159.特典
思うにね、と黒天使は言った。僕に向けられている黒々とした瞳には確かな興味や好奇があるように見える。ただしそれは人が人に向けるのとは違う、例えるなら薬を打たれたモルモットだとか、解剖されるカエルだとか。そういうものを観察する眼差しに他ならないように僕には感じられた。
「前世の君はとてもドライな男だったようだから、愛を持たずまた欲してもおらず。けれど不必要とはいかなかったんだな。人間には愛が不可欠なんだよ。他の何に愛を向けられずとも自己愛は必須だ。君にはそれすらもなかった。だからこそ適材だとあの研究所にスカウトされた。だが、おそらく、そこでの出会いが君を変えた。言うなれば愛の芽生えなのかな。前世の君は前世のシスをどうしても助けたいと願った。他の何を、自分自身を、シスの命すらも壊してしまってでもいいから実験動物という境遇から彼女を解放したいと思い立った。そして思い立ったままに実行に移した」
「それが、愛だというんですか」
さっきは衝動任せと彼女も言った、僕の蛮行であり愚行だ。今になって振り返ればもっと他にやりようもあったと思える、多くの命を蔑ろにした残酷な自殺。しかしあの時の僕には他の案など思い付かなかった。何も持っていない僕が大それたことをするには、唯一の掛け金である命を投げ出すしかなかった。そうやって他人を巻き込んでの心中くらいしか研究所を破滅させる手段が……シスを救う手段が、見つけられなかったのだ。
その動機がよりにもよって「愛」だなんて、僕からすればひどく笑えないジョークだ。
「だけど否定もできないだろう? 前世の君の欠落ぶりは誰より今世の君こそが知り得ていることのはず。そんなどうしようもなかった君が暴走したのは初めて手にした愛によるものだとすれば辻褄も合う。最も激しい原動力は愛なんだから当然だね。これも誰にも否定できない事実だ」
ちなみに、俺個人が最も素晴らしい原動力として挙げるのは好奇心だがね。などとこの場面においてはどうでもいい──しかしまたとてもらしい情報を付け加えながら黒天使はなおも続けて。
「とにかく世界存続のための管理者たちのゲーム。代行者として矢面に立たされた君はそれに打ち勝ってみせた。イオにはなかった変化、愛する心を得たおかげでね。良かったね、世界は安泰だ。『何か』と『誰か』は反りこそ合わないようだが仲良しのようだから、負けた『誰か』が萎えて世界を去ったりそれで張り合いを失った『何か』まで後を追ったりするような悲劇も起きないだろう。ん、管理者が去った世界がどうなるかって? 世界の寿命は管理者の手腕にかかっていると言ったろう。存続は全て管理者次第、そんな存在がいなくなってしまえば遠からず世界は滅びるのみさ。引き際に何かしら特別な措置でも施していれば話は別だけど……それでも半永久的な維持は望めないから遅かれ早かれのことではあるかな。そういう言い方をしてしまったら管理者がいたところで大半の世界がそうなんだけれども。だから寿命と言うのだし、基理の法則ではひとつの世界が延々と続き続けるのも健全じゃあないようだからね」
「それじゃあ、いずれはこの世界も……」
「終わる時は終わるね。だがそれはどんな物事にも平等にして公平のルール。そこから外れてしまっている方が『おかしい』んだから嘆くようなことじゃない。そうだろう」
「そうですね、そうかもしれません。でも僕は」
「わかっているよ、君が守った世界だ。いつかの終焉だとしても想像すれば感傷的にもなるだろう。その憂いこそが人間らしさというものだ。『今』しかない他の生き物と違って人間種には『過去』があり『未来』がある。それが知性であり鎖であり、人がどの世界でも大多数の白の側に立つ理由でもある……おめでとうライネ君。君は代行者ながらにこの世界における人の代表ともなった」
何がどう繋がって「おめでとう」なのか、僕にはわからなかった。そろそろ必死に頭を働かせるのも限界に来ていた。何せ黒天使との対話は疲労が嵩む。彼女の口から出る何もかもが僕には突飛で、けれど受け入れるしかない真実で、それを遠慮容赦なく矢継ぎ早に投げかけられているのだ。それも、いっそ呆れてしまうほどに人間らしさをその身から感じさせない人物によって。
