160.理
特典の拒絶。それは位階を上げない、という選択。神の配下として……代行者としての地位へ正式に就くことを拒み「今のまま」を選ぶということ。そうなると、それこそ現状のまま、何も変化なんて起きないようにも思えるものだが。しかしそうであるなら黒天使もわざわざ場合を分けての説明なんてしないだろう。
本当に何も変化がないのなら彼女が詳細を語るべきは「特典を受け取った場合」のみで済むのだから。そうなっていないのだからつまり、拒絶を選んだとしても僕にとっての転換となる何かがあるのだ。
それも位階を上げ、不老の存在になることに劣らないだけの大きな何かが。
「推察の通り、これを手にしないのなら──」
と自身の掌の上にある球状の淡い光を指して黒天使は続けた。
「その選択は代行者を降りる意思表示と見做される。『何か』と関係のない、特別製じゃない普通の人間になるってことだ。君は只人として今後の人生を生きていく」
「え、でもさっき……代行者を手放すような真似はあなたがさせないと」
「いやいや、それはあくまで『何か』の方から放棄する場合の話であってね。君が代行者からの卒業を願うというのなら俺も『何か』もその意思を尊重するとも。強制的に押し付けるんじゃ特典とは言えないだろう? 決定の権は君にある。あるいは、その選択肢こそがイオに勝利した君への本当の褒美かもしれないな」
代行者を、やめる。『何か』との関係が完全に断ち切られる道。そんなものもあるのか。
今の僕は『何か』によって転生させられた身なのだから代行者という立場から降りたとしても……言うなれば親とでも称すべき存在との繋がりがそれで切れてしまうとは、僕の感覚(これにはこの世界で培ってきた魔術的な感覚も多分に含まれている)ではとても思えないのだが。しかし黒天使が言うからにはそうなのだろう。
特別な力。黒天使は神性と言ったか……それを与えるも剥がすも自由自在というわけだ。いや、今までの説明からすると与えることに関しては色々と制約というか手順というか、管理者ならではのルールがあるみたいだが。反対に、一度与えたものを剥がして奪う分にはそこまで難しくないのかもしれないな。
「けど、特別製じゃなくなるってどういうことなんでしょうか。僕はこの身体を当たり前に生きてきて馴染み過ぎてしまっているので、もう普通が……ただの人間であるというのがどういうものか、よくわからなくなっているんです」
「ふむ。まあそうだろうね。俺だって位階が上がる度に以前の感覚なんてものは置いてきてしまっているし、それはそういうものらしい」
訳知り顔で頷く黒天使。この一瞬だけを切り取るなら彼女は、いやに黒尽くめなだけのどこにでもいるただの少女のようであるが。しかし僕の目には決してそんな風に映ったりしない。世界広し──たとえその世界がいくつも、無数にあるのだしても、彼女のような人物は彼女しかいない。何故かそう感じる、そう確信できる。
僕は彼女を「知っている」──?
