近に──まるで責め立てるように言い放つ。


「君が彼女に抱いているのは純粋な尊敬の念ではないよ。勿論、性欲だけでもない。もっと色々と絡みついている。中でも目立つのは、なのに君が気付いていないのは……独占欲」

「独占、欲」


「そうとも。だいたいね、いくら尊敬しているからってそれだけで夫婦になることを喜ぶやつなんているものか。その感情は先輩・後輩の域を超えているよ。君にはある。ミーディア君を一人の女性として見ている。魅力的な女性を我が物にしたこと。自分だけのものにできたこと。そういう男性的な欲求を満たせたことへの喜びが、確かにその胸の中にある。それは紛れもなくミーディア君に対する独占欲の発露だ──そしてそれは君に対して向けられているものでもある」


「えっ?」


「ミーディアも君に同じものを向けている。君という一人の男を独占できていることを、喜んでいる。これも間違いないよ──ほら、そう聞いてライネ君は嬉しくなっている。それが君の本音だよ」


「っ……!」


 嬉しいと、感じた。黒天使に言われるまでもなく僕自身、それがわかった。ということは、そうなのか。僕はミーディアにそういう欲求を抱いている。彼女との間に子どもが欲しいと思ってい──。


《──代わってください》


 と、声がした。僕の内から響いたそれは、ひどく冷ややかながらに燃えるような怒りを携えたものだった。



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