151.まだ
ライネとシスには初めからわかっていたこと──いや、予想できていたことだった。
唯術の拡域。氷結領域という絶対の勝利を予見させる奥義を身に着けてなお、その内へ閉じ込めてもなお「確実に勝てる」とは言い難いと。イオならばそこから粘っても、いやさ突破してきてもなんらおかしくないだろうと。そう見積もっていた。
ライネとイオは設定された宿敵同士。対等な戦いとなるように同じだけ魔術に関する才を持たされている。ライネに氷結領域が使えるならば、イオにもまたそれに相当する武器があると考えるのは当然だった。仮にその武器が必ずしも氷結領域に対抗できるような代物ではなかったとしても、それはライネの側も一緒かもしれない。つまりどこで切り札を切るかは非常に重要なことだった。何せ一度拡域に手を出してしまえば否が応でもダイムリミットが設けられてしまうのだから尚更だ。
先にイオが手の内を晒してくれたのは僥倖だったと言える。種は魔人の軍団から徴収された外付けの魔力。それまで頭を悩ませた不可解な出力や防御力の謎も解消され、そして魔力量は膨大なれどいつまでも続く類いのものではないと知れたからには、ライネも奥の手を見せることに躊躇いはなかった。もっと契機を見計らいたかったところをイオにそのタイミングを強制された、という点は否めずとも勝負の流れとしては思い描いていた通りの、事前に組み立てていたイメージから大きく外れないものだった。
しかしやはりイオは強かった。予想した通りに彼女は「ライネと同じく」、追い詰められてこそ本領を発揮するタイプだった。土壇場での閃きとそれを実行できるセンス。まさにシスから見たライネの強みそのままのことを、鏡映しの面目躍如で披露したイオは、流れも何もかもぶった切って強引に自分の下へ新たな流れを生み出せるだけの、そういう勝負強さで。力強さでこれでもかと氷結領域内を暴れ回り、本来ならライネ絶対有利であるはずの舞台で互角以上の戦闘を演じてみせた。
まさに強者。窮地こそがバネと言わんばかりに飛躍し、更なる強さを手にするその在り様は、しかしてライネもまた同質の才を有するばかりに際限なく互いを高めていく──高め合ってしまう。結果として勝負はいつまでも拮抗が続く泥沼の様相を呈し、血ばかりが流れ、傷ばかりが増えて。その度に治癒でそれをなかったことにしながら二人はまた相手へ新たな傷を刻み込んで。
そしてついに終焉の時が訪れた。
「はぁっ、はぁっ……い、いひひ」
領域の崩壊。塵のように小さく細かく消え去った氷球の名残りすらどこにもなくなったその野原で、息をするのも大変そうにしながら。けれどしっかりと両の足で地を踏みしめて立つイオは、喉奥から絞り出すように笑った。彼女の視線の先には膝と手をつき、まるで主君へ頭を垂れるかのような姿勢で蹲るライネがいた。
「勝負、あったか? 俺も大概にボロボロだがよ……どうにか氷結領域を維持できねーくらいのダメージを与えられた、ようじゃねえか。へへ……その感じ、俺が食らわせた以上の疲労があるだろ。領域の解除にそこまでのリスクがあったとは、嬉しい誤算だね」
「………………、」
ライネは答えない。蹲ったまま、下を向いたまま。瞼まで完全に下ろして、ただ彼は内へと沈み込む。
それは己が敗北を認めたが故の消沈──などでは、断じてない。
繰り返すが彼には、そして彼の中の彼女にも、これは予想できていたことだ。
最強の手札として用意した氷結領域が、破られる可能性。イオを倒し切るに至らない可能性は、大いにあり得ると。そういう前提を共有していた。
だから現在、この状況。競り合いに僅かに負けた事実も、全ては予想の範囲内。であるからにはまだ、負けていない。まだまだ敗北を受け入れるには、遠い。
強がりではなくライネには本心からそう思えた。
「よぉ。万が一にも回復させるわけにゃいかねえんであんま長々とは話せねーが。遺言くらいは聞いてやるぜ? テイカーのお仲間たちに伝えたい言葉でもあるなら言っとけよ、俺が届ける。まあ本部も激戦区だ、伝言相手が生き残っていればの話にはなるがな」
「──シスを休ませられたら良かったんだけどな」
