観光ガイド本は読み込む方
目的もなく歩いていたから迷子っていう概念はないけれど、あんまり人が来ないようなところに来てしまった。
細い運河に荷物を積んだボロいゴンドラがのんびり進んでいる。
周りは普通に人が住んでいる一般住宅で、子供が遊ぶ騒ぎ声とかおばさんがおしゃべりをする高い声が遠くからかすかに聞こえてくる。
首都は大きな街だけあって、下町みたいな一角もあるらしい。
「お土産、買うような場所じゃないな……」
運河に沿って歩きつつ、橋の下の影で一旦休憩する。
どうやって時間を潰そうか考えていると、果物を山盛り積んだゴンドラが流れてきた。あれに乗るのも楽しそうだと眺めていると、船頭のお爺さんが無言のまま果物を投げてきた。
多分、迷い込んできた観光客に優しくしてくれたんだと思う。
「ありがとー」
通り過ぎていくゴンドラに声を掛けたけど、やっぱり無言のまま進んでいった。
この無愛想な感じ、逆に海外の観光地っぽい。
試しに食べてみると、熟れ過ぎて酒っぽい味がしたけど、ギリギリ腐ってないはず。
やることもないし、まだ時間は早いけど神殿に戻るか。
時計塔が見えているからそれを目印に迷わず行けるけど、アリベルはあの人込みでどこまで流されたんだろう。
ドジっ子のアリベルが迷子になっていないか心配だけど、首都には前に住んでて庭だって言っていたし。
でも、そんなことを言っていて本当に詳しい奴に会ったことがない。
「おーい、ルカ」
そんなことを考えていると、橋の上から懐かしい声が聞こえてきた。
影から出て橋を見上げると、久しぶりに見る顔があった。
「あ、ゆぅ兄ちゃん!」
橋の上からふらふらと手を振って俺を見下ろしていたのは、狩刃家次男のゆぅ兄だった。
多分こっちの世界に来ているだろうと思っていたけど、思わぬ再会だからやっぱり嬉しい。
でも、狩刃家で一番人格の安定しない二重人格のゆぅ兄だから、手放しで喜ぶことはできない。
不真面目で授業をサボって酒とセックスとギャンブルに溺れる私立大学生のゆぅ兄か。
真面目で朝晩の祈りを欠かさずミリ単位で仕事を片付けるゆぅ兄か。
「お前、今何してんだ?」
ゆぅ兄はそう言いながら、俺に火の付いた吸いかけの煙草を指で弾いて投げてきた。
この様子だと、キシキシの金髪と軽薄な笑顔がよく似合う高偏差値のバカ大学生で、最近調子に乗っているからという謎の理由で俺が大事にしていた元祖小紅をミキサーにかけた方のゆぅ兄だ。
火の付いた煙草を一応受け止めて指に挟む。
吸っているフリだけでもしないと、俺の煙草が吸えないのかって根性焼きされたりするし。
このタイプのゆぅ兄は、俺に根性焼きしたくて煙草を渡してくることがほとんどだけど。
「俺は、神王候補のボディーガードみたいなことやってるよ。ゆぅ兄は?」
「教えなーい」
「兄貴も来てる?もう会った?」
「知らねー」
ゆぅ兄は、煙草を吸いながらそう言ってケラケラと笑った。
この人格の時のゆぅ兄のこういう態度は、いつものことだ。
「ゆぅ兄も神王候補に呼ばれたんだろ?誰?」
「ルカは可愛い子に使われてて、いいよなぁ」
「……見たのか?」
「女子に囲まれてさぁ、でも、赤毛の子は弱そうだし、候補者は車椅子だし、殺るなら一瞬で終わるな」
「……」
首都にいる俺とアリベルを見たのかと思ったけど、今日来ていないソフィアのことも知っている。
ということは、あの屋敷に俺たちが避難していることも知っているのか。
「でもさぁ、人間に化けてる神竜、あれはレアだよな。殺す前に一発ヤってみてぇ」
「そこまで知ってるんだ」
俺はゆぅ兄の顔を見た。
いつもの軽薄な笑顔で、煙草を吹かして、欄干にもたれている。
でも、目が笑っていないのは、このタイプの時は珍しくない。
殺し屋の仕事は、ターゲットが被ったら一緒に殺せばいい。
だから、今まで狩刃家の中で仕事が被ったとかでトラブルになったことはない。
でも、今俺がやっているのはボディーガードだ。
ゆぅ兄がソフィアとアリベルを殺そうとしたら、敵対してでも守らないといけない……と、思う。
ソフィアは、この世界で殺人は罪だし、自分以外の候補者を殺すなんてわかりやすいことをしたら絶対に疑われるって言っていた。
でも、神王候補者が全員ソフィアほど冷静かわからない。
何より狩刃家の兄2人は血の気が多いから、全員殺しちゃおうって話に進んでいるかもしれない。
「ルカ、あのさぁ、俺達、随分長い間兄弟やってたよな」
俺が黙っていると、欄干から身を乗り出してゆぅ兄が突然何か言い出した。
「そうかなぁ?普通の兄弟よりも短いと思うけど」
「いいや、充分だ。もう充分だよ」
「俺が弟なの、嫌になったの?」
「違ぇよ、ばーか。俺たちも、もう一人立ちの時期だってこと」
「ああ、そっか……」
「じゃあ、それまで元気でなー」
ゆぅ兄は、言いたいことだけ言ってさっさと姿を消した。
追いかけようかと思ったけど、あの様子だとソフィアに付いている俺と手を組む気は無さそうだ。
普通だったら兄であるゆぅ兄に従うところだけど、ここは異世界で、狩刃の名前を誰も知らない場所。
だから、俺がゆぅ兄を裏切ってソフィアを守ることだってできる。
「今の小紅なら、ミキサーにかけられることもないし……」
橋の上はもう空っぽで、さっきまでゆぅ兄がもたれていた欄干だけが残っていた。
長い間兄弟やってたよな、とゆぅ兄は言った。
今は、それが別れの言葉なのか、それとも単なる酔っ払いの独り言なのか、俺には判断できなかった。
ただ、テンションはいまいち上がらないままだった。




