127.開幕
午前五時五十九分。協会本部は静まり返っていた。
本館を守るべくその周辺へ展開された現場員の総勢は三百四十一人。これだけの人数がいて話し声のひとつも聞こえてこないのは、言うまでもなく「そのような段階」をとうに過ぎているからだった。
決戦の時を目前にしているのだ。やるべきことはやり終えているし、語るべきことは語り終えている。あとは戦いの火蓋が落とされるのを待つばかり。全テイカーがその心持ちでいた。それはもちろん、現場員と違って本館内に詰めている事務員たちや、また各々の事情あって──オルネイなどがその筆頭だ──事務員の手伝いを行なうべく現場に出ていない現場員とて同様である。
これより決死の、懸命の闘争が幕を開けようとしている。気を緩める者などいようはずもない。だから静寂が場を支配する。そしてそれ以上の熱気が、テイカーが放つ闘気が本部に渦を巻く。たった三百四十一。全ての支部から運営に必須な最低限の人員だけを残してかき集めた現場員の数としては決して多いとは言えないが、しかしその熱量だけは。彼らの抱く覚悟と気迫だけは、充分以上。魔人軍との戦力比で言えば二百以上の差を付けられて負けているものの、そんな事実になどなんの意味もないとばかりに彼らは燃えていた。滾っていた。死など恐れていなかった。
ここで自分たちが勝たねば世界が終わる。ここにいない大切な友人も恋人も家族も、死ぬ。魔人軍を率いる少女に関してわかっていることは少なく、謎ばかりだが、その思惑と目的についてはテイカーにも共有され知れ渡っている。世界の転覆。魔人という新種が人間に取って代わろうという、前代未聞の野望。──阻止しないわけにはいかない。たとえこの場でどのような悲劇が繰り広げられようともそれを明日の世界へ持ち越させはしない。そういう決意が、ここに集う一人一人にはあった。
いつでも来い。全員がもはや待ち遠しいまでの想いで敵の到来を待ち構える中、ついに時計は午前六時ちょうど。宣戦布告で指定された運命の時間を刻んだ。その途端だった。
『十二時方向に歪みを探知』
本館内の事務員の一人が持つ【伝令】の唯術。拡充と数人の事務員が補助しての儀式によって現在全てのテイカーが──厳密には館内放送と組み合わせているために【伝令】が直接耳に伝えているのはそれを聞けない外部にいる現場員たちに限られるが──一時的にリンク状態となっている。聞こえた言葉が意味するのは敵の出現、それも本館の真正面。玄関前広場に通じる通路からの侵略が開始された合図であった。
「【氷天】──天蓋碧牢」
まずどこから来るか。現在幾人もの空間系の唯術持ちによって「異空間」と化している本館以外であれば本部内のどこにでも歪みは現れ得る。その上でイオが開幕に駒を進めるとすればそれは正面以外にあり得ない──というライネの予想は過たず、またそれを信頼してそこへ配置されたユイゼンの大術も滞りなく炸裂。歪みの奥から這うように出てきた十数体の魔人がまず塞き止められた。
押し寄せる大群の先陣を潰し、防衛線の第二陣や三陣への負担をなるべく減らす。その役割を全うせんと振るわれた天にも届かんばかりの氷術は、その冷涼さとは裏腹に戦地の熱気を鎮めることもなく、むしろ後方にいる味方たちの士気を更に高める。魔人戦争、魔人側と協会側の挨拶。初手においてはテイカー側に軍配が上がった。誰もがそう信じた。
が、進軍滞るそれらの合間を悠々と。まるで氷の牢獄などそこに存在しないが如くに歩を進めてくる人影がひとつ。その青い肌を持つ痩躯の男は、遥か先からでもよく通る声で言った。
「以前に見た術とは別物と言っていい規模だ。これがお前の真の実力、ということだな? ユイゼン・ロスフェウ」
──氷牢が砕け散る。【同調】による一体化、からの自己崩壊の誘発。何をされたか理解できているからこそ険しく目を細めたユイゼンの視線の先で、一度は氷漬けにされた魔人たちが蠢くように再びの進軍を始めんとする。
