161.分岐
僕よりも少しだけ背の低い黒天使が手で掲げて見せる淡い光の球。魔術で作られる超常のそれとも明らかに違う、位階の異なる者がもたらした力の塊。黒天使が放つ異様な存在感と相まって、それを目にしている僕はただ立っているだけでも精一杯だった。そんな状態で今後の一切合切を左右する重要な決断を迫られているのだから、我ながら哀れな状況だと思う。
だが、圧に負けてくじけてしまいそうな心を、折れて投げやりになってしまいそうな気持ちをぐっと堪えて、どうにか「普段通りの自分」を保つ。ここで流されるように道を選んではいけない。選択権を与えられているのだから、自分の意思で。自分の決断で帰路に立つべきだ──深く息を吸い込み、そして吐き出す。少しだけすっきりした視界と思考で、僕は黒天使を真っ直ぐに見つめ返す。
「せっかくのアドバイスですけど……僕はあなたと違って、見たい景色だけで。好奇心だけで行き先を決めるつもりはありません」
「ほう? じゃあ何を決断の要点とするのかな」
「……贖罪のための第二の人生。僕もイオも前世の悔いがあるからこそ……取り戻せなかったはずのものを取り戻せる機会が、奇跡が貰えたからこそよくわからない『何か』や『誰か』に従って、よくわからないゲームのために殺し合いをしました」
「そうだね。そして君は勝者となった。神の試練を乗り越えた、とも言える。神の配下が生まれるベターだよ。つまり、その試練を以て君は贖罪を終えたとも取れる。これは罪と魂の同一性を前提にした形而上学に片足を突っ込んだ解釈の仕方だが、哲学に頼らずとも管理者にとっては当たり前の考え方なんだ。何が言いたいかというと、その観点からいくと君の贖罪は終わった。禊は済んだという話だ。前世の罪が今世の君に連続するものだとしてもその因果は君自身の手で払われた。つまりもう贖罪の意識に縛られる必要はないんじゃないか、と他人事としては思うんだけど」
その言葉に僕は思わず笑ってしまった。やはり僕の考えくらい彼女にはどこまでもお見通しであり、しかし読めているからといってそこに共感なんて少しもないのだとわかった。
パターンとしての思考は理解できても、その流れに宿る感情や願望というものまで黒天使が真に理解することは、きっとないのだろう。自身を養殖の管理者であると言った彼女は、だからこそ位階を上げてこられたのだ。だからこそもっと位階を上げるつもいでいるのだ──その思考を、彼女が持つ好奇心という欲求を理解することはできても、僕もまた共感なんてできない。
僕は僕のままがいい。罪の意識を持ったまま、あの日あの時の業を忘れたりなんてしないまま、これからも生きていきたい。
「言われた通りに世界を救いました。でも、だからって贖罪が終わったとどうして言えるんですか。罪は確かに僕にある。僕がそう感じている限り、因果は払われてなんていません。前世のことだろうとなかったことにはならない……僕はそう思います」
「それは翻って今世の君の行い、その功績も決してなくならないということで俺としてはやはりイーブンに思えるが。まあここでの主体は君だ、君の理解が全てというのも間違いではないだろう。世界の形や自他の区別とは結局のところ個人の認識だからね。君が贖罪を終えていないと言うのなら、終わっていないんだ。それはまだ地続きのこと……だとすると、君はどう生きる?」
「僕の生き方、それは」
ただの人になるか、人をやめるか。──なんて、悩むことではなかった。黒天使に色々と言われて、新事実をいくつも知らされて、変に頭がこんがらがっていたけれど。余計な枝葉を取り払って僕にとって大切な部分だけを残してみれば、問題は実にシンプル。今更どちらが自分の歩むべき道かなどと考える必要もないことだった。
そういう意味では、未知の探求という欲求それひとつ。シンプルの極みのような行動原理を黒天使が語ってくれたのは……茹る頭を冷やさせてくれたのは幸運だった。ともすれば彼女は僕を落ち着けてやるためにそれを意図的に行なったのかもしれないし、あるいはそんなつもりはまったくなくて、ぐるぐるしている思考へ助言という名のメスを入れて結論を急がせただけかもしれない。どちらも大いにあり得る。黒天使はそういう人物だと、なんとなくわかる。