「……あ? 何を」
言ってんだ、と続ける前にライネが立ち上がったことで思わずイオは口を噤み、警戒を露わに一歩だけ下がる……いやそれは、警戒と言えるほど理性的なものではなくもっと本能的な。直感的な恐れからくる後退だったのかもしれない。
「一心化中はお互いがフル稼働だからそうもいかない。でないと一心化の旨味が引き出せないんだから仕方ないことではあるんだけど……でも、そのおかげで新たな発見もできた」
静かだった──ゆっくりと瞼が上げられ、露わになったその瞳は、どこまでも凪いでいた。まるで勝負が始まる前のような、既に勝負が終わったかのような、闘争心の欠片さえも浮かばないような静寂の眼差し。その薄青の輝きにイオはなんとも言い難いものを、言葉にはできない何かを感じた。
「本気の勝負。生死とそれ以上のものが懸かった絶対に負けられない戦い……だからだろうな。氷結領域の終わりは必ずしも僕の終わりを意味しないと、今になって知った」
「お前、その言い方はまるで」
「そうだよ。僕はリスクを乗り越えた。負担がないわけじゃない、でもまだ動ける。まだ戦える」
──氷結領域が解けるとどうなるか。実戦の前にそれを試さないライネではないし、シスではない。
二人は、二人で一人の彼らは今日のためにありとあらゆる想定をし、ありとあらゆることを試していた。その結論として唯術の拡域はまさしくの鬼札。一度切ってしまえば、そして効力が終わってしまえば──その時までにイオへ致命的な傷を負わせていなければ、それ即ちライネの終焉まで意味するものである。と、そう判じていたのだが。
イオのそれに倣う、瀬戸際でこそ輝く閃きによるものか。はたまたもっと泥臭く、ユイゼンにも問われた根性なるものが絞り出されたか。もしくは常識的に考えて使用を重ねたことで氷結領域という術が成長を果たしたのか。あるいはロマンチックに、ライネとシスの間にある繋がりが一心化によって一層に深まったことでの奇跡だとするか。……付けようと思えば理屈や理由はいくらでも付けられるが、そのどれもが正解とは言えない。どれが唯一の正しい答えなどと決められはしない。
とにかく確かなことはひとつ。
ライネが握る拳にはまだ、力が込められている。
「あえてこう言おう、イオ。僕たちの勝負はここからだ」
「……!」
身構える。誰に教わったものでもない、戦いの日々の中で自然と習得したライネ独自のフォーム。緩やかな、けれど確固とした意志が表れた所作で取られたその構えに、イオは目を見開いて。そして彼女もまたゆらりと、彼女特有の低い姿勢を作った。
イオの肉体は直前に浴びた『白氷』──氷結領域内でのみ可能となる、全攻撃用の氷術を一打にまとめて打つというライネが土壇場で編み出した恐るべき術によって、あちこちが凍り付いてしまっている。しかもただ肉体の上から凍らされているのではなく、内部まで浸透している氷蝕によるそれに近しい被害。本当なら動かすこともままならないはずのその身体で、けれどイオは辛さをちらりとも覗かせずにライネだけを見据える。
対するライネもズタボロだ。真価を発揮した『克』の威力は凄まじく、だからこそ氷結領域も維持できなくなった。それだけ体に深刻なダメージが刻まれた、ということだ。そして彼にはイオほどの自己治癒での回復が見込めず、またそれに費やす魔力も残されていない。全身に強化を施すだけの残量すらないのだからそもそも傷を治そうなどと彼は思いもしなかった──傷だらけのままに、勝つ。何故ならそれはイオも同じなのだから。
彼女の治癒術ならば氷蝕の被害だって──通常よりも難度こそずっと高くとも──そう時間をかけずに「なかったこと」にできるだろう。欠損部位の瞬時再生すらも戦闘中にこなせてしまえる今のイオにならそれくらいのことができないわけもない……なのに凍ったままの肉体で、いつ砕けてもおかしくない不安定な体のままで戦おうとするのは、治癒が叶わないから。とうとうそこへ回せるだけの魔力がなくなったからだ。
それ以外に理由はない。外付けのものだけでなく自前の魔力まで底を尽きかけている。そうしなければ氷結領域を破れなかったのだからイオとしてもこれは仕方のないことで、後悔など微塵もしていないだろうが。しかし双方が双方ともにきっと皮肉に思っている。