自分が目を回して倒れていないのが不思議なくらいだった。
「お疲れのところ悪いけれども、まだ確かめなければならないことが君にはある。さあ、質問を続けなよ」
「……僕は、僕とシスはどうなるんですか。ゲームは終わった。僕に与えられた使命はやり終えた……だったら」
だったらそれが僕の本当の「終わり」なのではないか。使い終わったら捨てられる。それが物の最後で、僕は『何か』の所有物に他ならない。
イオはゲームの終了後にも『誰か』が直ちに自分を捨てることはないと確信していた様子だったけれど、その根拠が彼女お得意の直感にしろそう結論するに至った要因が他にあるにしろ、だからといって絶対に正しいと僕まで信じられるものではないし……何より『誰か』とイオの関係が『何か』と僕に同じく当てはまるかはまた別問題だ。
そう、ともすれば。イオがまことしやかに述べていた特典というのが、この第二の生の終わりを意味する言葉である可能性だってないではないのだ──。
「なるほど。自他ともに認められるネガティブな君らしい実に穿った物の見方だね。だが決して的外れとは言えないな。神の視座、というやつだ。上位者の見る景色は人とは違う。当然、人を見る目も通常のそれじゃない。俯瞰的だし客観的だ。そこに感情移入や自己投影は一切ない。人が人と対すれば必ず自分とも向き合うことになるものだが、遥か高みから個人ではなく種族として人間を見下ろす者に我が身を振り返る意義は生じない。生からの解放を御褒美として悪気なく与えることも如何にもありそうなことだ。実際、そうやってサイクルを回す管理の仕方もいくつか目にしてきているしね」
だが杞憂だ。と、僕の不安を黒天使はあっさりと切って捨てた。その断言具合は先行きの見えない今の僕には心地良くすらあるもので。
「君は十把一絡げの人間の一人、ではないからね。代行者。『何か』はしっかりと君を個人として認識しているよ。そして使い捨てるつもりもない。というかそんな勿体ないことは俺が説得してでもさせないさ。管理する者にとって一番の難関はその手足となる者を見繕うことなんだ。神自身が直接世界へ触れることはご法度、であるからには『確かな能力を持つ代行者』は喉から手が出るほどに欲しい。これまでこの世界は一部の力ある者たち、つまりテイカーに代表される魔術師が自覚なくその役割を果たしてきたがこれはあまり上手いやり方じゃない。若くとも『何か』や『誰か』もそのことには気付いていたんだろう、だからこそ次なる管理の方法を巡って主導権争いが起きた。俺は偶然そのタイミングでこちらを訪れたものだから、それならばと提案したわけだ。せっかくだからあなた方も代行者を作ってみてはどうですか、とね」
まるで新婚夫婦にそろそろ子どもを設けてはどうかと進めるおせっかい焼きのようだった……いやまあ、黒天使が語っているのは出来事の要約であって『何か』と『誰か』を前にそっくりそのままなセリフを吐いたわけではないのだろうけど、しかしもしそうだとしても、ちっともおかしいとは思わない。世界の管理者に対してもこの態度を貫ける。気安く親身に、けれどもどことなく酷薄に。独自の線引きの向こう側から話しかけている様がありありと想像できる……。
「結局、僕はどう扱われるんですか」
「使命続行だね。既に述べた通り世界は蠕動するものだ。低い波から高い波へ、高い波から低い波へ。そこで必ず起きる未曽有の出来事は白と黒のバランスを変えてしまう。放っておけば、ね。生物の呼吸や新陳代謝と同じく止められないそれを上手く乗り越える。乗り越え続けていくことが人類の宿命であり、その手助けをし続けることが代行者の使命だ。君の上司である『何か』がそれを望む限り、という注釈も付くが」
「! 『何か』が方針を変えることもあるっていうんですか」
