第9話:肉裂く包丁とウリンの意志
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潜入が始まる少し前、巨大なイトスギの影の下の静寂は息詰まるものだった。湿地林の濃い霧の真ん中に隠されたカヌーの上で、宮城芽衣はもう涙を堪えることができなかった。先ほど陸地の森の遥か彼方から聞こえ、そして無残に途切れた千佳の恐怖の悲鳴が、彼女の優しい魂を切り裂いていた。共感力に満ちた純粋なENFPの性格を持つ芽衣は、親友が死に直面しているのをただ黙って見過ごすことなどできなかった。身体を震わせながらも、その両の目に強い決意を宿し、彼女は恋人の方を振り向いた。
「蓮くん……無理。私、ここにただ座って、何も聞こえなかったフリなんてできないよ。千佳ちゃんが危ないの……みんなが危ないんだよ!」芽衣は涙でしゃがれた声で静かに訴えかけた。
クールな哲学の徒である一ノ瀬蓮は、一度は芽衣の手首を掴んで引き留めようとした。数学的な論理や実存主義の法則から言えば、サイコパスが支配する見知らぬ森へ突入するやなんて、愚かな自殺行為に過ぎん。しかし、蓮が芽衣の純粋な涙に濡れた目を見つめた瞬間、彼がそれまで崇拝していた哲学のプライドは、愛と友情のために一瞬にして完全に崩壊した。蓮は長い溜息をつき、掴んでいた手を離すと、むしろ芽衣の指を強く、しっかりと握り締めた。
「人間ちゅうのは、感情の絆のために往々にして合理性を投げ捨てる生き物やな」蓮の得意の関西弁のトーンが、不意に優しく和らいだ。「行くで、芽衣。でも、僕の後ろから絶対に離れたらあかんで」
昼間に給油所の老人が使っていたサザン・ドロール(南部訛り)の構造を戦術的に分析し、蓮は夜風の向きから家屋の地理的な位置を予測した。一方、医学を修める芽衣は素早くリュックを探り、小さな緊急用の救急箱が手元にあることを確認した。京都からの二人の若者は決然とカヌーから飛び出すと、深い沼の泥を突き進み、暗黒の夜の森を抜けてあの死の家へと命がけの潜入を開始した。
その頃、冷え切った古い木造家屋の内部では、エドが物理学の「てこの原理」を利用して裏窓のロックを静かにこじ開けたばかりだった。薄暗い中央の廊下へと音もなくその身体を滑り込ませた瞬間、彼の鋭い観察眼が、別の窓ガラスの隙間から裏庭を動く奇妙な影を捉えた。薄暗い霧の下を忍び足で進む蓮と芽衣のシルエットを認識した時、エドは信じられないほどの衝撃を受けた。エドは時間を一秒も無駄にすることなく、窓から手を外へ伸ばし、すぐにこちらへ近づいて同じ窓のルートから中に入るよう、戦術的な手サインを送った。
3人の仲間は、薄暗い中央の廊下の中でついに再会を果たした。芽衣はエドの無事な姿を見て涙を必死に堪え、蓮は同じ男としての敬意を込めて静かに頷いた。しかし、彼らが言葉を交わしたり戦略を練ったりする前に、正面の廊下の奥から、ひどく重々しい鉄の擦れるおぞましい音が突如として響き渡った。
――スリッ……スリッ……
サイコパス家族の家長の、遅くとも重みのある足音が地下室のドアへと近づいてくるのが聞こえた。あの巨体は古い木製の床の上に巨大な肉切り包丁を引きずりながら歩いており、総毛立つような死のメロディを響かせていた。5人の仲間の命は、いま正式にこの死の家の一点へと閉じ込められた。彼らに残された時間は、文字通り数秒しかなかった。
カメラの視線は、カビ臭く乾燥した血臭の漂う暗黒の地下室の内部へと切り替わる。冷たいコンクリートの床の上で、ウィリアム・カーターと吉田千佳は、地下室の木製の階段の上から近づいてくる重い足音と包丁の擦れる音をあまりにも鮮明に聞き取っていた。上のドアの鉄の南京錠が、殺人鬼の手によって乱暴に軋み始め、開かれようとしていた。
これほどリアルで、避けることのできない死の淵に直面し、千佳のツンデレな防壁は跡形もなく完全に崩壊した。そして、その後に残されたのは、胸を締め付けるほどの、鳥肌の立つような激しい感情の渦だった。息詰まる絶対的な闇の中で、千佳はウィリアムのデニムジャケットの生地をちぎれんばかりの力で強く握り締め、彼の胸に頭を預けながら、激しく身体を震わせておいおいと泣き崩れた。