ここに来て、ここまで来て互いに欲するものが「ほんの僅かな魔力」。たった一撃だけでもいいから術を充分に打てるだけの、それだけの魔力さえあればと……ささやかな、けれど重大なモノを心から欲している。だがそれはどんなに願おうとも手に入らないものだから。
己が手で掴み取らなくてはならない勝利だから──ライネとイオは。
「しッ!」
「はぁ!」
同時に駆けて打ち込み合う。最低限の魔力強化で行われるそれはほぼ素の身体能力に近しい。それだけが条件であれば魔人であるが故に膂力に優れるイオが断然の有利を取っていただろうが、彼女は凍ってしまっている手足や胴の一部が壊れぬよう気を遣う必要があった。ただ全力を振るうだけでは己が身までも砕いてしまう。その制約があるからイオとライネの格闘戦は成立していた。
伸びた腕をライネが掴み、捻り上げながら折ろうとする。この時点でイオの肉体が人間のそれであれば優に目的は達成できていただろうが、彼女の体は硬いだけでなく高い靭性、人にはないしなやかさまで持っている。折りきる前に地を蹴ったイオの捻る方向に合わせた回転で脱された上、そのついでとばかりに膝が頬へと叩き込まれた。
くらりと視界が明滅する衝撃。だがライネはそれに怯まず、体が沈みかけたのを利用して足払いを仕掛けた。回転蹴りからの接地、その瞬間を狙われたイオは避ける術なく軸足を刈られて転倒。そこへ打ち下ろされる拳を、必死に転がることで躱して起き上がる。
「ああくそ、惜しい……」
「はあ、てめえ……はぁ」
信じられないほどに息が上がる。だが呼吸を整えるのもそこそこに両者はまた動き出す。攻めていく。そうしなければ負けるのは自分だと、互いに理解しているから。
(魔力不足でほとんど【模倣】が働かねえ。辛うじて生きてんのはコスパ抜群の【好調】だけか。──残してて良かったぜ、マジでよぉ!)
体調を整えるだけでなく敵術の影響からも逃れやすい【好調】の機能まで切れていたら全身が氷に変えられていたかもしれない。せめてもう少し魔力があれば問題なく動ける程度には氷漬けの範囲を抑えられていたかと思うと少々惜しくもあるが、とまれそれは望み過ぎ。こうして肉弾戦が行えていることを幸運と喜んでおくべきだろう。
動作が阻害されているとは思えない鋭い二連蹴り。それをスウェーでやり過ごしながらライネは画策する。彼も【氷喚】を使いこなせるほどの魔力はなく、氷術には頼れない。ただしそれは「決め手に欠く」ことを意味しない。
我が身を省みるという重りこそあれど魔人の体を持つイオこそが殴り合いではやはり有利。そう自身の不利を認識しながらもライネには勝利のヴィジョンが見えていた。
倒す。絶対に、イオに勝つ。そのために手を伸ばすべきは──。
「おぉお!」
「んだよ、破れかぶれかっ?!」
攻撃の途切れに合わせてタックルのような姿勢でライネが突っ込む。だが大人しくそれを食らうほどイオも間が抜けてはいない。低くなった頭へ膝を打つ──躱される、しかしそれは予想通り。あえて避けやすいように角度をつけて蹴ったのだ。
狙い通りに左へ逸れたライネへ本命の左拳を見舞う。確かな手応え。折れた鼻から舞う血飛沫を目印に同じ場所へ右拳も送り込む。またしてもクリーンヒット、ライネはきっともう何がなんだかわからないに違いない。顔面へ二連続でイイものを貰えば誰だってそうなる──はずなのに。
(!? こいつ、止まらな……あ?)
顔中から血を吹き出させながら、ひどく覚束ない足元ながら、それでもライネは止まらずに前へ。殴打を交わせる間合いを更に縮めて、至近距離へ。望んだ通りにイオの懐へと入り込んで彼がやったことは……そっと触れるだけ。イオの腹へ添えるように掌を置いただけだった。
当然そこにはなんの痛痒も生じない。何かしらの一撃が来るという予感が外れイオの思考を戸惑いが埋めた、その小さな隙間が決定的なものとなった。
イオの腹、凍り付いたその一部へと届かせた手。それこそがライネに許された最後の、そして渾身の一手だった。
「起きろ……凩」