「そりゃ、人も神も移ろうものだからね。まったくお勧めの選択ではないけれど、『何か』が急に白と黒の勢力図を反転させたいと思い至るかもしれないし、それこそ先の例のように『誰か』共々にこの世界から旅立ってしまうかもしれない。神なき世界、というのも俺は見てきているが……ま、往々にして悲惨なものだったと言っておこう。もちろん例外はあったから万が一にこの世界がそうなったとしても即時の滅亡一択ではないことも注釈を加えておこう。それはそれとして、だ」
黒天使は僕を指差して、まるで魔法にでもかけるようにくるくるとその指先を回しながら言う。
「言ったように『今』は安泰だ。間違いなく方針も方向も定まった。この世界はようやくの安定を得ようとしている──立役者は君。故に岐路に立たされている。問われているんだよ、今後の身の振り方を」
「身の振り方って……僕に選びようがあるんですか」
「あるとも。即ち、特典を受け取るか否か」
光。五指を開いてみせた黒天使の掌に、淡い光の塊が浮かび上がった。大した大きさでもなければそこまでの光量もないそれは、けれど容易には目を離せないほどに尋常ではない力が形となったものだと。イオでなくとも直感的に、自信を持ってそう理解できた。
「これが──特典」
「ああ、君が受け取るべきもの。位階を上げるための証明書、のようなものだと思ってくれればいい。これを手にすることで君は正式な代行者としての地位を得る。ゲームには君とイオ、どちらがより神の遣いに相応しいかを決める側面もあったと言える。勝ち取ったんだよ、君は。同時にこれを放棄する権利もね」
「放棄……することもできると」
「可能だよ。まず受け取った場合のその後についてだが、目に見えて何かが変わるということもない。君の位階が上がったとてそれを勘付ける者はこの世界にはいないだろう。君はこれまで通りテイカー協会の一員として人々を守るために活動したらいい。いずれ来たる波の脅威に晒されるまで大事はないはずだ。だが、おそらくすぐには実感も湧かないだろうが、特典という名の力を手にした君の身は確かに変わっていく。それと共に心もね。人でなくなるとはそういうことだ。『何か』が調整した特別製のその身体も一応は人の区分に入るが、いよいよ人間種の枠組みから飛び出してしまう」
「……具体的にはどうなるんでしょう」
「わかりやすいところで言えばまず、老いなくなる。不死には届かないがその手前くらいには行くね。ああ、不死・不老というのは位階の上下に密接にかかわるものだから基準としてよく使われる性質なんだ。ほとんどの世界において種族問わず不老長寿の存在が人間よりも上位として扱われるのはそのものずばり管理者に──ほんの僅かにだが──位階が、存在としての格が近しいからだね。神性を持たない限りはどんぐりの背比べにしかならないけれど。その点君は代行者、神託の力を行使する神の手足となるわけだから、そこらの不死の怪物なんぞとは文字通りに格が違う。これからは真の意味での世界の守護者になれるんだ。特典さえ受け取ればね」
正式な代行者。今よりも位階を上げて、より神に近しく。より神の配下らしい存在になる……イオはまさにこれを狙っていたんだな。『誰か』から大雑把にではあるが説明を受けたという彼女のこと、特典の内容を大まかにでも正しく把握できていたのは特に驚くべきことではないだろうが、しかしそれでも──彼女の語る展望、野望があまりにも大それたものであったせいもあって──懐疑的に聞いていた僕にとっては大変に意外ですらあった。
特典を手にする選択をすれば……僕は人ではなくなり、そして働ける限り神のために働く代行者として終わりの見えない生を歩むことになる。幾度となく訪れるという世界のバランスが崩れるような危機へ立ち向かっていかねばならなくなる。
たった一度、それも『何か』と『誰か』が行うただのゲームでしかなかった今回の件だけでも僕の精神は擦り減り、身も心も疲労が溜まっている。これを、何度も。際限なく繰り返していくというのは正直言って、考えるだけでも気が遠のくような未来だった。
だけど。
「それじゃあ次は、特典を受け取らなかった場合のその後についてを話そう」




