8 ある工作員の憂鬱
スパイ視点です
カモがかかった、と思っていた。
夫に相手にされない伯爵夫人。ちょっと愚痴を聞いてやって、優しい言葉をかけてやる。
もちろん相手は「なぜそんなに優しくしてくれるの、私のようなおばさんに」と警戒する。
そのとき、恥ずかしそうに「実はお金が欲しくて、パトロンになってくれるお姉様を探しています」と言うだけでいい。
これだけで、「外面を取り繕うこともなく、正直に話してくれる人」と勝手に思ってくれる。
あとは簡単だ。頃合いを見て「お金ではどうしようもないことが起きた。あなたに迷惑をかけたくないから別れたい」と言えばいいのだ。
女は必死で「そんなの嫌、何があったの、私にできることはない?」と、何でもしてくれるのだ。
それこそ国の重要機密だろうとなんだろうと、ペラペラしゃべってくれる。
そういう女をひっかけた、はずだった。
しかし、うまくいかなかった。
たとえば食事に誘った時。女は「そういえば、娘がこの店には『ウメボシ』という、東方の異国の食べ物があると言っていたわ。それをお願いします」と言うので、注文した。そうしたら、これがものすごく酸味のある食べ物だったのだ。
女は一粒食べて「なにこれ! 酸っぱい! 酸っぱいわ! 酸っぱいー!」と大声で騒いだのだ。
店の人間や他の客は「初めて食べるとそうなるよな」と笑っていたが、俺は生きた心地がしなかった。
だって俺はスパイだから。
スパイであることを絶対に知られてはいけない俺にとって、「スッパイ! スッパイ!」と連呼されることが、どれほど恐怖だったかわかるだろうか。
すっかり調子を狂わせられた俺は、「急用を思い出した」と言って、逃げ帰ることしかできなかった。
またある時は、「スパイスパイ」なるものを「娘が作ってくれた」と言って持ってきた。
「スパイスを効かせたミートパイだから、娘がそう名付けていた」というのだ。
(だったら「スパイスミートパイ」でもいいだろ! スパイスパイってなんだよ! 娘、なんか知ってるのか!?)
と怖くなって、その時も早々に逃げ帰った。
またある時は、女に「図書館にお勤めなんですか?」と聞かれた。
俺は表面上、商会に勤めていることになっているので、「違うけど、なんでそう思ったの?」と聞くと、「娘が『お母様、館長さんに会いに行くの?』と聞いてきたので。娘と知り合いなんですか?」と言われたのだ。
かんちょうさん…まさか、「間諜さん」ってことか?
なにその娘!? 何を知ってるの!?
でも女は俺のことを信じ切っているように見える。疑っているのは、きっと娘だけなのだ。
だから、娘から離れた場所で会えばうまくいくと思った。そのために「アソコカ領に旅行に行こう」と誘ったのだ。
女は大喜びで誘いに乗った。よし、アソコカ領の宿屋で、今度こそ俺の本領発揮だ。
と思っていたのに、「ココドコ村でココヨ飴を買っていくので、そのあとで待ち合わせましょう」と言われた。
俺たちスパイの間で、「ココドコ村のココヨ飴」は特別な意味を持つ。
ココヨ飴を売っているのは組織の者で、隠語で情報交換が行われているのだ。
でもあの女が組織に関係しているとはさすがに思えなかったので、ただの偶然だろうと思っていた。
しかし、女はココドコ村で死んだ。たしかに、ココドコ村では病が蔓延していたが、死ぬような病ではなかったのに。ココドコ村の流行り病で死んだのは、寿命が近かったような年寄りと、あの女だけだった。
村の封鎖が解かれてからココヨ飴の店に行って、女とのやり取りを詳しく聞いた。
すると、このような会話だったという。
店「何かお探しですか?」
女「アソコカ領に行く前に、娘に、ここの飴を買ってくるように頼まれたんです」
店「まあそうなんですか」
女「帰りにも寄るように言われたんですよ」
この「行く前」「帰り」という言い方が、「表も裏も」に通じるので「裏の組織に用がある」という意味になる。しかし、このくらいは普通に言うかもしれないので、大事なのは次の言葉だ。
女「娘が『体が不調な時にも食べられるやつ』と言ってましたが、ありますか」
これだ。「不調」と「符牒」をかけているので、「今から隠語で話しますよ」という合図になるのだ。
店「うちの飴はみんな体に優しいですよ。どういう飴がいいのでしょう?」
(どういう用なのか)
女「王子殿下にも食べさせたいって言ってたから、それなりのものがいいかしら」
(王室に怪しい動きがあるから対処したい)
店「王室に献上されるということでしょうか」
(王室に関わる同志に知らせる事態か)
女「いいえ、個人的にお渡しするだけですわ」
(個人で処理するから心配するな)
店「では、この飴をおすすめしますわ。あとこれ、良かったらご試食にどうぞ」
(無難な飴と一緒に、毒入りの飴を渡すからうまく使え)
という会話をしていたのである。
つまり、女は自分で毒入りの飴を受け取り、それを飲んで死んだということだ。
いったいどういうことなのだ。偶然でこんな会話ができるものなのか。
「行き帰り」「不調」「王子」のワードは、すべて娘が女に伝えていたらしい。
ということは、娘が、隠語を全部わかっていて、毒を飲むように仕向けたのか?
いや、いくらなんでもありえないだろう。
俺がスパイであることを悟らせるような失敗は、どう考えてもしていない。
酸っぱいもスパイスパイも偶然だ。館長もなんらかの勘違いだ。
そんな、会ったこともないのに「何もかもお見通し」みたいな人間が、いるわけがない。
でも…何とも言えない気持ち悪さを感じて、道端に立ち尽くしていると、「ちょっとすみません」と話しかけられた。
「僕は騎士団で調査員をやっています。ココドコ村で亡くなった女性を調べているんですが…」
え? あの女のことを調べている?
調査員は「その女性と待ち合わせしていた男性がいるはずなんですが…」と話しながら、何か落とした。
コロコロと足元に転がってきたので拾い上げると、それは浣腸だった。
かんちょう…?
「あっごめんなさい! 最近腹の調子が悪いって言ったら、その亡くなった女性の娘さんが、『これでお通じは一発だから』って言ってもたせてくれたんですよ。 ははは、こんなとこで落とすなんて恥ずかしいな」
調査員は照れて真っ赤になっていたが、俺は真っ青になっていた。
「あの女の娘が、もたせてくれた」「かんちょうを」「お通じ(内通?)は一発だから」
怖い。女の娘が怖い。たぶん俺はもう逃げられない。
まだ有益な情報も受け取っていないし、死罪を免れる可能性があると信じ、俺は調査員に自首して、洗いざらい白状したのであった。
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