いや……まさか、あり得ない。黒天使なんて頓狂な呼び名に聞き覚えなんてないし、彼女の姿に見覚えだってまったくない。そもそもいつかどこかで出会っているのなら忘れたりなんてしないだろう。ここまで特異で特徴的な少女だ、忘れたくても忘れられるはずがない……ならばやはり、この奇妙な疼きは単なる錯覚なのか。
黒天使の存在感に中てられて、初めての体験をあたかも経験済みかのように偽りの既視感を抱かされているだけなのか。
「君に宿っている神性のはく奪。それによって引き起こされる変化としては、まず性能全般の低下だね。魔力の出力や回復速度といった魔術的な側面も含めた身体機能の下落。と言ってもこれの本旨は君の成長を後押しするためのものだったから減少幅自体はそう大きくないよ。割合にして数パーセントってところかな。今後の成長に関しては今までみたいに二足飛び三足飛びができなくなる、そこの影響の方が重大だろう」
「数パーセント、全部の力が落ちるんですね。そしてこれからは、これまでみたいに短期間で新しい術や技を覚えていくことも不可能になる」
……まあ、これは然もありなんといった感じか。魔力の認識すらできていなかったズブの素人が一年も経たない内にユイゼンが編み出した魔術の奥義まで習得したのだ。出来すぎている、どころの話ではない。やり過ぎていると評するべきだろう。異常なまでの成長速度は履いている下駄の高さを表している……それがなくなったところで僕としてはそこまで惜しいとは思わないものの、しかし懸念も確かにあって。
「僕が今の特別製でなくなるのなら、果たして乗り切れるでしょうか。次の波を」
僕が代行者であろうがなかろうが関係なく世界の危機は訪れる。直近で起こるのはまず間違いなく魔人残党の二人組による復讐だ。
それを神性を失った僕や被害を負った協会が乗り越えられるかというと、相当に怪しい。イオほどの敵はさすがに出てこないと思いたいが、その可能性だってゼロではなく、そもそもイオがいたからこそ。彼女が僕に勝つことにばかり注力していたからこそ五百を超える魔人の軍勢はその真価を発揮できなかったのだから、ある意味ではイオという圧倒的なトップの不在はむしろ敵対する僕たちにとっての不利益にすらなりかねない。
再び数を増やした魔人たちが今度こそ全力で攻めかかってきたとしたら、現状の協会ではもはやどうすることもできない。それが立て直しを図った後の協会だとしても厳しいと言わざるを得ない──だってその頃にはおそらく、今回の戦いで八面六臂の活躍を見せたミーディアだってもう戦場にはいないのだから、尚更に。
「懸念ご尤も。普通の人間に戻ることを選べば人類側の大幅な戦力ダウンが否めない、というデメリットも発生する。これは今君が想像している以上に深刻な問題だと思うよ。何せ神性の中にはその機能の一部たるシスも含まれる。人になるなら人にはないそれも没収されるのが道理。君は二度と彼女と話すことができないし、彼女がいたからこそできていた術の数々も失われることになる。後者に関しては長い年月をかければ取り戻せる可能性もあるが、シスそのものとは永遠のお別れになる。そう理解しておくことだね」
「……!」
シスと、別れる? もう二度と話せないだって……? 僕が代行者でなくなり『何か』との繋がりが切れれば、シスとの繋がりすら切れてしまう……いや「なくなってしまう」というのか。
はっきり言ってこれは、黒天使が教えてくれた全情報の中でも最もショッキングなものだった。だが考えてみれば道理とはその通りで、普通の人間は頭の中に補助役なんていないのだ。自分の中に自分を助けてくれる意思を持ったシステムなんて、備え付けられてはいないのだ。
それがいないのが普通。シスと別れてこそ僕は普通に戻れる。それが神性の喪失であり、決して避けられないことなのだろう。
「管理者の思惑関係なしに君個人から見れば、まあ一長一短かな。無力でこそないがこれまでのような活躍はできない一般人に戻るのと、とても人とは呼べない存在になってこれまで以上に人類のため戦っていくのと。力が惜しくない、あくまで人間として第二の生を歩んでいきたいなら特典を受け取らなければいい。弱くなって世界や仲間のために戦えなくなること、守れなくなることを恐れるなら特典を受け取ればいい。ただしそちらにもデメリットはある」
「代行者になる、デメリット?」