これがただの人間であれば、あるいはそれが魔術師であったとしてもそこらの木っ端ならば、全力で練られたユイゼンの魔力から作られた氷の牢獄に押し込められた以上は、たとえすぐの脱出が叶ったとしてもこびり付く冷気によって体温の低下と凍傷によってまともに動けるわけもなかったのだが。けれど敵は人でもなければ魔物とも呼べない、無理くりにそのふたつの垣根が取り払われた未知なる生命体──魔人。その耐久性は、S級テイカーの全力を浴びてもほんの僅かに動きが鈍る程度に抑えられるくらいには高いようだった。
影響が残っている今はまだしも動作にぎこちなさがあるが、時間の経過によっておそらくそれすらも消えるだろう。そう悟ってユイゼンは「ふん」と鼻息を鳴らして歩き出した。
魔人たちは本館へと歩を進め、ユイゼンは反対に仲間に背を向けたまま一人で本館から離れていく。自ずと彼我の距離は縮む。今や魔人とユイゼンは互いに目と鼻の先。彼女が何をしようとしているかは明らかだった。
しかし止める者はいない。その判断を皆が信じているからだ。
「あんたが正面担当とはね。ちょいとばかし意外ではあるが、ちょうどいい。あの日の不始末を自分の手で片付けられるとはあたしもよくよくツイている──」
銀世界。
ユイゼンがその身より奔らせる冷気よりも一層に冷たく、寒々しく呟いたその言葉は、あたかも言霊がそうさせたかのように周囲一面をまさしくの銀一色に染め上げた。
極一瞬。まばたきも許されないような刹那に世界が書き換えられたことに、その内部に魔人兵共々閉じ込められた彼は微かに目を見開いたが──ふ、とすぐそれを薄笑いへと変えた。
「相も変わらず見事な練度だ。イオが認めたあの男でさえこの一点ではお前に及ぶべくもない。……だが、閉じ込めるとはなんの真似だ? 私にそれが通用しないことはあの日にも今し方にも証明がなされているだろうに」
ユイゼンは生成する氷の組成を細かく変えることで一体化に必要な解析をリセットできる、術師の中でも数少ない【同調】へ対抗できる者だ。ただしその技術が厄介になるのは瞬間的な解析が求められる攻撃系の術と組み合わさってこそ。こういった檻のような拘束系の術は組成に工夫を施したところで解析の余裕がある以上はなんの意味もない。
あるいは明らかに碧牢とはレベルの異なるこの術。己が肝入りの必殺技であれば【同調】が効かない、ないしは解析が遅れるとでも希望を抱いたか。だとすれば愚か極まりない──そう嗤う彼に構わず、ユイゼンはその後ろにいる魔人兵の数を指折り数えていた。
「ひいふうみい……十九か。第一陣が引き受ける数としちゃいくらなんでも少ないね。どうせならもっと多く引き連れてくりゃいいのに、気が利かないねぇあんたも」
「……そう思うのならさっさとこの無意味な術を解いて仲間の下まで退がればいいだろう。どうせ時間と魔力の無駄なのだからな」
「馬鹿を言っちゃいけないよ。あんたはあたしが潰すと決めた。万が一にもあんたを見失ったりしたらこの戦場じゃあそれはもうとんでもないことになっちまうからね。その雑兵らと一緒に確実に殺させてもらう」
「S級として、か? ご立派な責任感だが、やはり歳だけに耄碌は避けられないようだな。できもしないことをさも実現可能かのように宣うとは哀れな」
「物忘れも酷くなってきた自覚があるけどね。それでも耄碌の具合じゃあんたには敵いそうにない……あたしの銀世界をただの拘束術と思い込んでいるボンクラにはね」
「……!」
眼前。突き付けられた冷気の塊は目に見えるほどの質量すら伴って空間を裂いた。【同調】の発動よりも本能的に察した危機。恐怖と言い換えてもいいそれに突き動かされた彼は一も二もなく飛び退くことを選んだ。凍り付いた地面へ手を突きながらもなんとか回避に成功した彼が冷気の行き過ぎた先を見やれば、そこでは魔人の一体が動きを止めていた──氷の牢に包まれていた先ほどとは違う、肉体の芯まで。骨の髄まもでが完全に凍り付いていると一目でわかる姿で。
「これは……この途轍もない威力は! ユイゼン・ロスフェウ!」
思いがけない脅威と、自分に似つかわしくない無様な恰好を取らされたこと。それらに唇を歪ませながら立ち上がった彼にユイゼンは意趣返しとばかりにせせら笑った。
「不足とは言わせないよ、ティチャナ。決着をつけようじゃないか」
「是非もない。お前をこの手で消せる幸運を、私こそが喜んでいるのだからな!」