「ウィリアム……うっ、ごめんなさい……」千佳は日本語で、これまで頑なに保っていたプライドをすべて投げ捨て、ひどく儚く、誠実な声で囁いた。「ごめんなさい、東京にいた頃、いつもあんたに冷たくしてばかりで……。いつも意固地で、文句ばっかり言って、我が儘で……。あんたが抱きしめてくれるたびに、いつも嫌そうなフリしてたけど……本当は、本当はすごく嬉しかったの……。大好きだよ、ウィリアム……。私のせいで、あんたにこんな場所で死んでほしくない……っ」
ウィリアムは、先ほどの激しい暴行のせいで顔中に打撲を負い、血に染まっていたにもかかわらず、闇の中でこの上なく誠実な笑みを浮かべた。鉄の鎖で縛られた彼の両手の握力は、千佳を最も温かい保護的な抱擁の中へと引き寄せる時、ひどく力強く感じられた。ウィリアムのカリスマに満ちた低いバリトンの声が、本物の英語の響きで千佳の言葉をこの上なく優しく遮った。
「Hey, look at me, Chika... look at my eyes. Don't you ever apologize for being who you are. I fell in love with every single part of you, including your stubbornness. I brought you to this country, and I swear to God, I am not gonna let anyone lay a finger on you. Even if it costs my life, I will protect you, Chika. I love you so much.」
「ねぇ、僕を見て、千佳……僕の目を見て。君が君自身であることに、決して謝ったりしないで。僕は君の強情なところも含めて、君のすべての部分に恋に落ちたんだ。僕が君をこの国に連れてきた。神に誓って、誰一人として君に指一本触れさせやしない。たとえ僕の命に代えても、君を守るよ、千佳。心から愛している」
死の瀬戸際で放たれたそのあまりにも男らしい愛の告白を耳にし、千佳は激しい鳥肌を立てながら、ウィリアムの胸の中へとさらに深く顔を埋めた。この男と一緒なら、どんな運命の結末でも受け入れる覚悟が彼女の中で決まっていた。
――ガシャリ! バタン!
地下室のドアが乱暴に開け放たれ、薄暗いランプの光が差し込んだ。サイコパス家族の家長の巨大なシルエットが木製階段の最上段に立ちはだかり、その顔は影に覆われていた。彼は巨大な肉切り包丁を高く掲げ、獲物を屠るためにゆっくりと階段を下りてこようとしていた。
しかし、その巨足が最初の階段のステップに触れるまさにその直前、上の廊下の闇の中から、純粋な科学的知見に基づいた戦術的な一撃が爆発した。バイオロジー(解剖学)の知識を研ぎ澄ませたエドが、何者にも屈しないウリンの弾丸のごとき圧倒的な先鋒として飛び出したのだ。
「蓮! 今や! お前の体重の運動量を全部ぶつけろ!」エドは凄まじい大声で静寂を破った。
エドは電光石火の速さで踏み込むと、巨体の膝の裏側――人間の解剖学において、過度な体重を支える腱の最大の弱点――へと正確無比な蹴りを叩き込んだ。同時に、蓮が闇から飛び出し、物理学的な運動量を利用して、家長が包丁を握る右腕に自らの全体重を叩きつけて抑え込み、肉切り包丁の動きを空中で完全にロックした。巨体はバランスを崩して木製の階段へと激しく転倒し、奥地の荒々しい英語で激怒の咆哮を上げた。
エドと蓮が階段の上で命を賭してサイコパス家長の暴れ狂う肉体を抑え込んでいる間、宮城芽衣は残る涙を拭い、電光石火の速さで地下室の底へと駆け込んだ。彼女の機転の利く医学的な本能に従い、芽衣は救急箱を開け、ウィリアムと千佳を縛り付けている鉄の鎖のロック機構を力ずくでこじ開けるため、エドが用意していた錆溶かしの化学液体や戦術的な工具を取り出した。
この死の家の暗黒の地下室の中で繰り広げられる、異常なほどの緊張感に満ちた肉体的な激突の渦中で第9話は正式に幕を閉じる。家長の狂気じみた怒りの咆哮、パニックの叫び声、そして生き残るために再び集結した5人の仲間の激しい心臓の鼓動が、緊迫したスリラーのクライマックスの中で完全に噛み合っていた。エドのウリンの意志と彼らの友情が、このテキサスの血塗られた夜を切り裂くことができるのか、あるいは全員が凄惨な死の悲劇の結末を迎えるのか、その答えはまだ闇の中であった。