「君の人格面……というより思考法かな、それが変わっていくと思うんだ。何せ神の視座に近づくのだからね。これは大概のことに当てはまる法則だけど、手堅い方法というのは大抵、一定の犠牲を許容して確立されるんだ。つまりだね、世界の管理。白の大勢の維持においても波の規模に応じて一部の白を切り捨てることが正解の場合が多々あるんだよ。その方がバランスが取りやすく、結果として安定するという意味でね。まったく犠牲を出さないとすると白の範囲が大きくなり過ぎることにも繋がりかねないからね。ちょうどいい間引き、と捉えることもできる」
「…………」
「ああわかるとも、人間の心を持つ君からすれば俺はとても残酷なことを言っている。気持ちが悪い考え方をしているね。だが、管理者の視点とはこういうものだよ。更なる神性を経て、そして人間の寿命を超えて長きに渡って世界を守るとなれば君も自ずとこうなっていく。これも避けようがないことなのさ。人の考え方のままで人外にはなれない。なったとしても君は代行者としての務めを果たせないだろう」
「果たせなかったとしたら、どうなるんですか」
「さて、それは君の上司である『何か』次第だからなんとも。使えない部下を可愛がるか疎むかは人それぞれだからね。君をどう扱うか、君を通して世界をどう管理していくかは今後の『何か』と『誰か』が決めることだ。いずれこの糸を去る俺には関係のない話さ」
「糸を去る……そしてどこへ?」
「次の糸だよ。そちらの世界でもこちらのように何かトラブルが起きていて、俺が手を貸せるようであれば、解決に尽力するつもりだ。それを繰り返していくのが当面の目的だ」
目的。そうだ、黒天使は自身の目的のために『何か』と『誰か』の間に立ってゲームの開始と進行を手伝った。そう自分で言っていた──だが、彼女の言う目的とはこの世界を救うことであって救うことではないらしい。
この一本に拘ってはいないのだ。数多の救う対象のひとつ。そしてどうしても救わねばならない対象では、ない。駄目なら駄目で構わないし、自分が去った後にどうなろうともどうでもいい。手を貸した今、世界が安定を見せた。管理の手法が出来上がる、その手伝いができたという事実こそが彼女には大事で、他は全て小事でしかない。そういう、ことなんだろう。
僕の理解を察して、黒天使は「まさに」と妙に柔らかい笑みを浮かべた。
「その通りだよライネ君。他にもいくつか救ってきた糸がある。この糸もその一本になったし、これからもそういう一本を増やしていく。そうやって『俺の影響』が残る世界をたくさん作り上げていく。糸と縄で雁字搦めの一全世界に少しずつでも着実に俺を刻み込んでいくことが、俺の『目的』だ」
「それに、なんの意味が? 色んな世界へあなたの足跡を残していくことが最終的には『何』になるんですか」
「ん……そうだね、簡単に言うなら経験値を溜めているってところか。俺もまた管理者の一人。各世界の神々と同等の位を持っているわけだが、これじゃてんで足りなくってね。今はとりあえず数多いる管理者を統治できる立場を目指しているんだ。つまり、更なる上の位階が欲しいってことだ。一段ずつ昇っていって、そしていつの日かこの目で拝みたい」
「な、何を……」
「基理だよ。一全世界の大元、ありとあらゆる法則を司る最大にして最古の原則……聞けば四つあるというそれらを直に見聞きできる、あるいは感じ取れるだけの位が最終目標だ」
今のところはね、とどことなく悪戯っぽく付け足しながら、くすくすと黒天使は見かけ相応の可愛らしい笑い声をその小さな唇から漏らす。耳穴から虫が侵入してくるような感触に苛まれながら、僕は重ねて訊ねる。
「拝んでどうするつもり……なんですか? その基理とかいう人──物? に、何か用件でも?」
「いいや、特に用はないよ。知識欲だ。この目で見てみたい、真実それ以外に欲求なんてない。言ったろう、人が持つ最も素晴らしい原動力は好奇心。ご多分に漏れず俺もそれに突き動かされている。基理を前にして何がしたいとは考えていない。未知の前に立つこと、それ自体が目的なんだ。悩んでいるなら君もそうやって決めたらどうだ」
「え?」
「つまりだね、見たい景色のある方を望むんだ。人と代行者。こちらで縁を紡いだ仲間と同じ目線、尺度で生きていく景色か。もしくは仲間と違うステージに立ってでも守っていく景色か……ああ勿論、人だからといって世界の危機に際して何もできないというわけではないし、代行者だからといって今後まったく人と手を取り合えないなんてこともない。ただし偏りはする。それに時間が経てば経つほどふたつの立場の違いは明確になっていくだろう。こんな言い方はしたくないが、どちらを選んだとしても君にはそれなりの苦渋と後悔が待っていることと思う。ま、それも大概の物事に当てはまる法則だが」
さあ選びなさい、と。口元から楽しげな笑みを消して、真剣な様子で黒天使はそう迫る。その促しに対して僕は──。