ユイゼンが次なる術を繰り出すべく構えを取る。同時にティチャナも両の手を合わせてタイミングを計らんとする。魔人兵が人語ではない雄叫びを上げて走り出したのを契機に、両者はやはり同時に動いた。
「【氷天】拡充──」
「【同調】拡充──」
◇◇◇
「んー……なるほどなるほどぉ」
手でひさしを作りながら本館上空を見上げつつ、オールデンは訳知り顔で頷いた。
イオと唯一深く通じ合っているライネの予想に重きを置くのは当然として、しかしそれとはまた別にして。協会が正面以上に警戒を示したのが「真上」。本館の直上に歪みを出現させての魔人の降下攻撃。戦術的な優位性があると──つまりは協会側がそれを防げない・防ぐのに労を割くだろうとイオが想定して実行に踏み切る可能性は低くない。
そう話し合われた結果、空に配置されたのが遊撃班のひとつ。
それこそが特A級のコンビ、互いに好相性の唯術を持つ必殺のペアことマイティ・オイゲンとレベンシア・サッチーの二人であった。
協会でも一、二を争う美形男子と美形女子の組み合わせであるこの美人コンビはとにかく空戦に強いことがその特徴であり特長。レベンシアは【乱流】という周囲の気流を──唯術の名称通りに些か以上に乱雑に──操ることができ、台風もかくやという彼女が作り出す過酷な空間をマイティは【浮雲】という「他者の影響を受けずに空を行く」唯術によってただ一人安心安全に舞うことができる。
レベンシアの【乱流】の勢いはとにかく凄まじく、他の飛行適性のある唯術持ちも否応なしに無力化してしまうために本来なら連携が取りづらく、それでいて風を叩きつける以外の攻撃法がない故に(耐久度に優れた敵を相手には)決定打に欠ける、という扱いの難儀な能力なのだが。味方の範囲攻撃どころか敵の防御すら無視できるマイティの存在がそんな欠点を全て帳消しにする。二人はまさに理想的なコンビであった。
この二人が揃って戦えば空の敵の自由を奪いつつ、自分たちだけは自由自在に攻めも守りも行える──極端なまでに一方的な有利が取れるのだ。空の警護を一任されるのは然もありなん、彼ら以上の適任などいないのだから当然の措置と言える。たとえ魔人兵が五百体まとめて降り注いできたとしてもその全てを本館から逸らして散らすくらいのことはしてのけるだろう。
黄金コンビ。同じく特A級の一員であるオールデンも二人のことをそう信頼しており、そのおかげで頭上で何が起きても大丈夫だと本館に背を向けたまま戦いに集中できる。と、そう思っていた。
なのに彼が振り向かないと決めたはずの背後を確かめているのは何故かと言えば、まさしく協会の警戒していた通りのことが起こったから……ではなくて、その逆だった。そこに「何も起こっていない」。何かが起こる前兆すらもさっぱりと見受けられないからだ。
空高くで油断なく厳戒態勢を取っている、されどどこか手持無沙汰にも見えるマイティとレベンシアのコンビから視線を戻し、自身が配置された場所の真正面を見据えるオールデン。彼が見つめる先にはおおよそ五十を下らない数の魔人集団がのしのしと本館へ向けて侵攻してきていた。
「むむぅ。この分だと空からの急襲はなし、かなぁ? 地上戦がお望みって感じ~?」
戦端の開きとしてユイゼンが敵の幹部ティチャナと交戦を開始したという報告が【伝令】で行われてから既に数分が経過している。この時点で第二波、第三波の兵隊たちが確認されている以上は──少なくとも今すぐには──空の上から魔人が雨霰と振ってくることはなさそうだ。
落とす、だけでは満足な効果を得られないと判断したのだろうか? 魔物同様に飛行できる魔人は極端に少ないか、あるいは存在しないか。故に空にまで戦場が広がるのは総合的に見て損をするといった具合に……マイティとレベンシアが控えている以上それはごく正しい知見であるものの、オールデンには妙に引っ掛かるものがあった。
「二人が本館を守れたとしても頭の上から魔人が落ちてくるってなったらウチらは大慌てだしぃ? やらない理由はないと思うんだけどなぁ……って、うっそ~。何アレぇ?」
群れなす魔人の奥から現れたそれを見て、オールデンは考察を後回しにせざるを得なくなった。
そいつは大きく、四足で地を踏み、首がいくつもある──まるで地獄の番犬のような姿の魔人だった。