しかしどちらにせよありがたい。おかげで僕の答えは決まった。心はちゃんと定まったのだから。
「人に戻って皆と同じ尺度で、同じ速度で生きていく。そうして人として死んでいく……魅力的だと思います。もしもそこにシスがいて、このゲームのせいで亡くなった人たちもいたなら、きっと僕はそっちを選んでいただろうと確信できるくらいに、とても素敵な未来だと」
「ふむ。そんな素敵な未来が、君には我慢ならないか」
「はい。前世もシスも捨てるみたいにして前へ進むなんて僕にはできません。人の死はなかったことにはできない。たとえ時間が経とうと世界が変わろうと忘れちゃいけない……僕だけはずっと背負っていかなくちゃいけない。それが『何か』に与えられたものじゃない、僕の本当の使命だと思うから。だから──特典を受け取ります」
「正式な代行者を拝命すると。そして人ならざるものになって、今の君が抱く志すらも時間の彼方へ消え去ってしまったとしても構わない。そう言うのかい」
「そうはならないと信じています。だって僕は、一人じゃないから」
ミーディアが、ガントレットが、アイナやモニカ、ユイゼンも──皆が皆、いつか僕を置いていってしまうとしても。今日守ったこの世界が明日終わる様を見届けなくてはならなくなったとしても。そこに至るまでにどれだけの辛いこと、悲しいことが待っていたとしても。
「同じ業を背負ってくれる、同じ未来を見てくれる相棒が一緒なら僕は。いつまでだって僕でいられる。使命のために戦える──」
少なくとも今はそう信じられる。想像もできないほど途方もない道程を、歩いていきたいと思える。思えている。ならばそれに殉じよう。黒天使の言うように、いつかこの決意の意味を忘れてしまう日が来たとしても。人を選ばなかったことを深く後悔する日が来たとしても……たとえそうなったとしても、今この瞬間。ここにいる僕が下す決断に関係はない。ここにある確かな気持ちに嘘はないのだ。
「出来る限りのことをしていきます。シスと二人で、大切な仲間のいるこの世界を……皆と出会わせてくれたこの糸を、末永く続かせるために」
そのために神の手足となる者が必要だというのなら、僕がなる。曲がりなりにも選ばれた身なのだからそれが最も綺麗な形だと思うし、何よりも……他の誰かに押し付けるには、少しこの使命は重過ぎる。
「ふふふ。素晴らしい。掛け値なしに素晴らしいな、ライネ君。空っぽで冷めきっていた君がこんなにも中身のある、こんなにも熱い男になるとは。やはり人の変化というものは面白い。いくら見ても見飽きない。なまじ自分がいわゆる変化や成長に乏しい人間であるために──いや、この場合の人間とは内面を持つ知的生物という定義だがね。特別に愉快だよ。そうかそうか、君の本質はそこにあったんだな。俺の人を見る目もなかなかどうしてよく出来ている! 『何か』の選出に口を挟まなかった過去の自分を褒めてやりたいくらいだ」
何を言われるかと思えば、黒天使は僕の選択を聞いてただただ面白そうに破顔している。納得している、と言った方が適切だろうか? 元を正せば行きずりでしかない彼女なので、これから立ち去ろうというこの世界で今後を僕がどう生きるかなどそれこそ興味本位でしか関心もないはずで……要するにどちらを選ぼうともどうだってよかっただろうに、けれど今の彼女は。
妙に満足そうに見えた。
「『何か』や『誰か』が僕とイオを選ぶにあたって、あなたは何も手を加えていない……ってことでいいんですよね」
「うん、確かだよ。だからこそ君を贔屓に見てしまったんだが。本当は良くないことだよ、俺は完全中立でなければならないのにね。だが『誰か』に比べたら『何か』はそう、少しばかり、自主性というものを履き違えている節があったものだからさ。まあなんやらかんやらと俺が手を加える意義もあったということだ。そう片付けておこう、どうせゲームが終わった今となっては今更なんだし」
で、と彼女は改めて僕の方へずいと手を寄せた──そこに乗せられた力の塊、神よりの「特典」を見せつけた。
「いいんだね? どちらを選んでも苦難は付き物と言ったものの、現状の君の尺度。人の視座から言えばよりキツいのは疑いようもなくこちらだよ。時間は最強だ、誰も打ち勝てない。それでいて信用もならないものだ。恒久を渡る身になるのは『養殖者』の最初にして最大の課題と言ってもいい。君は君の変質に耐えられないかもしれない、もしくは、無変質にこそ気が狂うかもしれない。少しでも平穏や悔やむ可能性の少なさを望むのなら絶対的に人のままがいい。そう聞いても君の決断は変わらないか? これを受け取る意思に揺らぎは生じないか。一度手に取ってしまえばもう後戻りはできないよ、それでもライネ君は──」
「ええ、僕は揺らがない。特典を謹んで頂戴します」
言って、光の球へと僕も手を伸ばす。彼女が差し出しているのと同じ右手で掴もうとしたが、指先はするりと通り抜けて球の中へと潜り込み……。
激震。
「……!!??}
触れた指から何かが全身を駆け巡る──じゃない、それどころじゃあない! もう僕は変わってしまったと。この一瞬にして劇的な変化に吞み込まれたのだと脳ではなく肉体そのもので理解する。だというのに、まだだ。ここまで大きく変わってもまだ変身は完了していない。完全となっていない。人と代行者とは、ここまで遠い存在なのか……!?
み、見える。見えなかったはずのモノが視える。聞こえなかった声が聴こえるし、感じられなかった流れが僕を中心に渦巻いているのを肌でキャッチできる。人の身の限界をとうに超えた知覚。果てなく引き伸ばされて、引き千切れかけたそれが、急速に引き戻されていく。僕という一個体の内部へと帰ってくる。
「世界は管理者の庭だ。代行者になるというのは世界と同一化するということでもある。不老だとか超常的感覚の強化だとかはつまりそれの副産物なんだな。だからこそ神なき後に残された代行者は哀れになる……ふ、俺が言えた義理ではないんだろうが」
黒天使が放つ言葉も鮮明だ。そして克明にその意味がわかる。彼女の言っていることは正しい、僕は今、まさに世界の一部になろうとしている──僕という存在でありながらもっと大きな何かの枠組みに取り込まれようとしている。これが、位階の上昇。存在の格を上げるということなのか。
最初に感じたのは恐怖だったが、すぐにそれもなくなった。変化への戸惑いも消えた。これが普通なんだと思えるようになった。特典によってそう思わされているのだと言えばそれまでのことだが、けれど、どうにか平常を保てたのは僕自身の覚悟も無関係じゃなかったはずだ。
僕はあくまでそう信じる。自分自身を信じること。信じ抜いて、強い自我を持ち続けること。それはこれまで以上にもっと重要になってくるに違いないから。
「うっ、く……」
最後に特大の眩暈。まるで世界そのものが撓み揺れ動いたかのような激しいそれに晒されて、ふらりと体勢が崩れかけたのをなんとか持ち堪える。ここで転倒するような無様は演じたくない。黒天使にそんな間抜けは見せたくない。
なんでその程度のことにこんなにも忌避の感情が湧き上がるのか自分でも不明だったが、とにかく僕は意地を張らないわけにはいかなかった。倒れてしまえばずいぶん楽になるだろうとは承知しつつも、何がなんでも倒れるつもりはなかった。
やがて平衡感覚の異常も収まり、足元は元通りの硬い床に戻ってくれて、まだ多少の眩暈の余韻を残しつつも僕は「いつも通り」に戻った……いや、これが本当にいつもの僕なのかと言うとそればかりは自信も持てないが。というか神の力を授かった以上、僕はもうさっきまでの僕とは根本的なレベルで違っているのだろうが……それでも僕は僕だ。もっと深い部分にある本質は変わっていない。なるべく変わらせない、その意志だけは無くさないようにしていかなくては。
「おめでとう、変化は成った。君は無事に神の代行者となれた」
「あ、ありがとうございます……?」
いつの間にか荒くなっていた呼吸を整えつつ祝いの言葉にとりあえずの礼を返す。が、次にはそんな感謝も吹き飛ぶようなセリフが彼女の口から飛び出したものだから、僕は大きく目を見開いた。
「じゃ、ちょっと手合わせしようか」




